3人が本棚に入れています
本棚に追加
四 手紙
放課後の職員室。ここにいるのは、七名の学級担任と少人数担当、管理職三名の合計十一人。他に養護教諭、事務職員、技術員、栄養教諭の四人の机もあるが、この四人は大方事務室にいる。
学校にかかってくる電話のほとんどは、事務の本間さんがとってくれる。本間さんは保護者からも教職員からも、その人柄から人気者だった。欠席した児童の保護者から翌日の時間割などを聞かれると、全ての学級の週の時間割を把握している本間さんは、担任に繋がずにすぐに返答してくれた。「何か変更があれば担任から連絡させていただきますね」この一言を言ってくれるだけで、担任の業務が一つ減らされた。本間さんは『お家の方から時間割の連絡有り。週案通りに伝えましたので、変更あれば折り返しお願いします。本間』と担任の机にメモを置いてくれる。それで担任は保護者からの電話を把握できていた。本間さんの電話対応を通せば、どんなに怒っている保護者も一度落ち着いた。その後担任に電話が繋がれる時には保護者の思考は整理されており、問題の解決に向けて建設的な話ができていた。初任でこの学校に配属された私は、当然それが「学校の当たり前」だと思っていた。
全校児童数二百人のこの学校は、小規模校という枠組みになる。ほとんどの学年が単学級で、児童たちは一年生から六年生までずっとほとんど同じメンバーで過ごす。教員二年目となる私は、三年生の担任を任された。昨年度受け持った一年生では、どの先生からも「初任とは思えないほどしっかりと指導している」「教員になるべくしてなったんだ」というようなことを言われていたし、保護者からも「本当に先生が担任でよかった。来年もどうか先生が担任になってほしい」などと言われ、三月には結婚したことを報告すると懇談会で盛大に祝ってくれた。私の言うことに対して誠実な態度で過ごす子どもたちのことも心底可愛いと思った。私には教員としてのセンスがあるのだと信じて疑わなかった。三年生を任されることになると、春休みの間に教育雑誌を読み漁り、四月からの業務への想像を膨らませた。
学級開きでの自己紹介は子ども受けが良かった。休み時間には多くの子どもたちが「せんせい」と私の周りに集まっていた。しかし高村雪は、その輪の中に入ってこなかった。正確には、入ってくることができなかったのだと思う。高村雪は授業中も休み時間もほとんど話さない。彼女に話しかける子はいるが、自分から話しかけることはなかった。四月の連休前の放課後、彼女が忘れ物を教室に取りに来た。
「一人で来たの」
彼女は黙って頷きながら階段を下る。
「そっか、放課後は何して過ごすの」
私の質問に立ち止まり、笑顔になる。
「先生には、きょうだいいる」
初めて見る彼女の輝く表情に、
「お兄ちゃんが一人いるよ」
笑顔で答える。
「ふーん。私ね弟がいるの。ふたごなんだよ。帰ったらね、いつも弟と遊ぶんだ」
弟。双子。この学年は一クラスしかない。高村はこの子だけ。
「違う学校に通っているの」
私の質問に、彼女は私を笑顔で見上げながら、
「ちがうよー、お家にいるの。学校には行ってないよ」
子ども特有の虚言だろうか。
「そうなんだ。高村さんは弟さんと仲良しなんだね」
私の言葉に彼女は満足そうな表情を浮かべ、タッタと音をさせながら靴を履き替え帰宅した。
「高村さんって弟さんがいるんですか」
昨年彼女の担任だった馬場先生に話しかける。
「あっ、引き継ぎの時言わなかったっけ。彼女生まれた時は双子だったのよ。桜君っていうお名前の弟さん。だけど、産まれてすぐ桜君が亡くなっちゃったんだって。あの子桜君の遺骨を入れたテディベアと一緒に毎日遊ぶみたいよ。去年個人面談の時にお母さんが、いつまであれを続けるのかって呆れた様子で話してたもんな。まだ、遊んでんだ」
「みたいですね。今彼女が放課後は弟と遊ぶって言ってたんで」
そっかそっか仕方ないね、と馬場先生は目を細めて眉を下げた。
高村さんのお母さんと初めて会ったのは、五月の家庭訪問。玄関に座布団を敷き、飲み物やお菓子を用意するなどして、もてなしてくれた。弟の話やご主人が転勤が多い職業のため転校するかもしれないことなどを話すのだが、その美しい顔立ちに私は見入ってしまっていた。。
「やっぱり雪は教室で、一人でいることが多いですか」
笑顔を浮かべながらも心配そうなお母さんの様子に、
「お友達に話しかけられると、休み時間はおしゃべりをして過ごしていますよ」
濁したような返事をする。お母さんは少し安心したように、
「そうですか。優しいお友達がいてくれてありがたいです。自分からも話しかけてほしいんですけどね。雪のこと、よろしくお願いします」
そう言って、深々と頭を下げた。すごく優しいお母さんなのだろうと感じた。
九月下旬。教室内で四日も続けて物が無くなった。初めは、ものさしや消しゴム、鉛筆などだった。
「ちゃんと名前書いてあったの。書いてなかったら見つからないよ」
子どもたちの訴えに、そのように返していた。教室内で、物が無くなることはよくあることで、大体机の奥とか家にあったとか、そのようなことがほとんどだった。だから、私も、そこまで大きなことだと捉えていなかった。しかし、「体操着が無くなった」と同じ日に二人が訴えた時には、「もしかしたら誰かが盗ったのではないか」と疑った。
「全員、体操着袋を机に持って来て開いてください」
誰の袋の中からも出てこない。
「引き出しの中にも間違って入っていないか見てください」
誰の引き出しの中にも入っていない。
「ランドセルも持って来てください」
