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それにしたって、どうしてこの部屋はこんなに狭いのでしょうか?
いえ、暮らしに不満があるというわけではありません。むしろ、この白い部屋はわたしを満足させることにかけては、おおよそ類を見ないほどなのです。
ここでは頭に金冠を乗せなければいけない決まりがありますが、それはわたしを煌びやかに彩るために欠かせません。
おなかがすくと、銀のお皿に載ったカヌレがどこかから出現します。ほんとうに魔法みたいなんです。まるでずっとそこにあったみたいな顔で、いつの間にか目の前にあるので、わたしは「クシュクシッ」とか「アバハー!」とか、毎度吹き出すのを堪えきれません。
そんな時、いつだって胸に抱かれた一角獣が「シュベッボボボ」や「オワワワーン!」って、調子を合わせてくれるのです。なんて暖かく、なんて可愛い生き物なのかしら!
実のところ、完璧とは言わないまでも、この狭さを気にしなければ、まったくここは楽園なのです。
でも、ふと頭によぎるのです。これらはどこからやって来たんでしょうか?
……きっと、彼が上手くやってくれているのだろうけれど。
「ねぇ?バックベアードさん」
わたしはそう彼につぶやきました。
「なんだろう、なかゆび姫」
「ううん。なんだかここは不思議だなぁって思ったの」
彼は少し沈黙しました。相変わらず、うなじのあたりに視線を感じはするのですが。
「なかなかミステリアスなことを言うね。でも、そんなところが素敵さ、なかゆび姫。ぼくはね、実はおととい、皐月賞3連単の的中を僅かに逃したところなんだ。畜生、イクイノックスがもうちょっとだけ粘ってくれていれば、とんでもない万馬券だったのに。ふざけやがって、たかだか奇蹄目の分際で!腹いせに帰り途、オケラ横丁で馬刺しを食ってやったよ。美味くなかったね。……そんなぼくの些細な屈託を、キミの声は溶かしてくれるみたいだ」
「あなたはいつも大穴を狙いすぎじゃないのかしら?」
「それは認める。ぼくの悪い癖だ。でも、中山競馬場まで行ったんだぜ?千葉だよ?ちょっとした旅行さ。旅先でぐらいは、夢を見たっていいじゃないか!」
「まぁ……なんて気の毒な人」
わたしは心から、彼を哀れに思いました。
「ご同情痛み入るね。まぁ、仕事のついでだったから、そこまで引きずっているわけじゃない。むしろ仕事中に遊ぶのはいけないことだから、てきめんに罰が当たったといえるね。だからこそ、今はちゃんと反省中さ。ここでこうして、しっかりキミの背中を見つめている」
バックベアードさんは、まだがっかりしているみたいでした。
「ねぇ?バックベアードさん」
「なんだろう、なかゆび姫」
わたしはふと、好奇心に駆られて訊いてしまいました。
「バックベアードさんは、わたしを見るのがおしごと?」
「少し違う。ぼくの仕事はキミを背後から監視することさ」
「監視?」
「監視だ。決して君からは見えないようにね。これが一番重要なんだ」
「……わたし、バックベアードさんを見てみたいの」
「…………」
彼がたじろいだのが、はっきり空気を通して伝わりました。
「だって、わたしばかり見られているのはずるいわ。それに、バックベアードさんが大好きなんだもの。そんなにいけないことかしら」
「…………………………ダメだ」
彼は小さく呻きながらそう答えました。
まるで、自分に言い聞かせるかのようでした。
「なんで?」
「何故って、……それがルールだからさ。なんだかんだ言うけど、ぼくは結構この仕事に誇りを持ってるんだ。安月給だけどね。……ひょっとして退屈しているのかい、なかゆび姫。もしそうだとしたら、気がまぎれるように音楽をかけてあげよう。とっておきだぜ?『And So I Watch You From Afar』のレコードを輸入したんだ。もちろん、キミさえ良ければだけど」
「ありがとう、バックベアードさん。でも、わたしはあなたのことが知りたいの」
「………………………………………………」
彼がとても困っているのが伝わります。けれど、わたしはどうしても見たいのです。彼を知りたかったのです。それは、いけないことでしょうか?
