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六 与願印
蘭ちゃんと電話はしないと決めていた。メッセージだけのやりとりで、会うのは夫と雪の寝顔を確かめてから。私の睡眠は、ここ数年ずっと昼間のリビング。正直、家事を行いながらこの生活は苦しい。でも、今の私から蘭ちゃんを取ったら、私はどうなるのだろう。蘭ちゃんは私を子供のように「可愛い」と言って撫でてくれる。私が「蘭ちゃんは私の友達」と宣言したときも、それでも嬉しいと言っていた。蘭ちゃんは初めて私を抱いた時、とても申し訳なさそうに何度も「大丈夫」かと聞いてきた。こんなに私を気遣って大切にしてくれる人は蘭ちゃんしかいない。
夫が出張で泊まりの今日、部屋から出てくるはずのない雪の存在も忘れ、私は気が緩んでしまっていたのかもしれない。
蘭ちゃんが山下のことを『好きだ』とメッセージを送ってきた深夜のリビングで、私の指は通話ボタンを押していた。蘭ちゃんの「もしもし」という声に私のヒステリックは操作不能で、甲高い声と乱暴な言葉が流れ始めた。
「蘭ちゃんどういうこと。なんであいつなの」
蘭ちゃんは黙っている。
「あいつはさ、山下はうちをぐちゃぐちゃにしたって言ったよね。あいつが雪のこと罵って、あいつが雪のこと犯罪者に仕立て上げて、全部あたし聞いたんだよ」
「春、ごめんね」
「何ごめんねって。前に蘭ちゃん何があったか知りたいって言ってたよね。だからさ、今言ってんじゃん。だからね、山下が、」
「春、あたしは、もう春の友達ではいられない」
「なんで」
「ごめん」
「蘭ちゃん待っててよ、今から家に行くから。待っててよ」
開いていた台所の食器棚の扉を閉め、ハンガーにかかるコートを引っ張る。なんで、なんで、なんで。あの女、私から蘭ちゃんまで盗ろうとする。あいつが犯罪者だ。気持ち悪い。あいつが教員だったなんて、本当に気持ち悪い。消えろ。
「あ」
興奮する私を、目の前で雪がまっすぐに見ている。
雪のぼさぼさで、腰まで伸びた黒い髪は、静電気を帯びて広がっている。パジャマに食べ物の染みを点々とさせて、可愛くて仕方ない雪がひょろりと立ち、私を見ている。
「ママ。どこ行くの」
雪、ママって言ってくれるの。
その声が聞きたかったの。ママはね、雪に会いたかったんだよ。
「ママはね、これからお友達に会いに行くんだ」
瞳からじわりと流れる涙をそのままに、雪を見る。
「お友達って誰。いつも夜になるとずっと出かけてるいるでしょ。知ってるよ。ママがどっかに行ってるの」
「何言ってるの」
「何年か前から、ママは夜になると出て行って、朝に帰ってくる。パパだって気付いてるよ。ママは私のせいで変になっちゃったの」
「雪は何も悪くないでしょ。悪いのは、あの時の山下先生じゃない」
「ママ。あれは雪がいけなかったんだよ」
「違うでしょ」
「雪がお友達のものをとったんだよ。サクのためだと思って」
「違う」
「ママ」
「雪は何も悪くないの。山下先生が雪を悪者にしたんじゃない」
「ママ。雪が悪いんだよ」
「山下先生ね、去年先生を辞めたんだって。自分でも、悪いことをしたと思ったのよ。」
「ママ、ごめんなさい」
雪が私に抱きつく。頭皮の饐えた匂いが鼻をつく。
壁にかけてある時計は午前一時を指している。
桜、あなたのお姉ちゃんは、こんなに優しい子だったんだね。
麻酔から覚めて雪と桜を初めて目に写した時、今まで見た何よりも美しくて愛おしいという感情が湧いた。帝王切開の痛みが疼いても、二人を見ていれば心は安らいだ。退院を翌日に控えた日の朝、桜の様子が変わった。顔が青ざめ、小さな指先が冷たく固くなっていた。気付いたときには、もう桜はこの世から去っていた。