全員がぞろぞろと動き出す。
高村さんだけは動かずに下を向いている。
「高村さんも見てね」
全体に通るような大きな声で言う。彼女は動かず、睨むような視線を私に送った。
「高村さん」
さらに大きな声で呼びながら、彼女のロッカーへ向かう。途端、彼女は走って自分のランドセルをロッカーから出して掴むと、泣き始めた。
教室中がしんと静まりかえり、高村さんへ視線が注がれる。
「高村さん、ランドセルを開けてください」
私は低く静かな声で彼女に話しかける。ランドセルを無理矢理に取り上げ、開く。
体操着、鉛筆、消しゴム、ものさし、宇宙の絵の下敷き、サッカーボール柄の筆箱。子どもたちがないと訴えていたものが、そこに全てあった。
「みんな、ランドセルをしまってください」
興奮気味の声で子どもたちへ指示を出す。黙ったまま、それぞれが席へ着く。子どもたちへ自習の指示を出し、ランドセルを持った高村さんを別室へ連れて行く。
「どうして高村さんのランドセルの中に、みんなの探し物があるの」
黙って涙を流している。
話しかけながら、私の心も落ち着いていく。
一旦彼女をこの教室に置いて、気持ちが治まるのを待ってからまた来よう。
「せんせい」
高村さんの細い声が私の背中に呼びかける。
「ママには言わないで」
乳白の細い腕で涙をぬぐう。
「どうして」
椅子に座る彼女と目線を合わせるように屈む。
「ママはすごく悲しんじゃう」
「そっか、それはそうかもしれないね。まずは何でこんなことしちゃったか教えてくれる」
「おうちでね、サクがね一緒に学校に行きたいって言ったの。だけどね、ママに言ったらつれて行っちゃだめって言ったの。だったら学校で使っているものをサクの分も買ってあげてって言ったんだけどね、ママが必要ないって言うからね。だから、サクがほしそうなものを、もらって帰ろうと思ったの」
小さな口からほつほつと話される言葉から、高村さんは精一杯のお姉ちゃんとしての仕事を果たそうとしてたのだと分かった。
「優しい気持ちだったんだね」
私の言葉に高村さんはさらに涙を流した。
「でもさ、サク君もお姉ちゃんがお友達からとって来た物をもらっても悲しいかもよ」
高村さんの隣に座る。
「サク君も、お姉ちゃんのものを一緒に使いたいんじゃない」
泣きながら「みんなに返す」と言う高村さんの背中をさすった。
「ただね、お家の人には言わなきゃいけないの。こういう事がありましたって。先生が上手に言ってあげるから大丈夫。教室に戻ってみんなに謝ろうか」
あのお母さんなら、理解してくれるだろう。そう思っていた。
放課後、高村さんの家へ電話をしようとノートに出来事を整理する。職員室の電話が鳴り、教頭先生が出て話している。
「今日は本間さんお休みなんですか」
馬場先生に聞く。
「食中毒にかかっちゃったらしいよ。辛いよね」
まだ暑い日が続いているから気をつけなければと二人で話す。
「山下先生」
はい。と言いながら教頭先生の方を振り向く。
「今日なんかあったの。高村さんのお母さんなんだけど」
「あっ、今日高村さんが友達の物をとってしまっていた事がわかって」
「物を取ってしまったって、そういうことってさ、すぐに職員室に報告するんだよ。何か、すごく雰囲気悪いよお母さん。すぐに変わって」
教頭先生が電話を指差す。先ほどのメモを取ろうとすると
「今すぐ、早く」
教員を辞めたいと初めて思ったのはこの瞬間だった。
教頭先生にものすごい剣幕で呼ばれ、ボールペンだけを持って電話に出る。
「雪が泣きながら帰って来ました」
いつもの穏やかなお母さんの様子ではなかった。
「ちょうど今、高村さんのお宅に連絡させていただこうと思っていたところでした」
私は、今日までの出来事について話した。電話の向こうは、どこにいるのだろうと思うほどの静けさを感じる。相槌さえない、無音の向こう側に話しかけている気味の悪さが、私の言葉数を多くする。
「今申し上げたことについて、雪さんには指導を行いました」
「指導」
ぼつりと言う。
「はい」
私の声に合わせたかのようにブチッと電話が切れた。
高村さんのお母さんが何に憤慨されているのか、私には全く理解できなかった。
次の日高村さんは登校せず、代わりにお母さんが一通の手紙を持って来校したらしい。放課後本間さんから手紙を受け取った。本間さんが担任とは会わなくても良いのかと聞くと、必要ないと言って帰っていったとのことだった。
山下先生
今日雪が泣いて帰って来ました。何があったのか聞いても何も答えません。以前からお伝えしていた通り、雪は自分から話す事が得意な子ではありません。うまく伝えられない事が多くある子です。そのため、私は雪のランドセルにボイスレコーダーを入れさせていただいております。非常識だとは分かりつつも、親として彼女を守るための手段として行っておりました。今日、録音内容を確認し驚きました。先生があのように強い口調で雪を呼んでいること、何かをひったくるような音の後に雪の泣きながら話す声、全体の前で謝罪させられている声。先生はこれを「指導」とおっしゃっていましたが、私には指導とは到底思えないやりとりでした。親として、我が子が見えないところで大人からこのような扱いを受けていること。これほど胸の痛くなる悲しいことはありません。このような理由から、雪は今年度に限って学校へは行かせません。尚、学校からの連絡は、山下先生以外の方にお願いしたいと思います。
高村 春
この日以来、必要な連絡は全て教頭先生が行うようになり、結局、その後雪さんが学校へ来ることは、卒業ま出なかった。
最初のコメントを投稿しよう!