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その日の夜。優子と翔太は相談して、正樹の説得を試みることに決めた。父の意思を尊重して、あえて否定はせずに来たが、このままでは取り返しのつかないことになるかもしれない。
「……父さん。ちょっといい?」
相変わらず漫画ばかり読んでいる正樹に、優子は呼び掛ける。しかし、正樹は全く反応を示さなかった。「父さんってば!」そう強く言って、ようやく正樹は振り返る。
「え、僕のこと? どうしたの、姉ちゃん」
「父さん、大事な話。一旦末っ子役をやめて。今だけでもいいから真剣に聞いて」
きょとんとした正樹は、「父さんとか末っ子役とか、何言ってるの?」とあどけない顔を見せる。
「真面目な話なの!」
優子が声を大きくしても、正樹はただただ困惑していた。
「何だよ、姉ちゃん。何で怒ってんの? 僕、何かした?」
「……本当に分からないの?」
優子は用意していたアルバムを取り出す。翔太の高校入学の時、三人で撮った家族写真を指した。
「ほら、これ見て!」
「わあ! これ、姉ちゃんたちの写真? でも父さんはいないんだね。後ろの男の人は誰?」
正樹はそれが自分であるということさえ分からない。
「……忘れちゃったの? 母さんのことも?」
優子は家族四人で撮った昔の写真を見せた。しかし、
「綺麗な人だね。僕たちの母さんなの?」
と、正樹にはそれも分からない。
「――ちょっ、姉ちゃん! それ……」
急に翔太が慌てた声を出し、さっきまで見ていた三人の家族写真を指差した。
画が動いている。いや、変化している。
徐々に正樹の姿が薄れていき、佐藤の姿に置き換わった。そして、姉弟二人の横に、子供になった正樹が浮かび上がる。新しいものから順に、次々と写真が変わり始めていた。母の姿は消えかかっている。
「何で! こんなのおかしいよ。今までの全部なくなっちゃう!」
「おい、親父! これマジでやべえって! しっかりしろよ!」
そんな翔太の叱咤も虚しく、正樹は状況が飲み込めずにポカンとしていた。
「……何だよ、その面。親父は……俺たちの父親として良かったことも楽しかったこともなかったのかよ。全部なかったことにしたいのかよ!?」
「……いやだ。やめてよ。お母さんが消えちゃう」
姉弟の悲痛な叫び。しかし、それも届かない。
「兄ちゃん、姉ちゃん。どうしたの? 大丈夫?」
怯えたように見上げる正樹のその仕草は、完全に幼い子供だった。
「……何でよ。母さんのこと愛してたんじゃないの? 死んだら終わりなの? 何がなりたい自分よ。自分以外どうでもいいの? 家族のことも? 勝手すぎるよ……」
優子の涙が写真の上で弾ける。その時、アルバムからはらりと一枚の古い写真が落ちた。若き日の正樹とその妻のツーショット。満開の桜の木の前で笑う二人。
「あれ、この写真……」正樹はそれを拾い上げる。「……僕は、この人たちのことを知ってる? この場所……どこかで……」
不意に、正樹の目からも涙が零れ落ちた。
「あれ、何だろう? 何か、変だな……」
これは……これは、僕?
こっちの女の人は……。
この人は、お母さん……じゃない。
この人は、僕の……僕の……妻?
僕の妻?
かよ……こ……?
その瞬間、正樹の頭頂部の髪がごそっと抜け落ち、張りのあった肌がだらんと垂れた。
「……あ、思い出した」正樹は頭を掻きながら言う。
「懐かしいな。この公園、母さんと二人でよく行ったんだ。あの頃はお金がなくてな。母さん、花が好きだったろ。ここは四季折々の花が楽しめると有名な公園なんだよ。どうして忘れていたんだろう」
「……父さん? 元に……戻ったの?」
優子が顔を上げると、「姉ちゃん、写真が!」と翔太が気付いた。アルバムの写真は全て元通りに戻っている。薄れていた母の姿も今ははっきりと写っていた。
「――あ、佐藤さん」
急に正樹が声を上げる。いつからいたのか、部屋の外に佐藤が立っていた。
「……どうしたんだ、正樹? 佐藤さん、なんて。お父さん、だろう?」
佐藤はニコリと笑う。正樹は少し黙ってから、正座して佐藤の方を向いた。
「すみません、佐藤さん。どうやら、夢から覚めてしまいました。それに、やっぱりお父さんはやめられそうにないです」
正樹は頭を下げる。二人の対峙に、優子と翔太は息を呑んだ。
しかし、身構えたのはどうやら杞憂で、特に何かが起こるということはなかった。
「では、もういいんですか?」と、佐藤は平然とした様子で言い、「はい。ありがとうございました」と、正樹は答えた。ただそれだけで、
「分かりました。私も楽しかったです。それでは、お元気で」
佐藤は礼儀正しく頭を下げて、去っていった。
「……あ、ちょっと待って!」
優子は慌てて後を追ったが、玄関を飛び出した時、佐藤の背中はすでに遠かった。
「あ、ありがとう!」
可能な限り大きな声で叫ぶ。何故感謝の言葉が出たのか、優子は自分でも驚いた。大切なものを失いかけたのに。
佐藤は一度だけ立ち止まり、振り返って、笑ったような気がした。そして、佐藤が姿を消してから、魔法が解けたように町は元の姿を取り戻していった。
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