夫は初めこそ私を慰め、家事の全てを行うなどの気遣いを見せたが、仕事の疲労もあり、すぐに私は主婦業を行わざるを得なくなった。初めての育児に疲れ果てながら常に子供を失った悲しみを抱え続けることは、今までのどんなことよりも辛く苦しかった。
雪は言葉を話せるようになってから、桜の遺骨を入れたテディベアと話すようになった。初めは子供の可愛らしい遊びだと見ていたが、小学校に入学してからもそれが続いた時には、心配になって地域の療育センターへ相談に行った。しかし、そこでは幼い子供にはよくあることだと言われ終わった。雪は学校で友達の輪に自分からは入って行かず、いつも声をかけられるのを待っていた。テディベアのせいだと思い、寝ている間にこっそりと取り上げると、目を覚まして泣き、家中で暴れまわった。夫に「返してやれ」と言われた時には、まるで私が雪をいじめているかのようなその言い方に腹が立ち、「だったらあの子がコミュニケーションをはかれない理由を教えてよ」と言った。それを見てさらに泣きわめく雪の声が頭にガンガン響いた。夫が「ヒステリックを直せよ。だから雪があんなんになんだよ」と口にした時には、夫に対して殺意が湧いた。「あんたは雪に一回でも向き合ったことがあるのか」と怒鳴り散らした。
雪は三年生になると、宿題を担任のチェックもなく持ち帰ってくるようになった。問い合わせようと学校へ電話をかけると、事務の本間さんが「山下はただいま会議中でして、何かありましたか」と言って話を聞いてくれた。話し終わる頃には感情が落ち着き、「雪が宿題を出し忘れているようなので、声をかけてほしいとだけ伝えておいてください」と話した。
ある日の昼間。タブレットで動画試聴をしていると「関連動画」に、『我が子の担任問題行動録画』というものを見つけた。タッチして見ると、担任と思われる女性のヒステリックな声が聞こえ、ぞっとした。コメント欄に「これが日本の教育現場に蔓延る、たられば教師の現状」とか「これは、犯罪ではないのか?」などといった声が寄せられていた。途端に雪のことが心配になった。あの子は、家でも学校での出来事を話さない。こちらが聞いても「楽しかった」としか言わない。その言葉に安心しているようではだめだ。
そのまま、すぐに家の近くの家電量販店に向かい、ランドセルのポケットに入るサイズのボイスレコーダーを買った。
あの日、ボイスレコーダーから聞こえた担任の声は、私が想像していたよりも落ち着いていた。我が子が他人様の物をランドセルの中に溜めていたと知り、もちろん悲しかった。これは、謝罪の電話を学校に入れるべきか、迷っていたその時だった。
「ママには言わないで」
聞き間違いかと思い、再度再生する。
ママには言わないで?なぜ?先生にはこんなに上手にお話しできて、なんでママには言わないでほしいの。
「ママが必要ないって言ったから」
ママのせいなの?雪の行為はママのせいなの?私がいけないの。
今までの違和感も、今回のことも担任の山下が、細かくうちと連絡を入れていれば、こんなことにはならなかった。「ボイスレコーダー」が非常識だと理解している。しかしそれを起こさせたのは担任ではないか。多くの子の物がなくなっている事も、山下の管理不足ではないか。もっと早く気付いて対応していたら、雪がこんな大勢の物を取ることなどなかったのではないか。
学校に電話をかける。
「はい、星山小学校、青山です」
気怠そうな冷たい声。
「三年二組高山雪の保護者ですが、山下先生はいらっしゃいますか」
「山下ですか、おりますが」
ふてぶてしい話し方に苛立ちが高まる。
「今日娘が泣いて帰ってきました。その事について山下先生とお話ししたいので変わっていただいてもよろしいでしょうか」
私の語気の強まりに怯んだように、
「はい、少々お待ちください」
