八 蘭奢待の香り

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八 蘭奢待の香り

結局、春は来なかった。夫子持ちだと知りながらも、関係をもった私にできることは謝ることだけだった。次の日に春から『今までありがとう』と一言メッセージが来て、部屋の鍵が送られて来た。そしてその後、連絡をすることはなかった。 あの前日、山下さんからの着信に気付いた春は、黙ってスマートフォンの画面をあたしに見せてきた。 「こんな時間になんであいつから電話がかかってくるの」 「わからないよ、何かあったのかもしれない。貸して」 スマートフォンを取ろうと手を伸ばすと、春が受話ボタンをタッチした。「山下先生ですよね」と春が言う。落ち着いていない彼女を見ながら、あたしの感情も同じそれだった。 「ハル」 あたしの強い口調に、はっとした春は、そのまま電話を切った。 「ごめんなさい」 と言う春をあたしは、また冷たい目で見つめてしまった。 「なんでそんな風に見るの。仕事の話なんでしょ。早くかけ直しなよ」 瞬時に変わる春の態度を、愛しいと思えなくなっていた。 玄関の扉を開け、鍵だけを持って山下さんに電話をかける。出ない。 近くのバス停のベンチに座り、この季節にはあり得ない程の薄着で出て来てしまったことに今さら後悔する。滞在するのは五分が限界で、踵を返した。 家に戻ると、三十分前までいた春はいなくなり、机の上に『帰ります』と書かれたメモが残されていた。安心している自分を感じながら、このままにしておけないことにも気付いていた。 部屋の電気を消し、ベッドに横たわる。春からの電話で、山下さんはどんな気持ちになったのだろう。山下さんが前の仕事を辞めたことと、春は関係しているのだろうか。知ったところで、あたしが何をできるでもない。だけど、あたしは今、あの子の何かを知りたい。 ピロン 山下さんからメッセージが届く。今なら彼女と素直に話せるかもしれない。 「会いたい」と告げると、彼女は了承してくれた。 バイクの後ろに感じる山下さんは、あたしの腹部を確かめるように掴んだ。この子は面白い。ものすごく自分に正直な言動なのだけど、それを気付かれないようにしようと細心の注意を払っていると、相手に気付かせている。 あたしの部屋に来るとソファの隅に自分を押し込むように座った。あたしも距離を取りながら座る。恐る恐る聞いた「ハルの家とは何があったの」と言う質問に、山下さんは「すみません。詳しくはお答えできないです。でも、そのせいで私が教員を辞めたということはないです」ときっぱり言った。 春は、この言葉を聞いたらどう思うのだろう。怒るのだろうか、それとも救われるのだろうか。 山下さんが教員を辞めた理由を聞いた。何が正解なのかは、その世界に身を置かなければ、あたしのそこでの正義は決まらない。あたしがその中にいたら、あたしは山下さんのことを鬱陶しく思うかもしれない。でも、それは多分、志の高さに自分の思慮の浅さが際立つから。山下さんは芯があったのだろう。本当はそういう人がその社会を変えるっていうのも、あたしたちは、なんとなく気付いている。変人と言われる人、嫌われる人しか導けない変化があると。 「あたしは、そう思う。」 それぐらいしかあたしには言えない。そして、もし、山下さんがあたしの「先生」だったら、あたしを大切にしてくれていた。 そんなことを伝えると、山下さんはあたしのことを「好き」だと言った。それは恋人になりたいものだと。「嬉しい」と伝えると、彼女は驚いた表情を見せた。でも、「付き合って」とは言わないとも。そんなずるさを、自覚せず自分を守ろうとするところも「山下さん」なんだ。彼女は自分を不正解だと言いながらも、もう一度それに抗い向かい合おうと言った。 あたしも、自分の気持ちに向かい合おう。整理して、憎まれても、正解を探して行こう。 その日の仕事終わり、春から 『今日は二十三時頃になる』 とメッセージが入った。 『春ごめん。』 メッセージを続けて、 『あたし、山下さんのことが好きだ』 唐突な文面を送る。すぐに春から着信がある。 初めて聞く電話越しの春の音は、始めから上ずったようだった。 山下さんは、シフトを昼間の週三に減らした。七月と八月はシフトを入れず、受験に専念すると言った。