床屋

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床屋

 そろそろ、この床屋は畳もうと思っている。  私は今年で八十歳になる。  鋏の扱いも剃刀の扱いも、まだまだできるという自負はあるが、自分の人生を振り返った時、あまりにも”そのまま”過ぎて劣等感を抱く。  今更、夫婦で旅に出る気力も無いのだが、何だか長い時間を喪失したような気持ちになっていた。  劣等感とは、誰かと比べて抱くもの。  その私に劣等感を抱かせる友達が、また私の床屋にやって来た。 「今日もよろしく頼むよ」  この男は小学校からの同級生の清田だ。  当時は、私が住んでいる田舎からエリート警察官が誕生したって話題になった。  それが清田で、彼は新潟で最も犯罪が多い町に勤務したのち、実力が買われて東京へ行き、そこでも敏腕を発揮したと、人伝で聞いたことがある。  それなのに清田自身はいつも気さくな人間で、本当に自分と差を感じてしまい、そうやって劣等感を抱いてしまう自分も嫌だ。  本当は私も清田のように、いろんな街で活躍したかった。  やっぱりあの学生時代に、もっと勉強する方向で進路を決めれば良かった。  でも私は親の床屋を継ぐことを選んでしまった。  そのことに後悔したのは三十歳になった時だ。  それから風の噂、というか同窓会で『あの難事件を解決したのは清田だ』や『清田が作ったルールで今、快活に街が回っている』など、本人以外の口からたくさん武勇伝を聞いた。  本人はずっと忙しくて、同窓会にも参加できていなくて、清田自身と再会したのは、この床屋だった。  清田は「最期は地元で過ごしたくてな」と言っていた。  私だったら老後は都会で住みたいが、今もこうやって田舎で床屋をしている。 「志村、今日も全体的に短くカットする感じで頼む。なんとか二枚目になるようにな!」  そう言って笑った清田。 「いや、同じ八十歳とは思えないほど清田は男前だよ」 「そんなことないだろ、結局俺はパートナーと巡り合えなかったんだから」 「それは清田が仕事を優先していたからだろ?」 「仕事ねぇ、俺はさ、志村が羨ましいよ」  仕事という言葉の流れから急に”羨ましい”と言われて、私は目を丸くしていると、清田が続けてこう言った。 「警察官は六十そこそこで定年退職になる。それから街の仕事に関わらせてももらったが、今は仕事を一切していない。家庭菜園が最後の砦だ。でも志村は違う。今も手に職をつけて働いている。それは素晴らしいことだよ」  そんなこと考えたこともなかった。  そうか、今も働ている私が羨ましい、と。  いやでも、 「仕事をやり切った、清田も素晴らしいと思うよ」 「いや平和に完結なんてことないし、床屋に完結なんてこともないだろ? 今もやり続けている志村のことを尊敬しているよ」  まさかあの清田からこんなことを言ってもらえるなんて、と、正直心が躍ってしまった。  最後に清田は笑顔でこう言った。 「まあ一番は俺の話し相手になってくれていて本当に有難いんだけどな。俺は家にいると誰とも話す相手がいないからさ。これからもよろしくな」  屈託の無い表情でそう言った清田。  ずっとどこかで私の仕事なんて、と思っていたが、そう考えれば悪くもないじゃないか。  そうか、全ては考え方次第か。  この田舎唯一の床屋として、やり続けることも良いことなのかもしれないな。  これが今ある、私にしかできないことなのだから。 (了)
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