保留音がなる。
「お待たせしました。担任の山下です」
「雪が泣きながら帰って来ました」
「ちょうど今、高村さんのお宅に連絡させていただこうと思っていたところでした。」
担任の声で話される内容はボイスレコーダーそのままの内容だった。
「今申し上げたことについて、雪さんには指導を行いました」
「指導」
この女が、私の雪に、私に、指導。
子育てもしたことがなさそうな、夫の不憫さも子を亡くす悲しみも、我が子が他の子どもとは違うことへの戸惑いも、何もかも知らないこの女に、私は指導されたのか。
言葉が出ず、黙って電話を切った。
雪の部屋の扉を開ける。
「雪、今先生からお話を聞いたよ」
しゃくりあげながらテディベアを抱く雪を抱きしめる。
「雪は何も悪くないよ」
全部ママが悪いんだよ。ママが、先生に指導されたんだよ。雪は、何も悪くないよ。
「明日からは、ずっとおうちでサクと遊んでいていいよ」
雪が顔を上げる。
「がっこう、いきたい」
泣きながら話す雪を見つめる。
「ううん。行かなくていいよ。行かないで欲しいの。四年生になったら、またママと一緒に学校に行こう」
次の日から雪は学校へは行かず、一日中部屋で過ごすようになった。中学へ上がる頃には部屋から出てくることもなくなった。
二年前の四月。夜八時ごろに駅で買い物を済ませ、バスで帰宅していると、雪と同年代の子供の団体が乗り込んできた。髪を短く切った彼女たちはそれぞれにカラフルなジャージを身に纏う。習い事の疲れだろうか。だらっと座席に座り、スマートフォンをいじりながら「お腹すいた。バス停に着いたらお菓子を買って帰ろう」などと話していた。
私には、その姿が眩しくて羨ましかった。
バスが停車しようとブレーキをかける。
ここで降りよう。
私の足は百貨店の方へ向かっていた。歩けば一時間ほどはかかる。ただただひたすらに歩き、百貨店地下のスポーツ用品店に着いた。脳内でカラフルなジャージを探せと指令が出される。
あった。
白や水色、黄色やピンクのそれは、雪にきっと良く似合うだろう。雪は何色が好きなのだろう。そういえば、そんなことも私は知らない。私が産んだのに私は雪のことを何も知らない。雪は今何が欲しいのだろう。何に興味があるのだろう。その対象を、行動を減らしたのはすべて私だ。雪がクラスの子供の物を盗んだのも、私のせいだ。私が全て間違っていたのだ。
だから、私はあいつから指導されたんだ。
そうだ。私は間違っているから、指導されて正されなければいけない。
新たに、しっかり捕まって、しっかり正されなければいけない。
私の手はジャージを掴み、エコバッグの中に入れた。
これが誰かに見つかれば、私は正される。私は、
「お客様」
「あ」
この人はなんて優しい目をしているんだろう。きっと真っ直ぐ、生きてきたのだろう。
「かごはお持ちですか」
いえ、買い物をしに来たのではないのです。私は、正しく歩けるよう自分を律するために、今、罪を犯したのです。
「いえ、私今、万引きしたんです」
声が震える。そうか、雪もきっとこんな気持ちだったんだ。
「私には、かごと間違えてバッグに入れたように見えました。商品を一度お預かりしますね」
そう言って差し伸べられた手は、まるで仏様の掌のようだった。それを私はゆっくりと両手で包む。涙を止める事なく流し続け、どうか、と許しを請う。
深夜のリビングに行き渡る二つの涙の音。
「ママ。ごめんなさい」
雪は、泣きながら何度もその言葉を繰り返した。
私は足に力が入らず床に座り込む。雪に抱かれるまま、涙を流して言う。
「雪、ごめんなさい」
母親として不正解の私を、雪は、許してくれますか。
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