一 泣いていい

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一 泣いていい

「誰かのことを、消えろって思ったことってある」 「ないですよ。何でですか」 「いやさあ、うちの彼女はあるんだって。あたしないから驚いてさ」 垂れ目の優しい笑顔で、へへと笑いながら、閉店後の店内でらんじゃさんは言う。本当に思ったことがないのだろう。心中「私はよくあるよ」と、らんじゃさんを笑顔で見つめ返す。スポーツ用品店であるこの店は、都内でも有数の品揃えを誇り、百貨店の地下に店を構える。広いフロアの電気は、私たちのいるレジ付近以外全て消灯済みだ。日中は「月一感謝祭」を行なっていた。そのテーマパークのような賑やかさが、今は、すうんと静まっている。この店に香る「新しい商品の匂い」は「希望の匂い」だ。健康のためにランニングを始める中年男性、部活動に向けて道具を揃える学生、ネット上で話題になるようなカラフルなシューズやウェアを買い揃えるインフルエンサー。それぞれが未来の自分に対する希望を抱く。  夜間は昼間に比べ大々的に品出しが行える。夜の品出しの新しいウェアやシューズ、道具類などの香りは、今この瞬間にしか出会えない。 二人でレジ締めを終え、時計が二十二時半を表しているだとかと話しながら、店の全ての電気を消して休憩室へ向かった。    去年の三月までは、小学校の教員だった。勤続九年で退職を決め、生活のための働き口をすぐに探し始めた。学生時代に経験したことのあるアルバイトはスポーツ用品店の店員だけだった。だから、この店の求人を見つけるとすぐに応募した。過去の知識や経験が少しでも生かせるだろう。理由はそれだけだった。面接時、前職あり独身三十一歳女が急にアルバイト求人を見て来たことに、驚かれると思っていた。前職を辞めた理由を必ず聞かれると思っていた。一般的な理由を、と考え用意していた私に、らんじゃさんはそれを聞かなかった。前職より収入面は下がるが大丈夫かとか、そのようなことを聞かれた。翌日採用の電話が来ると、次の週から出勤が決まった。独身で身軽な私は、土日も夜間も勤務できるため重宝すると言われ、レジ業務から他店舗への発注、競技別物品知識まで幅広く教えてもらうことになった。  ほぼ毎日出勤者である私と、毎日出勤者のらんじゃさん。閉店後の締め作業や品出しは大方二人で行う。らんじゃさんは大抵彼女の話をしながら作業をする。「山下さんとのこの時間は、あたしの息抜きだわ」とらんじゃさんが言ってくれることを嬉しく感じていた。  らんじゃさんは私の四歳年上で、彼女はらんじゃさんより四歳年上。らんじゃさんのことを「蘭ちゃん」と呼ぶ。彼女には夫と子供が二人いて、彼女と会えるのはいつでも深夜のらんじゃさんの家。同性婚が認められた場合でも、彼女は自分を選んで結婚はしないだろう。などなど、ゆったり穏やかな口調ながらに、それとは似合わない過激な内容が話されるのは、私にとってのエンターテインメントだった。 「お腹空いたなあ、十一時まであと五分、急ごう」 らんじゃさんがネックウォーマーを被りながら言う。 「これから彼女さん、おうちに来るんですか」 私の質問に「今日は来ないんだ」と言って大げさに肩を落とす動作をした。 「ジュンラーメン行きます」 私の誘いにらんじゃさんは一瞬目をそらしたように見えた。 「お、いいね。たしか一時くらいまでやってたよね。行こ行こ」 「すみません、なんか付き合わせちゃって」 無理矢理に誘ってしまったかと思い、謝ると自分もお腹が空いていたから丁度良かったと、笑顔で返してくれた。  ジュンラーメンにはバイト終わりによく来ている。店内は、薄暗くオレンジの明かりが灯る。六〇インチはあるであろうテレビ画面が二つあり、その二つでハードロック歌手の映像と音楽を大音量で流している。壁中にCDやレコード、音楽関係の雑誌やポスターがぎっしりと飾られており、店主の音楽への愛情を感じる。私がここに来るのは、音楽が好きなわけではなく、ただここのラーメンが美味しいから。朝食や昼食を、菓子パンやゼリー飲料で済ませている私にとって、ジュンの豚骨醤油はどろっと体内を巡り、麺を啜った後の吐息は幸福で満たされる。  らんじゃさんを初めてジュンに誘った時「あたし好みの店だね」と興奮気味に話す彼女を見て、すぐに気に入ってくれたと感じた。それから何度か、二人でも仕事終わりにここへ来るようになった。 「ビールと豚骨醤油二つずつ」 らんじゃさんの注文に、店主は目を合わせず「うっす」とだけ返事をした。