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あなたはとても運がいい
「あなたはとても運がいいですね」
平川と書かれた名札を胸元につけた女性は私・東徹の目の前の紙を差し出しながらそう告げた。
――運がいいだなんて、冗談じゃないぞ。
私はその言葉をグッと飲み込みながらテーブルの上にある紙に視線を向ける。紙のところどころには上向きの赤い矢印や下向きの青い矢印が示されており、その傍らにはABCの評価が記されている。
「空腹時血糖が113、HbA1cの値が5.6、収縮期血圧が132、お腹周りが103センチです」
平川さんは笑顔のままこう告げてきた。その笑顔とは裏腹に、空腹時血糖の値の横には真っ赤な上向きの矢印が、そして同じく深紅色のCの文字が刻まれている。Cは勿論、再度検査が必要という意味だ。
――冗談じゃないぞ。
私は心の中で再びつぶやく。血糖値が引っかかったということは糖尿病の可能性が高いということだ。それを嬉々として語るなど、デリカシーがないにもほどがある。
「要するに、糖尿病ってことですよね?これから厳しい食事制限をしないといけないってことですよね?」
私の問いかけに対して平川さんは首を横に振った。
「いえ。まだ糖尿病という訳ではありませんよ。だからあなたはとても運がいいと申し上げているんです」
平川さんはそう言うと、血液検査の結果表の数値をボールペンで指した。
「今回のデータの中で空腹時血糖は3、HbA1cの値は0.1しか超過していません。これは健康診断においてはアウトなラインですが、糖尿病にはまだなっていない可能性が高い数値です。生活習慣を改善すれば取り返しが十分につきます。しかも今回あなたは腹囲、血圧の値も基準値を超えられてめでたくメタボリックシンドロームと認定されました」
めでたくメタボリックシンドロームに認定されました……確かに平川さんは言った。だが果たしてこれはめでたいことなのだろうか?その疑問を打ち砕く
かのように平川さんが口を開いた。
「腹囲90cm以上という基準についてはまだしも、血圧と血糖値が揃ってここまできれいにギリギリアウトな方ってかなりラッキーなんですよ。しかも今回あなたは社会保険で健康診断を受けているわけです。取り返しがつきやすい段階で生活習慣病予防の積極的支援を無料で受けられるんですよ」
「積極的支援?」
私が問いかけると平川さんは頷き、かばんからリーフレットを取り出した。
「はい。メタボリックシンドロームの積極的支援に該当された方はまずは減量に関する管理栄養士の指導を受けていただき、3か月間頑張って減量していただきます。その間2週間に1回、管理栄養士から電話での指導も受けられます。そして3か月後、血液検査を再度受けていただきます。これらを全部無料ですよ?ジャパネットなんとかもびっくりの破格サービスです」
平川さんは嬉々としてそう言うが私の心は穏やかではない。走れと言われるのか?酒を飲むなと言われるのか?はたまた肉を少なめにしろと言われるのか?いずれにせよ厳しいことを言われるに違いない。どこがラッキーなことか。
「どうです?初回の栄養指導だけでも受けていきませんか?20分ぐらいで終わりますんで」
「いえ、すみません。仕事がありますんで」
「よろしいんですか?取り返しがつかなくなってからでは遅いですよ」
「仕事がありますので……」
私は平川さんの申し出を断る。すると、
「わかりました。ですがもし指導を希望される場合はこちらに連絡をください」
平川さんはそう言い、私にリーフレットを手渡してきた。私はそれを受け取ると一礼し、逃げるようにその場を立ち去った。
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