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二 純白の血液
ハルに会ったのは二年前。閉店間際のあたししかいない店内で、ハルは万引きをしようとしていた。レジ付近のジャージ衣類をハンガーにかけて品出しを行なっているあたしの横に、ハルは音も立てずにすっと立っていた。美しい顔立ちに見入った瞬間、ハルの細い腕は、畳んである棚上のジャージをゆっくりと取り、そのままエコバッグの中に入れた。
「お客様」
声をかけると、「あ」と言って、あたしを見た。
多分ハルは、その時初めてあたしの存在に気付いたんだと思う。もう、生気の無いまっすぐな目で、万引きをしていたから。
「かごはお持ちですか」
いや、これまずいだろ、と思いながらも、近くにあった店のかごを渡そうと手に取る。
「いえ、私今、万引きしたんです」
震える声が空気を伝う。
「私には、かごと間違えてバッグに入れたように見えました。商品を一度お預かりしますね」
そう言って手を差し出すと、ハルは涙を流しながら両手であたしの手を握った。「すみません」と言いながら、ハルは声を出さずに目を閉じ、数分間そのまま涙を流し続けた。ハルの左手薬指の指輪が冷んやりとした。誰もいない店内で、握手をしている店員と客。最新の洋楽を流す有線が店内に響き渡る。本当はもう閉店を知らせる「ホタルノヒカリ」を流す時間だった。
ハルが、ゆっくり手を離し。「ありがとうございます。もう、しません」と俯いて言った。
「今日はもう店を閉めるので、よかったら送って行きましょうか」
ハルの体温を感じていた手の平が、彼女にもっと触りたいと言う。
「いえ、大丈夫です。一人で帰れます」
「お茶して行きませんか。あたし、この時間でもやっているカフェ知ってるんですよ。この時間だし、三十分帰るの遅くなっても変わらないんじゃないですか」
初対面のお客様に無責任な言葉をかける。
「たしかに」
泣き顔だったハルが目を細めて笑った。ハルを抱きしめたいと全身が言う。あたしの強い理性が、ものすごい力で欲望を抑制してくれた。
ハルはあたしのことを最初から、「友達」として全身で受け入れてくれた。初めてあたしの家で肌を重ねた時も、同じ体のつくりをしていることに戸惑っている様子は無かった。ハルは腰回りの脂肪をひどく嫌っていたが、あたしにはそれがたまらなく愛おしかった。ハルの笑顔も泣き顔も怒り顔も全てが美しい。ハルがあたしを求めてくれている限り、あたしはハルとずっと一緒にいたいと思った。「蘭ちゃんといる時は、本当の私になれる」ハルの口癖は、あたしをいつでも幸せで包んでくれた。
一月の感謝祭前日。ハルは旦那とうちの店で買い物をしたらしい。その時、ランニングシューズ売り場にいた山下さんを見かけたのだと言う。その日の夜、「あいつは、うちの子をぐちゃぐちゃにした張本人だ」と言った。ハルの子供は双子で、十三歳。姉の雪は小学三年生から、家で引きこもる生活を送っている。雪が三年生の時の担任が山下さんだった。山下さんの対応のせいで、雪は不登校になったのだとハルが言う。詳しく聞こうとすると、思い出したくないと言って機嫌がさらに悪くなる。
「蘭ちゃんさ、副店長なんだから、あの女が何で前職辞めたとか知ってんでしょ」
「知らないよ。うちの店、人手不足だからそこまで聞かない」
「そんなことある。て言うか、何その言い方」
人が、ヒステリックになる前兆の低い声。あたし今まずいこと言ったか。
「蘭ちゃんは、あいつが同僚だからって、庇ってんの。普通に考えて、前職公務員の奴が来たら辞めた理由聞くでしょ」
だんだんと甲高くなる音。まっすぐ向き合うと、こちらがやられそうだ。
「あの女が雪の担任になったせいで、私の家庭は壊れ始めたの。あいつのこと、殺してやりたいぐらい憎んでるの」
「殺すって。言い過ぎじゃない」
初めてハルを冷たい目で見たかもしれない。目、鼻、口を中央に寄らせ、みるみるハルの顔が崩れていく。不細工になるはずのシチュエーションでも、ハルの顔は美しい。涙と鼻水を流す彼女を抱きしめようとする。途端、あたしの手を振りほどき、ベッドのマットレスを思い切り叩き始めた。布団に顔を押し当て「あーっ」と思い切り声を出すハルは、幼い子供が思い通りにならなくて癇癪を起こすそれだ。「出て行って」深夜のアパートにハルの声が響く。あたしは深いため息をついて数秒その光景を眺めると、いかれてしまった彼女を背中に、家を出る。一月の風が首元を刺した。
午前二時。ネットカフェから部屋に戻ると、ハルはあたしの部屋着を手に持ち、それに顔を埋めるようにして、ほんの短い眠りについていた。長い睫毛は涙でまとまり、目尻から頭皮にかけて乾いた涙の跡が線になっている。幅の狭い二重瞼と筋の通った鼻は赤く腫れている。白髪混じりで短いハルの髪の毛を、指の間に通すようにして触る。ハルの狂気に触れてもなお、この子を愛しく感じるのは、本物の愛だからなのだろうか。それとも、傷つくことへの自己防衛本能が、愛を錯覚させているのだろうか。
店長にアルバイトの面接を頼むと言われ、山下さんと面接をした。以前は小学校で教員をしていた三十一歳女性の方。後ろで一つに結んだ黒髪と、紺色のパンツスーツが前職の雰囲気を漂わせていた。マスクの折り目をきちりとさせる仕草が、いかにも緊張している様子だった。
