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そうして、彼は囁いた。なにを馬鹿げたことを、と乙葉は眉を寄せた。しかし彼は大真面目な顔だ。乙葉は無言で彼の瞳を見つめる。
馬鹿げてはいるけれど――、一方でそれは、魅力的な囁きでもあった。
「……できるの、そんなこと」
「ええ。大丈夫、必ずうまくいきますよ。このまま一葉さまの言いなりになるなんて、お嫌でしょう。だから逃げ出しましょう、彼女から」
彼が割れ物に触るように抱きしめてくる。すると、なんだか、うまくいくような気がしてきたから不思議だ。彼の言葉に従えば、自分はもう一葉に縛られなくてもいいかもしれない。それならば、このまま彼の言うままに――。
「逃げる気?」
棘のある声がした。
乙葉はびくりと震えて、声の方を向く。そこに立っていたのは一葉だった。腕組みをして、乙葉を見下ろしている。
「逃げるなんて許さないわよ。明日になれば、あんたはあたくしの身代わりになるの」
一葉の中で、乙葉と入れ替わることは決定事項なのだ。乙葉と庭師を見て、一葉は軽蔑の目を向けた。
「勝手に話してくれちゃって……まあいいわ。薄汚い庭師が何を言ったって取り合われないでしょう。あたくしは優しいから、今夜だけはあんたたちに時間をあげる。せいぜい最後の逢瀬を楽しみなさいな」
鼻で笑って背を向ける。
「でも逃げられないわよ。父さまに言って門の見張りを増やしてもらうわ。明日、乙葉はちゃんとあたくしのもとにくるのよ」
揺るぎのない態度だ。一葉はいつだって欲しいものをすべて手に入れて、思うがままに過ごしてきた。その生きざまの表れた声だった。
一葉の後ろ姿をじっと見つめる。いつだって乙葉を見下す彼女。
――このまま、一葉の言いなりなんて御免だ。
「乙葉さま。今夜、みなが寝静まったころに。待っています」
乙葉の耳元で囁く彼に、自然と頷いていた。
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