すぐにビールが運ばれ、二人で軽くジョッキを交す。 「今日、この後予定ありました。なんかすみません」 さっきのらんじゃさんの様子が気になって、ビールをぐっと喉に押し込んでから言う。 「なんでよ、本当にお腹空いてたんだけど」 らんじゃさんは大きな目を更に大きくさせて、ジョッキを持ち上げた。そこに「お待ち」とラーメンがそれぞれに運ばれる。とろとろの肌色のスープには茹でたほうれん草と焼豚、海苔が、それぞれ油に照らされ艶やかに踊る。二人でそれを啜りながら明日のシフトは何時からで、「出勤日でもないけど出勤していて私たちはワーカーホリック」だというような話をする。 店を出た別れ際、「誘ってくれてありがとう。じゃあお疲れ様でした」と言う彼女から、「何事も気にし過ぎてしまう私」に対する優しさを感じた。 「おはよー」 原さんは、今日もアイメイクをばっちり決め込んでレジに入って来る。 「おはようございます。原さん、今日シフト入ってましたっけ」 柱にかかっているシフト表に目をやる。 「入ってなかったんだけど、子供が友達の家に泊まりに行くって、昨日急に言いだしたからさ。昨日急にだよ。信じられる。もっと早く言っておいてよって感じだったんだけどね。だったら昼過ぎまでシフト入っちゃおうと思って。店長に言ったら即オッケー」  原さんは、この店で十年目のベテランパート従業員。中学生のお子さんがいる四十歳には、とても見えない。服装も話し方も化粧も、大学生のバイトの子から教わっているらしく、その子らと同じようで、若々しい。  この店は地域のウォーキングコースのチェックポイントになっている。そのため、日中ウォーキングカードのスタンプもらいに来る高齢者の集団がいるのだが、原さんがいると、彼女にスタンプを押してもらいたいと言う方もいるほどだった。 「あっ。原さんじゃん。今日シフト入ってたんだね」 らんじゃさんが、店のジャケットのジップを上げながらレジに入って来た。 「らんちゃん、おはよう。引き継ぎノートに書いてある商品引き渡しのお客様だけど、あのカゴの商品渡しておけばいいんだよね」 「あっ、お願いしていい。今日店長休みだからさ。そうあれ全部まとめてね。山下さんさ、もしキジマ様っていう男性のお客様来られたら、原さんに繋いでもらっていい」 「了解です」と答える。「十一時頃ご来店の予定。念のため一緒に数の確認しておいて欲しいんだけど、いい」らんじゃさんと原さんは、二人で取り置き商品の確認を始めた。  プロテインバーを百個まとめ買いのお客様は、毎月一度来店する。店長の友人で会社員をしているらしい。ボディビルの大会で上位入賞の常連。電車で二時間かけてこの店に来る理由は、「この店でプロテインバーを買うと、必ず大会で良い成績が出せるから」というジンクスのためらしい。いつもは店長が商品引き渡しを行っているのだが、今日は店長不在。そのため、ノートに引き継ぎ内容が書かれていた。  二人が確認作業を行っているのを横目に、私は「いらっしゃいませ」と、お客様の商品のレジ打ちを行う。 しばらく間、一人で会計作業を行う。二、三人の列が出来始め、原さんもレジを開けた。 「お待たせしました。お待ちのお客様こちらのレジまでお願いします」 原さんは手を挙げながら、大きな声でお客様へ合図した。私も次のお客様を呼ぼうと手を挙げる。すると、白髪のショートヘアに花柄の帽子をかぶったご婦人が、笑顔で原さんを指差し、「次の人を先に通して」とジェスチャーした。私は、笑顔でオッケーサインをご婦人に送り、「二番目にお待ちのお客様、お先にどうぞ」と手を挙げる。そして、さっと隣の原さんに「ウォーキングスタンプ、原さんご指名の方です」と囁いた。原さんは「了解です」と、目線はお会計中のお客様に向けたまま返事をした。 「原さんに押してもらいたかったのよ」 「嬉しいです。いつもありがとうございます。今日は寒いですね」 原さんの優しいおしゃべり声が隣から聞こえて来る。  列が切れたことに、少し力んだ肩の力を抜く。 「プロテインを注文していた木嶋です」  高い声に、はっとして目の前をみると細身の女性が一人立っていた。  三十代中頃だろうか。白いダウンコートと肩まで伸びたミルクティーブラウンの髪がよく似合っている。微かにスパイシーで甘い香りがする。想像していた「キジマ様」との差に、「あっ」と思わず声が漏れてしまった。 「夫が注文したんですよ。私のじゃないです」 木嶋様は、ふふと笑う。 「いえ、申し訳ありません。木嶋様ですね。