「副店長の江口です。よろしくお願いします。緊張してますか」
あたしの問いかけに「はは」と笑い、
「すみません。分かりますか」
膝に置いた両手を口元に当てマスクの紐を触った。
「全然緊張しなくていいですからね。うちの店、ゆるいんで」
パイプ椅子に座る。
「前は小学校の先生だったんですね」
「はい」
山下さんが背筋を正した。
「うち時給千円ですけど、前より収入下がっちゃっても大丈夫ですか。あと、バイトの子には住宅手当とかもないんですけど」
「あ、はい。実家暮らしなので問題ありません。学生時代スポーツ用品店でしか働いたことがなくて。少しでも慣れた環境で働きたいと思っています」
「分かりました。何か質問とかあります」
山下さんが「いえ、」と言いかけたところに「らんちゃん」と原さんが入って来た。
「あ、ごめん面接中だった。後でいいや。こんにちは」
そう言うとパタンと扉を閉めた。面接を行なっていると知っていたはずだ。どのような人か気になっただけだろう。原さんの行動は、心の中が明け透けで笑ってしまう。
「彼女は面白い人です」
手のひらを扉の方に向けながら言うと、山下さんが笑った。
「驚きました。副店長さんは、らんじゃさんっておっしゃるんですか」
「いや、らんちゃんね。らんちゃんって呼ばれてるんです」
「そうなんですね。失礼しました。私お笑いが好きで。てっきりランジャタイが好きなのかと思って」
「ランジャタイって、あのお笑い賞レース優勝の」
「はい。私あのコンビ大好きで」
「らんじゃさん。面白い名前」
「すみません。あの、私からは特に質問はありません」
「了解です。じゃあ、また連絡しますね」
山下さんは「これで終わりですか」と驚いた表情を浮かべた。
「うち人手不足なんで、そんなに根掘り葉掘り聞いたからどうってこともないんで」
「失礼しました。それでは、ご検討よろしくお願いします」
山下さんは深々とお辞儀をして部屋を出ていった。まあ、採用だろう。言葉遣いも態度も問題なし。真面目そうな人柄はむしろ有難い人材だ。
山下さんは面接での印象通りの人だった。物腰柔らかで明るくて、とにかく仕事をすぐに覚えようと、一生懸命に働いてくれていた。昼夜問わずシフトを入れてくれるのも、店としては非常に助かった。何せ、あのワーカーホリック店長が休みを積極的に取るようになった。山下さんが入って二ヶ月経つ頃には、店の締め作業は、大体いつも二人で行うようになった。彼女がよく行くと言っていたラーメン屋に連れて行ってくれた時には、あたしに対して心を開いてくれた感じがした。パンクロックが店中に大音量でかけられていて、とにかくラーメンがうまい。店主のぼそっとした風体も最高だった。あたし好みの店だと言うと、山下さんは顔を赤らめ「ほっとした」と言って喜んだ。彼女からは、いつも正解を探して生きているような匂いを感じる。
閉店後の店内で山下さんに初めてハルの話をした時、彼女は食い入るでも無関心でもなく、品出しをしながら「へえ」とか「ほお」とか言いながら聞いてくれた。偏見なく楽しんで、他人の恋愛事情を「エンターテイメント」だと言って聞く姿勢が、何だか気持ちよかった。そう言われては、と大げさに話をしたこともある。十二月にシーズン商品の品出しを行っていた時、「らんじゃさんは、彼女さんに何かプレゼントするんですか」と聞かれた。残るものは嫌がられるから、一緒にケーキをトッピングして食べるだけだと伝えると
「以前、私も夫と同じことをしたことがあります」
と言った。
「結婚してんだね」
未婚だと思っていたと驚くと、
「以前、結婚していたんです。今はしていません」
と笑って言った。
「人生色々あるよな。本当、色々」
ハルの家族のことを考えるあたしを見て
「はい。色々ありますね」
山下さんは天井を見上げ、ぽつりと言った。
早朝四時。
「起きる時間だよ」
さっきまでいかれていたハルの頭を撫でる。そうっと目を開くと
「帰る」
ぼそっと言う。
「送って行くよ」
ダウンコートを取りに行こうとするあたしを見て
「いい。一人で帰る」
ハルは立ち上がって、洗面所に向かった。ダウンコートを掴んだ手を二秒ぐらい止めて、それから黙ってベッドに寝転ぶ。「うわっ。ひどい顔」ハルが洗面所で言う声が聞こえる。ハルは身支度を済ませると「さっきはごめんね」と言って、部屋の電気を消して家を出て行った。
「殺してやりたいほど憎いのか」
暗い天井を見て呟く。
人を殺したいとか思ったこと、今まであったかな。誰か殺せるとしたら誰を殺すんだろ。あたし、誰を殺したいんだろ。
その時ふわっとハルの子供が頭に浮かんだ。
半分はハルだけど、半分は旦那。考えると気持ち悪い。でも、半分はハルだから美しい。きっとハルの旦那の体内をめぐる血液はどろどろの黒だ。それで、ハルの血液は透き通った透明で、ハルの子供のは純白。その純白に色をつけるような出来事を、山下さんは知っているんだ。何があったんだろう。山下さんは聞いたら教えてくれるのかな。
冷たくなった足先を股に近付け、掛け布団に首まで包まる。ハルの温もりの残った布団で、ハルを感じながら目を閉じた。
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