職場のみんなでそれを応援するように、原さんはシフトを増やし、店長は以前のように、あたしと同じく毎日出勤者になった。 「山下ちゃん落ちてくんねえかなあ。俺休みてえよ」 と言う店長に、 「店長まじで黙れ」 原さんがばっさり切りつける。あたしは横で「そうだそうだ、黙れ黙れ」と賛同する。深夜の品出しやレジ締めは、また店長と二人で行うようになった。 十月中旬。 原さんと昼食をとっていると、山下さんから『受かりました』とメッセージが入った。 「すごい、やるねえ。まじでおめでとう!って送っといて」 原さんが、「チョコでもお祝いに買おう」と控え室を出て行った。 『おめでとう! お疲れ様でした。 原さんが、まじでおめでとうって言ってます笑 今日ジュン行ける?』 すぐに返信が来る。 『ありがとうございます。 もちろんオッケーです! というか、今日締め作業手伝いに行きます。 店長に伝えておいてください。笑』 視覚情報が、二人きりになれることへの高揚を体に知らせた。 「じゃあ今日は二人で頼むよ。あー俺の優雅な店長生活は終焉かよ」 店長はそう言うと早々に仕事を上がった。 閉店間際、 「お疲れ様です」 山下さんが出勤した。 「お疲れ、と言うかおめでとう。十一時には店出よう」 「ありがとうございます。ひとまず安心しました。はい、頑張りましょう」 山下さんが笑う。   「今日も誤差ゼロ。さすがです」 計上作業が終わった山下さんに、あたしは「ありがとう」と言いながら、レジを挟んで山下さんと向かい合わせで品出しを行う。入荷したシューズからは、布やインクの新しい匂いがする。 「三月から、新しい子入ってくれないと回らないよ。山下さんの穴は大きすぎる。寂しくなるし」 「ありがとうございます」 本心だった。山下さんがいなくなったら、この店に大きな穴が空く。 「らんじゃさん、蘭奢待って知ってますか」 「前に言ってたお笑いの」 「蘭奢待という香木があるんです。蘭奢待はすごく貴重な物なんです。織田信長や足利義政、明治天皇もその香りを欲して、手に入れたそうです。」 「へえ。香木か」 「時の権力者がそこまでその香りを欲したということを知った時、私、祈るような気持ちを抱いたんです」 「祈り?」 「はい。どうかその香りを嗅いだ時、その人たちの心が救われていますように。と」 「ほう」 「多分その香りに出会えるような権力を手に入れるために、多くの犠牲があったと思うんです。そして、それを招いた自分に、きっと後ろめたさや悲しさを抱えていたとも思うんです。剣でも、城でも、芸術品でも、音楽でもなく、香りを欲した。本当に、その時にしか出会えない、心にしかしまっておけないもの。それを手にできたことで、自分への猜疑心から解放されていたらいいなって思ったんです。すみませんわかりにくい話をしてしまいました」 山下さんは恥ずかしそうに続けた。 「だから私、ランジャタイが好きなんです。あのコンビがそういうことを思っているのかは分からないし、違うのかもしれないけど、でも彼らの刹那的に笑えることを本気で取り組んでいる姿がかっこいいし、とにかく笑えて仕方がないんです」 「ランジャタイ、かっこいいね」 「私にとってらんじゃさんは、そんな感じです。みんなから求められる、貴重な人。自分のものにしたくなってしまいそうになる貴重な人。らんじゃさんからの優しい言動は、私の心をいつも救ってくれます」 山下さんは、「あれ、変なこと言ってます」と少し焦った。 「すごい高評価。ありがたいです」 笑いながら、次に言うことは決めていた。 「あたしさ、山下さんがうちに来てくれた次の日に、春と別れたんだよね」 山下さんが手を止めて、あたしの方を見る。 「私のせいですか」 「そうです」 笑うあたしに、山下さんは目を合わせる。 「えっ」 すぐに視線を下げようとする彼女を見つめる。 「あたしさ、山下さんのことが好きです。恋人になりたい、好き、です」 山下さんの瞳にあたしが映る。 伝えたい言葉は、もう決まっていた。 「あたしと付き合ってくれますか」 山下さんは自分の両手を握り合わせ、浅く頷く。 「はい」 店内の新しい物たちの希望の香りが、あたしたちを静かに祝福してくれた。
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