無題:あるいは繰り返し

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 真っ暗な台所で、彼の輪郭だけが逆光の中で眩しいくらい白く光っていた。窓のすぐ近くにある電灯から入ってくる光は、無機質で容赦ない。なぜか彼の輪郭以外に投げかけられることはなく、他の暗闇がいっそう暗闇らしく溜まっている。彼の顔も表情もまた暗闇だ。まるでインクを零したような、あるいは動かない影のような。 「ずっと、夢を見てた」 彼が聞いている気配がした。 「夢の中で目が覚めて、覚めたと思ったらまた夢で、今やっと本当に目が覚めた」 彼が笑った気配もした。 私は不安な気持ちで電気をつけようと、紐を探す。ところが手は空中を虚しく泳ぐだけで何も掴めない。 「ねぇ」 彼に呼びかけたところで、本当に目が覚めた。体の感覚が現実だと訴えていた。台所の机に突っ伏して寝ていたのだ。目の前には眠れない夜にしか飲まない睡眠をうながす飲料が中途半端に空になっている。あたりは真っ暗で、あの窓の外の電灯は存在しない。スマホを見ると寝る前からほとんど時間が経っていなくて、なぜかぞっとした。彼が居るわけがないのだ。彼は昨日この家を出て行った。不確定な関係の私の元ではなく、自分の妻や子供が居る場所、家族のところに戻った。今日から私は元の一人なのだ。ありふれた話だ、ありふれすぎてうんざりする話だ。それでも私は呆然と過ごす他ない。切り取ったように全てを忘れたい。何も感情を動かしたくない。家中に彼の気配が残っているから、比較的それが薄い台所しか私の居れる場所は無かった。今度は何も見ないただ眠るだけの眠りがほしいと、私はさっきと同じく机に突っ伏して目をつむった。
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