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夜の鐘
夜の時間を示す鐘の音が鳴った。
伸びた前髪が瞳にかかる。そろそろ切らねば兵に注意されてしまう。
コルドは乱暴にそれをかきあげる。
朝、癇癪を起こした主人によって色つき香油を瓶ごと投げられた服は汚れがすっかりこびりつき、水で汚れを落とすのは不可能なくらいに汚れていた。
どんなに時間をかけても落ちない服の汚れにコルドの中に焦りが芽生える。
その思いとは裏腹に一向に汚れが落ちない服を見てコルドは小さくため息をついた。
「コルド」
顔が険しくなるコルドに話しかけたのは仕事仲間で宿舎が同室のユーリだった。
黒に近い赤髪に、仕事で土に汚れた服を身にまとったユーリは仕事を終えたばかりの風貌でコルドに話しかける。
「お疲れさん。お前、部屋にも戻っていないから探したよ」
「……すまない、汚れが、取れなくてな」
「汚れ?」
ユーリは視線を下に向けた。
水桶の中にある色の着いた作業着の汚れを見てユーリはやや優しげな口調に代わる。
「なにがあった?」
「…少しな」
コルドの僅かな返答でユーリはコルドが汚れに対しての苦戦を察したらしい。
深く詮索せずにユーリはさらに聞いた。
「服、替えはあるか?」
「……いや」
コルドは首を横に振った。
コルドが持っている他の服は皆、汚れている。
今のコルドの仕事は身なりが重要視される王城の敷地内の仕事だ。
この国を統べる王族に会う可能性のある敷地内での仕事は汚れた服を来てはいけない。
コルドの持っている中でも城内に入れるぐらいのものはこれしかないのだ。
敷地内に入れないとなると、仕事はできない。つまり、金を稼げない。
そうなれば故郷に送る金が減る。それはどうしても避けたかった。
コルドの焦りをみたユーリがコルドを慰めるように肩を叩く。
「コルド、その服は諦めろ。後で洗濯番に洗って貰えるように頼もう」
「でも、明日の仕事が」
「俺のを着ればいい。前回の支給日に多めに貰っといたんだ」
「……いいのか?」
ユーリからの天の恵みに近い言葉にコルドの顔は一瞬明るくするが、すぐに申し訳なさそうな顔をしてしまう。
そんなコルドの内心の迷いを一蹴させるようにユーリは大きく頷いた。
「気にするな。いいか、次から支給日には必ず、理由をつけて2枚貰うようにするんだ」
「そんなこと、出来るのか?」
「後でついでにコツも教えてやるよ」
ここでの勤めが長いユーリはこうしてコルドの世話を同室だからと焼いてくれる。
本当は他人の手をあまり煩わせたくないのがコルドの性分なのだが、今の現状はユーリに頼るしかないと判断しコルドはユーリに頭を下げた。
「……すまない」
「気にするな。お前が働けないと思うと故郷の嫁が大変なんだろ?」
「嫁?」
なんの事だか分からず、コルドは顔を上げ聞き返した。ユーリはコルドをからかうように言う。
「お前の故郷にいる粉ひき屋の彼女のことさ。お前に会いたいだとよ」
「なんでそれを……」
「お前宛に手紙が届いていた。まったく、お前、隅に置けないな。朴念仁みたいな顔しやがってしっかり故郷に相手いるなんて」
あらぬ疑いをユーリにかけられそうになったコルドは小さく否定をする。
「……彼女はそんな関係じゃない。今度、別の男と結婚もする。それに、俺とは年が離れすぎていて、彼女のことは娘のようにしか思えない」
「娘って! せめてそこは妹だろ!」
コルドの娘という言葉にケラケラと笑うユーリに釣られ、コルドを小さく笑みを浮かべた。
仕事での疲れが少し緩和されたような気がする。コルドは心の中でユーリに感謝をした。
「ありがとう、ユーリ。すぐに戻る」
「ああ、程々にな。じゃあ俺は――、痛っ!」
手をひらりと上げようとしたユーリの顔が急に当然、苦痛に変わった。
ユーリは右肩を抑え、痛みを堪えている。
服の上では分からないが、どうやら右肩を痛めているようだった。
「大丈夫か?」
「気にするな。少し痛めただけだ」
「少しって、そんな腕を上げただけで痛むのが少しなわけないだろう。仕事でか?」
「……ああ、少し、重いものを持ってな」
簡単に言ったユーリをコルドは心配げに見た。
今のユーリの仕事は老朽化した裏垣の補修作業だったはずだ。
コルドも1か月前はその作業についていたから分かるが、かなりの重労働である。
若いユーリでも肩を痛めるのは無理はないだろう。
「衛生兵には?」
「馬鹿。これくらいじゃ唾を塗られておしまいだ。俺はお高くまとまったヤツらの唾を塗られる程落ちぶれてはいねぇよ。こんくらい、寝てれば大丈夫さ。コルド、夕食までには戻れ。それまでに服も用意しといてやるよ」
ユーリはそう早口で返すと素早くコルドに背を向けた。
心配されたくないのだろう。コルドは曖昧に頷く。
「……ああ」
去っていくユーリの背中をコルドは見送る。
傷んでいる右肩を左手で抑えながら歩くユーリの背中。
腕を少しあげただけであんなに顔が苦痛に歪むというのは異常だ。
寝ていれば治ると言う本人の弁は少々無理があるように感じる。
たしかに、城内にいる衛生兵に言えば治療して貰える。だが、当の本人が行かないとなればどうしようもない。
「…………」
コルドは幾ばくかの悩みの後、周囲を確認した。
周りに人がいないことを確認するとコルドはゆっくりと右手を地面と平行になるように上げ、ユーリの痛めた右肩に意識を集中させた。
「――っ!」
ユーリが感じていた右肩の痛みが少しばかり自分に流れ込み、痛みで眉が歪む。
痛みを全て感じる寸前でコルドは水が浸っている桶に掴んだユーリの痛みの元を流した。
「……」
コルドは小さくなったユーリの後姿を見た。変わらぬ様子で歩き、こちらを見向きもしないその姿にコルドは安堵の息をこぼす。
ユーリの傷は痛みは完全に流された。このままその痛みは川に流れ、誰にもわからないものになる。
きっとユーリの肩は明日には怪我をしたのが嘘のように元通りになっているはずだ。
だが、コルドの中でユーリの怪我を治したという達成感は父親に禁じられていた力を使ったことの罪悪感にすぐに切り替わった。
だが、想像よりも痛んでいたユーリの体を思ってのことだと言い訳をし、コルドは首にかけている首飾りを取り出す。
首飾りに嵌められている鮮やかな深青の石はコルドの父と母の形見だ。
その鮮やかな青が夕焼けの光と混ざり、何とも言えない美しさを放っているその首飾りを握りしめ、自分の頭を少し強い力で叩いた。
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