私なりの恩返し

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私なりの恩返し

 夏の花祭を終え、梅雨を目前に控えたある日の夜のことである。  一日の仕事は終わり、入浴も済ませた慈乃はこの時間には珍しく一階の食堂にいた。食堂の片隅に置かれた工作道具や絵本が仕舞われている棚の前で、慈乃は頭を悩ませていた。 「誰かと思ったらシノじゃない」  その声に驚いて振り向くと、そこにはウタセとスギナが立っていた。声の主であるウタセは不思議そうな顔をしている。 「お、驚きました……」  ばくばくとうるさい胸を押さえて慈乃が呟けば、スギナが訝しげに尋ねてきた。 「こんな時間に何してんだ?」 「ええと……」  どう説明したものか考えていると、ウタセが目ざとく慈乃の手にしているものに気づいた。 「それって絵本だよね。これが何か関係あるのかな?」 「は、はい。そうです」  慈乃は頷くと、結局思いつくままを口にした。 「絵本を作ろうと思ったのです」 「絵本?」 「またなんで急に」  慈乃はひと呼吸おくと、経緯を話し始めた。 「夏の花祭を終えて、もらってばかりだと改めて感じたのです」  夏の花祭やそれまでの学び家の家族との交流から慈乃はようやく笑えるようになった。それまでは感情表現に乏しく、泣くことも笑うこともできずにいて、まるで人形のようだと自分自身でも思ったほどだ。  それが変わった。 「私がこうして変われたのはきっと家族が寄り添ってくれて、あたたかな心を与えてくれたからだと思ったのです」 「それももちろんだけど、一番はシノが変わろうとしたからだと思うよ」  ウタセが柔らかに笑む隣で、スギナも微かに頷いた。しかし、慈乃はゆるゆると首を振った。 「そうだとしても、私は、私にしかできないことで皆さんに何か返したいと思いました」  ウタセとスギナに向けられる慈乃の黄金色の瞳は真っ直ぐで、輝いている。慈乃の強い決意を受け止めた彼らは今度は口を挟めなかった。代わりにウタセが慈乃に話の続きを促す。 「それで、絵本なんだ?」 「はい。母から聞いた話を形にしようと思ったので」  慈乃は自身が持つ絵本に視線を落とし、まぶたを閉じた。 「こうすれば母との思い出が残されるし、何より子ども達も楽しんでくれるのではないかと考えついたのです。子ども達が喜ぶ姿に、ウタくん達も喜んでくれるのではないかと」  ウタセとスギナは軽く目を瞠った。慈乃がそこまで考えているとは思っていなかったからだ。  慈乃は目を開け、顔を上げると淡く微笑んで見せた。 「きっとこれは、私にしかできない恩返しになると思うのです」 「……」  滅多に見ることのない蕾がほころぶような笑みを前にして、ウタセもスギナも言葉を忘れて、呆然としていた。  二人の反応からおかしなことを言ってしまっただろうかと思った慈乃が不安げな声をあげる。 「あの……」  しかし慈乃の不安は杞憂だった。 「シノらしくて、すっごくいいと思うよ!」 「ああ。オレもそう思う」  彼らは心底から慈乃の考えを肯定し、歓迎してくれた。  ウタセは柔らかにあたたかに笑った。 「シノの行動理由はやっぱり優しいね」  どういうことかと意味を図りかねて、慈乃は首を傾げた。するとウタセは「無意識っていうところがまたシノらしいよね」と小さな笑みをこぼした。 「お母さんとの思い出を大事にしたいっていうことも、学び家の家族みんなを喜ばせたいっていうことも。それを恩返しにしたいっていうのも、発想が優しいなって」 「そう……でしょうか?」  慈乃としては思いついたままに行動しただけだったのでウタセの言うことにもいまいちぴんとこなかったが、悪い気はしなかった。  ウタセは「そうなんです」といたずらっぽく笑んだ。  そこでスギナが控えめに口を開いた。 「それで、シノは絵本を持って難しい顔してたわけか」 「はい。既製品から何か参考になることがあればと考えて」 「何かわかったのか?」  スギナの問いに慈乃は眉を寄せた。 「観察すればするほど奥が深くて……。でも、頑張ります」  普段なら手伝いを申し出る場面だが、ウタセはそれをぐっとこらえた。慈乃の決意を知ったからこそ、それは違うと思ったからだ。彼女の意思を尊重したいなら取るべき行動はひとつだけだ。 「うん、頑張ってね。僕も楽しみにしてるよ」  心からの応援を言葉にして、想いを言霊にのせて慈乃に届けること。  スギナもウタセの言葉に同調するようにひとつ頷く。  彼らにできるのはこれくらいだったが、慈乃は嬉しそうに小さく笑った。つられてスギナがふっと口角を持ち上げ、ウタセは慈しむような微笑みを見せた。  慈乃の心がまたあたたかいもので満たされる。心地よいぬくもりに慈乃はこの時を愛しく思うのだった。  それから数日かけて慈乃はやっとの思いで絵本を一冊完成させた。制作過程を知っていた子ども達は今か今かと完成する日を待ち望んでいた。慈乃が「できましたよ」と伝えると、子ども達は一様に喜びをあらわにした。  さっそく読んでほしいとせがまれる。慈乃は周囲に子ども達を集めると母の話を元に自身が作った物語を語り聞かせた。 「おしまい、です」  ぱたんと絵本を閉じると、周囲から拍手と歓声があがる。  その景色は慈乃が見たいと願っていた子ども達の笑顔で溢れており、近くにいたウタセ達職員も楽しそうに笑っていた。 (私なりの恩返しが、できていたら嬉しいわ)  自分にしかできない方法で、自分が望む景色をつくりだす。  目の前に広がる笑顔の数々を、慈乃は慈愛に満ちた眼差しで見つめるのだった。
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