お待ちください」 引き継ぎのことを思い出し、原さんの方を見る。まだ花柄帽子の女性と、丁寧に笑顔で会話をしている。カゴの置いてあった場所を見ると、「キジマ様」と書かれたメモがセロテープで貼られていた。「こちらの商品ですね」とカゴを見せる。 「はい、そうです。袋は要りません」 「お会計させていただきます。三万五千八百円でございます」 「お願いします」 木嶋様の奥さんは、ルイヴィトンの茶色い長財布から四万円を出した。 「四万円お預かりいたします。四千二百円のお返しです」 お釣りを財布の中にしまいながら「改めて見てもすごい量ですね。」と言って、にこっと笑った。「よいしょ」とエコバッグに荷物をつめると、「ありがとうございました」と小声で言い、帰っていった。僅かに残る香りが、彼女の存在をレジに残していた。 「原さん十三時回ったよ、上がって。お疲れ」 らんじゃさんが、「今日は急に入ってくれて助かった」と笑いながらカウンターに入ってきた。 「了解です。お疲れ」 原さんはそう言うと休憩室へ戻った。 「結構混んだ」 「いつも通りでした。そういえば、十一時頃プロテインの木嶋様がいらしたので商品受け渡しました」 「うそっ。あのがたいの良さだから気付かない訳ないはずなんだけどな。原さんと変わってくれたよね」 「いや、原さんはウォーキングの、」 「山下さん」 原さんが低い声で遠くから私を呼び、らんじゃさんとの会話を遮った。 「今、木嶋さんから電話入っているんだけど」 「はい」 原さんから目を逸らすことができず、へらりと開いた口で答える。 「今日木嶋さん来てたの。私聞いてないんだけど」  私をまっすぐに見る彼女の眉間には、太い波が立っている。あ、私何か失敗したんだ。私のせいだと、この人は言いたいんだ。 「奥様がいらしていたので、商品を受け渡したんですが」 「だからさ、それ私聞いてないよ。商品以外に、今日締め切りの大会に、申し込みをされる予定だったの。知らないでしょ」 「でも奥様は特に何も」 「そりゃそうだよ、店長からの引き継ぎで、サインと料金をいただくだけになっていたの」 静かに口を閉じる。舌が歯にぴったりと付く感覚をもたせる 「原さんごめん。今、まだ電話つながってるんだよね」 耳元でらんじゃさんの低く柔らかい声がする。 「うん。木嶋さんお怒り中。ルーティーンが崩れたって。何の為にジム行ってたのかって。店長と話したいって言ってるけど、店長いないし」 「オッケーオッケー。私変わるから、原さんレジお願いしていい。山下さん、ごめん、一緒に来てもらってもいいかな」 「はい」 喉元がぐっとする。らんじゃさんのジャケットにしがみつきたい。引かれるような足取りで休憩室へ入る。 「お待たせしました。副店長の江口と申します。この度は申し訳ありませんでした。はい、はい」 電話の向こうの太い声が、らんじゃさんを問いただす。 「いえ、今回は引き継ぎミスです。完全に私の落ち度です」 いや、そういうことではない。 不謹慎にも、喉元のつかえがほろほろ崩れていく。 「代理で申し込みができるかどうか、早急に調べさせていただきます。いえ、こちらで。はい。しかし」 三秒ほどの沈黙の後 「それでは、また店長の方から連絡させていただきます。この度は、誠に申し訳ご」 らんじゃさんの声が止まり、ガチャリと受話器を置いた。 「とりあえず店長に連絡だ。ごめんね、巻き込んじゃって。気にしなくていいからね」 らんじゃさんを見つめる。 「私、」 泣きたい。しかし、この状況で私が泣くと言うのは違うのではないか。らんじゃさんが目を大きくさせ、私を見つめる。 「キジマ様って書いてあるカゴを見つけて、原さんに声かけようとしたんですけど」 話そうとすると鼻と目の奥がじわりとしてくる。言葉が上手くまとまらず、呼吸がしゃくり上がる。 「ごめんごめん。本当に、山下さんは何も悪くないよ。原さんも、電話の主があの剣幕だったから、驚いたんだよ」 「でも、」 「ねえ、今日十六時までだよね」 「はい」 「今日も二人でジュンラーメン行かない」  涙で滲む視界の中で、視点がらんじゃさんを探す。すとんと首を縦に降る私を見て、らんじゃさんはにっこりとし、「泣いてていいよ。」とティッシュ箱を差し出した。 「よし。それまで後、三時間。がんばろ」私の隣に座り、「もしもし、店長。休みの日のごめんね、あのさ」とスマートフォンで話し始める。その横で私は鼻をかみ、流れる涙の線を頬で感じ続けた。
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