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 三輪直行はぬめっとしたものが嫌いだ。   触角のあるヌメヌメ虫が跋扈する梅雨時も嫌いだし、最初にナマコを食そうと思った人間の気が知れない。  思いがけずぬめっとしたものに出くわした時ほど、三輪を苛立たせることはなかった。夜食用に買ってきたヨーグルトがアロエ入りだった時など、まさにそうだ。 「なんだってヨーグルトにヌルヌルの多肉植物なんかが入ってるんだ……」  仕方なく小腹を満たすことは諦め、冷蔵庫の中から有料のミネラルウォーターを取り出す。喉の渇きを癒すと、タブレットを起ち上げて、社用のアドレスに届いているメールを確認した。別に仕事の虫を気取りたいわけではなく、待ち人が現れるまでの時間潰しだ。  ここ数年、金曜の夜はこうしてホテルで過ごすのが、三輪の習慣になっている。  朝寝をした後、近くのレストランで普段より少しいいものを食べて帰宅する。日曜日には溜まっていた家事をこなし、月曜からはまた人並みに仕事に追われて過ごす。社会に出て十年、三輪はほぼ例外なくこのサイクルを繰り返していた。  深夜残業に休日出勤が当たり前と言われている広告業界で、三輪のように自分本位なライフスタイルを貫く者は多くない。当然周囲からの評価は辛くなったが、特に気にならなかった。自分は自分、人は人。三輪は日本のビジネスマンらしからぬ、徹底した個人主義者だった。 「――む」  無表情でメールチェックをしていた三輪は、受信トレイに見知ったアドレスを見つけ、ピクリと眉を動かした。差出人は部下の一人で、件名に「予定の最終確認です」とある。 『お疲れ様です。本日二十時、赤坂にて予定通り斉木さんの送別会を行います。幹事の播磨から主任は不参加と聞きましたが、念のためお店の場所をお知らせしておきます。香川』  仕事の用件かと思いきや、どうでもいい内容の内輪メール。ご丁寧に地図の画像まで添付してある。  三輪は添付されたファイルも開かずに、躊躇なくメールを削除した。飲み会の類も、馴れ合うのも好きじゃない。  引き続き残りのメールをやっつけていると、控え目なノックの音が聞こえてきた。ようやく待ち人が到着したらしい。  時間通りであることを確認し、タブレットの電源を落とす。ドアを開けると、目の前にラベンダー色のドレスに薄手のコートを羽織った若い女性が立っていた。 「こんばんは。クラブカンタレラのユキナです。お電話をいただいたスズキ様ですか?」 「――ええ、そうです。どうぞ入ってください」 「失礼します」  女性を部屋に招き入れ、ろくに顔も見ずに備品のハンガーを手渡す。女性はコートをウォークインクローゼットにしまい、当然のようにシャワールームのドアノブに手をかけた。 「ああ、シャワーの必要はありません。服もそのままで大丈夫です」  ベッドに向かいながら告げると、女性は動きを止めて、まじまじと三輪を見つめてくる。 「どうかしましたか?」 「いえ……。店からは聞いてましたけど、手で奉仕するだけって本当なんですね。追加料金なしで他にもいろいろサービスできますよ?」 「知っています。でもこういうことに何を望むかは人それぞれでしょう」 「もちろん、それはそうですけど……」  口では肯定しながらも、女性は不可解そうに首を傾げている。手で慰めてもらうためだけに大枚をはたく三輪の心理が、彼女には理解できないのだろう。 (――料金内でいろいろ楽しむ、か。そんなもの、やれるものならとっくにやっている)  三輪はいわゆる普通のセックスをしたことがない。  ヌルついた体液を他人と交換し合う性行為は、三輪にとって鬼門中の鬼門だった。  そもそも三輪のヌメヌメ嫌いは、夜中に泥酔状態で帰ってきた義父に、酒臭いディープキスをかまされたことが発端なのだ。  もちろん義父に他意はない。背格好の似た母と見間違えただけだと頭ではわかっている。だが十五歳の少年にとって、口の中に舌を捻じ込まれるという体験は刺激が強すぎた。結果三輪は、舌や体液を思い起こさせるものに、強い拒否反応を示すようになってしまった。  キスもセックスもできない自分に、恋人は作れない。一方で若く健康な体はこちらの苦悩などおかまいなしで、欲望の捌け口を求めて疼いた。どうしたものかと悩んだ末に辿り着いたのが、この週末限定の火遊びだ。  ホテルに玄人の女性を呼び、手淫をお願いする。体液が飛散するのを防ぐため、挿入もしないのにコンドームを着用した。自慰の延長のような行為でも体はそれなりに満足する。 「勝手を言ってすみません。気が乗らないようなら他の方にお願いしましょうか?」 「やだ、冗談でしょう? スズキ様、美形だし紳士だし、その上ラクできてラッキーです。次はぜひ指名してくださいね」  そう言って、女性が嫣然と微笑む。  これまでそうだったように、この先もずっとこうして知らない相手と週末を過ごすのだろう。少しばかり虚しく思わないこともないけれど、こんな希薄な繋がりが自分には相応しいような気がした。
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