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沙都子のことが頭に過らなかった。ただ、見慣れたはずの女性が初めて見る女性になっていた。涙に濡れた陽子が名前とはかけ離れた存在に見える。
すぐに会計を済ませ、外に出る。2人ともまるで少しの酒に酔っ払っているかのように現実から遠ざかっていた。
タクシーを拾う。行き先は浜田の家。何も言わない。陽子もなにも尋ねない。ただ2人の心は求めていた、自分の手を握りしめている者に抱きしめられたいと。
無言でドアを開け、鍵をかけ、そのまま陽子を抱きしめた。息もつげぬほどの激しい口づけ。何も考えていない、まるで雄と雌のような。
口づけのまま互いにコートのボタンを外し合った。少し離れる。競い合うように肌を晒し合っていく。
一瞬目が絡み合った。情欲の炎の宿った目。ベッドに押し倒し、柔らかい陽子の唇を吸いながらその肌に手を這わせていく。慄きが唇から伝わる。陽子の手が浜田の体をまさぐっていく、そして、『男』に触れる。浜田の心が震え、長い間渇望していた温かみを感じた。
何度も貪り合った、足りなかったものを奪い合うように。声を上げ、啜り泣き、しがみつき、抱きしめ合い、そこには男と女がいた。
「喉、渇いた」
「水ならあるよ」
「うん、水がいい」
グラスを渡すと陽子は一気に飲み干した。浜田もだ。陽子が手を伸ばすから隣に潜り込む。小さな口づけを交わした。
互いに余計なことを口にしない。ただ体を寄せ合って目を閉じる。
「送るよ」
「いい。タクシーで帰るから」
「じゃ、会社で」
「うん。後でね」
互いに心の中に愛とかひとときの戯れとかそんな言葉は無い。
外には出ず、浜田は玄関で陽子を見送る。振り返った陽子がすっと寄って来て二人はキスを送り合い、そして別れた。
きっと誰にも理解できないだろう。だが自分たちには分かっている。
あれは自分たちにとって必要な時間だった。たった数時間の、自分に正直な世界。刹那の淵に築かれた幸せは、世界の彩さえ変えてしまった。
今の二人の口元には微笑みが浮かんでいた。
ー刹那のターニングポイントー完
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