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翌日の朝。身支度を済ませた優子が自室から出てくると、リビングには全員が集まっていた。
翔太と元父・正樹は、テーブルについて朝食を食べている。香ばしい匂いが漂っていた。焼いたベーコンにスクランブルエッグ、イングリッシュマフィン。いつになく小洒落たメニュー。普段は主に食パンで、適当に済ませてしまうのに。キッチンにはエプロンを身に着けた佐藤がいた。
優子に気付いた佐藤が「おはよう」と声をかける。優子は一瞬黙り込んだが、小さい声で一応「おはようございます」と返した。
「姉ちゃん。この“父さん”の料理、めっちゃうめえ」
翔太は上機嫌でマフィンを頬張っている。
「……あんた。何、馴染んでんの?」
呆れたように優子が言うと、「優子の分も今作るからな。ちょっと待っててくれ」と、いかにも父親らしくキッチンで佐藤が微笑んだ。
「……いや、ごめん。ちょっと急ぐから。買って食べる」
「そうか。栄養バランスには気を付けろよ。お小遣いは足りてるか?」
「大丈夫だから。もう子供じゃないし……」
いってらっしゃい、という声を背に受けながら、優子は逃げるようにその場を後にした。
おかしいのは自分の方なのだろうか。皆何事もないように日常生活を送っている。よく考えてもみれば、よその家の内情など知る由もなく、何が普通かと問われれば答えられるものでもないのだが……。
とにかく、一度冷静になるためにも、優子は家を離れたかった。足早に玄関へ向かう。そして、ドアを開き、外へ踏み出そうとしたところで、ふと動きを止めた。そっとドアを閉めると、リビングへ戻って翔太を呼ぶ。
「翔太。ちょっと来て。私の目、もしくは頭がおかしくないことを証明して」
「何だよ。今食ってんのに」
「いいから外! 自分の目で確認してみて!」
もう、と翔太はぶつくさ言いながら、フォークを置いて玄関へ行く。ドアを開けて外を覗いた。
道路を挟んだ向かい側に、見慣れた顔が二つあった。お隣さんだ。六十歳くらいの夫婦で、二人暮らし。どちらも子供好きで、心優しく穏やかな人物だった。特別親しくもないが、付き合いは十年以上になる。それなりに互いを知る関係だ。……いや、そのはずだった。
一体どういうわけだろう。翔太は目を擦って、改めてその光景を見つめる。顔は間違いない。よく知る二人。しかし、明らかにその様子は普通ではなかった。
寄り添い歩く夫婦。そう言えば微笑ましい。が、旦那の方は首輪を装着し、道路を四つん這いで歩いていた。首輪にはリードが付いていて、その先を奥さんが握っている。もちろん初めて遭遇する事態だった。ふと奥さんがこちらに気付いて笑いかける。
「あら、翔太君。おはよう。今日は良い天気ね。お散歩日和だわ」
「お、おはようございます。えっと、本当……良い天気ですね」
あはは、と誤魔化すように笑いながら、翔太は静かにドアを閉めた。
「……嘘だろ。朝っぱらから何してんの、あの人たち」
「やっぱり現実だよね。まだ自分の目が信じられないんだけど……」
優子は額を押さえて息を吐く。翔太はドアの覗き穴から夫婦の様子を観察した。
「散歩日和って言ってたな。ペットの散歩ってことか? 今時ハーネスの方が良くね? 首しまったらどうすんだよ」
「ツッコむとこ、そこじゃないでしょ!」
優子は言って、「ちょっと、お父さん!」とリビングに駆け戻った。「何だい、優子?」と佐藤が応える。
「いや、そっちのお父さんじゃなくて……あの、こっちのお父さん」
優子は、両手でカップを抱えミルクをごくごくと飲んでいる正樹を指差す。正樹は口周りに白いひげを作りながら振り返った。
「姉ちゃん。僕は父さんじゃないよ。弟の正樹だよ」
「もう、何でもいいから! それより、昨日飲んだ時って、もしかしてお隣さんもいた?」
「うん? ああ、いたよ。俺は犬になりたい、犬小屋の中で丸まって寝たいんだと叫んでいたっけ。変わった人だよな」
あんたが言うか、と思いつつ、やっぱりそうか、と優子は納得した。
父は昨夜、なりたい自分について、他の客も巻き込んで語り合ったと言っていた。父と佐藤だけではないのだ。そういえば、社長も納得していたと言っていたっけ。賛同者が何人もいて、きっと他の場所でも似たようなことが……。
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