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三 再開
休憩室の更衣場所はカーテンで仕切られている。誰もいないこの部屋で、ニットを脱ぐ音だけが、私の存在を伝える。
「おはよーございまーす。誰もいないじゃん」
カーテンの向こうで、原さんの独り言がした。舌の奥が押されるような気分。昨日はあのまま店を出た。原さんのシフトが入っていないことを願ったが、そのような願いが叶うこともなく、今こうして同じ空間に二人きりだ。
「あれ、誰か着替えてる」
原さんがこちらに話しかける。無視など出来ぬこの状態で、
「すみません、山下です。今着替えています」
腹の底から出すような声が出た。
「あ、山下さん。はーい」
いつもより少しだけトーンの下がった声が聞こえてきた。早く出て、謝ろう。早く許してもらおう。シャッとカーテンを開ける。原さんはパイプ椅子に座り、鏡で髪型を整えているようだった。私の方を見るとまっすぐ目を合わせ
「昨日は、きつい言い方してごめんね」
彼女はへへと笑って言った。
「昨日シフト上がりにらんちゃんに会って、山下さん私に声かけようとしてくれてたんだって聞いて、まじで恥ずかしくなってきちゃってさ。私もあの時浮かれてたから、あのカゴが無くなっていることにも気付かなかったし」
原さんの言葉は本心だと分かった。本当の言葉は、相手にわかる、どのような時も。そして私も、原さんに許して欲しかった。原さんは一緒に働けると嬉しい人だから。
「いえ、私が言われていたのに声をかけなかったので、本当にすみませんでした」
許してもらえたのだと分かって下げた頭は、深々としていた。
「仲直りだ。よかったー」
原さんは笑う。
「昨日さ、結局らんちゃんと店長、木嶋さんの家まで謝罪に行ったんでしょ」
「えっ、そうだったんですか」
「知らなかった。昨日、店長から確認させてくれって夕方に電話来てさ」
「そこでらんちゃんとも電話変わって話してたら、さっきのこと知ってね。結局、木嶋さんは今回は申し込みやめたみたい。ほら、あの人ルーティーンで優勝までの道のり考えてる人だからさ」
「そうだったんですね」
「あっ、時間だわ。じゃあ行ってきまーす」
時計を見て店内へ向かう原さんを送り出す。
昨日らんじゃさんは、私と一緒にラーメンを食べた後「一旦店に戻る」と言った。私が一緒に行くと言うと、「一緒に来ても山下さんには、してもらうこと何にもないの。今日は家でゆっくり休んで」と断られた。確かに、私にできることは何もない。「すみませんでした」と謝ると「もう謝らないでよ。私の責任なんだからね」と笑顔で言った。
あの後らんじゃさんは電車で二時間かけて謝罪に行ったのだ。私のせいで。一体何時に帰って来たのだろう。その間、私は何をしてた。「原さんはあの一瞬で態度を変える嫌な奴だ」とか、「らんじゃさんは優しい人だ」とか、そんなことばかり考えていただけだ。その間、私が起こした問題の解決に向けて動き、嫌な思いをしていた人たちがいることに、思考を向けなかった。
スマートフォンの時計が二十三時を表示する。
『昨日はお客様のお宅まで謝罪に行かせてしまい、すみませんでした』
送ったメッセージにらんじゃさんからの返信はない。今日はシフトを十四時で上がった。昨日の昼までは、この時間久しぶりに日中の買い物を楽しもうと思っていた。しかし、そのような気分にもなれず結局帰宅した。
「今、彼女といるのかな」
暗い天井を見上げて呟く。
肘で目を隠す。寝たいのに眠れない。
スマートフォンの着信音が鳴る。画面に「らんじゃさん」と表示されている。鼓動が速まり、画面をタッチする指が震える。
『返信遅くなってごめん!
もしかして原さんから聞いたー?
店長もついて来てくれたから、問題はおさまったよ。
またお店に行くって言ってくれてたし。
ただもう、今回はあちらも気持ち的に…ってことだったのよ。
もう、本当に気にしないでよ。
この話もう終わりね笑
それより、ニューバランスの新作スニーカーめちゃくちゃセンスいいよ。
次のシフトの時にでもチェックしてください!
じゃあねえ、おやすみ』
らんじゃさんに私はずっと救われたかった。絶対に許してくれる彼女に、許したよと言ってほしかった。らんじゃさんに会えなかった今日が、らんじゃさんに会いたがっていることを知らせた。
また『すみませんでした』とメッセージを送ろうとしていることに気付き、急いで消した。『おやすみなさい』と絵文字のスタンプを打つ。それから、私の指は再度スタンプを消し『通話』ボタンをタップする。
着信音が鳴る。長いコール数を数えながら、留守電になるかと思った時だった。
「はい」
らんじゃさんではない、誰かの声がした。冷たく、私を否定する声。言葉を出せずにいる私に、
「もしもし、山下先生ですよね」
声の主が話しかけてくる。
あ、この声知っている。
何で。
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