しばらくして、彼は言いました。
「親愛なるなかゆび姫。我々の友情のあかしとして、キミに、少しだけ、ぼくの姿をご覧にいれよう」
「まぁ!ありがとう、バックベアードさん」
「少しだけだぜ。……これが上司にばれたら、ぼくはここをきっとクビになるだろう。そうなると自宅のローンが払えなくなっちゃうんだ。やっと手に入れた憧れのマイホーム。いつか素敵な奥さんと、可愛い子どもと一緒に住むために35年ローンを組んだんだ。それを失う覚悟ってことを忘れないでほしいな。……くそっ、何を女々しいことを言っているんだ、ぼくは」
「わたし、そんなあなたも大好きよ」
「……少し目を閉じていてくれるかい?」
「ええ、あなたがもういいっていうまで、ずうーっと閉じているわ」
「分かった。じゃあお願いするよ。ゆっくり3秒数えたら、目を開くんだ。いいかい?」
「うん。い~ち、に~い、さ~~~ん!」
目を開くと、そこに彼がいました。
「バックベアードさん、こんにちは」
「こんにちは、なかゆび姫」
彼は想像よりずっと小さくて、まだこどものようでした。
「あなたはおめめがひとつなのね」
「うん、そうなんだ。……変かな?」
「ううん、とっても素敵よ。それに、お口がないのも初めて知ったわ」
「目を蠕動させて発声しているんだ。なかなか難しくて、習得には時間をかけたよ」
「バックベアードさんも大変なのね」
「…………うん」
彼は少し苦しそうでした。彼の目は、私がちゃんと見つめようとすればするほど、薄い霧のように見つめた部分がぼやけてしまうのです。ぼやけたところから彼の身体は拡散して、みるみるうちに小さくなってゆきます。
「……なかゆび姫、やっぱり、ぼくたちは……見つめあうべきじゃなかったのかも」
「いいえ。わたしたちはお互いを知るべきだわ」
「うぅ……そうだね。二人で……決めた……こと、だもんな」
やっとのことでそう言いながら、しゅるしゅると彼は小さくなってゆきます。
わたしは彼を、とても愛おしく感じました。なんて可愛いひと。
だから、つい、言ってしまったのです。
「ねぇ、バックベアードさん」
「……なんだろう」
「わたしは、あなたのことを愛してるの」
「………………………………」
彼はもう、梅干しくらいの大きさでした。
「…………ねぇ、なかゆび姫。きっと、これで……よかったんだ。ありがとう」
その言葉を残して、彼は空気に溶けるように消えてしまいました。
「バックベアードさん!」
私は驚いて、部屋の中をくまなく探しました。けれども、どこにも、もう誰もいませんでした。
なんだかとっても退屈です。
白い部屋の中に立っていました。彼がいなくなってしまってからというもの、わたしはここにひとりぼっちで、恐ろしいほどの暇を持て余しています。
わたしの頭がこんなにもすっきりしているのは、頭を締めつけていた金冠が外れ、千々に砕けてしまったからでした。
わたしのおなかは空腹を忘れてしまったみたいで、だから、もう銀のお皿に載ったカヌレは出てきません。
わたしの胸は暖かいものを必要としなくなったようで、一角獣はどこかへ消えてしまいました。
いろんなものが一度にたくさん無くなってしまいました。でも、わたしはその空白を埋める気も起きず、ただただ、ぼうっと立ち尽くしています。
……もし彼がいたら。こんなわたしに、どんな言葉をかけてくれるのでしょうか。
ねぇ?バックベアードさん。
わたしが新しく来た世界は、ちょっと広すぎるような気がするの。
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