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今日からわたしは他の男と
仕事から帰り、玄関先のポストを開けると、そこには一通の封筒が入っていた。
ん? 誰からだ?
男は封筒を手に家へと入る。差出人の表記がないことに首をひねりながら、封を切ってみると、中からは手紙が出てきた。
『今日からわたしは、他の男と生きることになりました。それを聞いて、あなたはどう思うでしょうか? 寂しさが込み上げてきましたか? ヤキモチのひとつでも妬いてくれるでしょうか?
思い返せば、あなたとは随分と長い間、一緒に過ごしましたね。旅行が好きだったあなたのおかげで、いろんな場所へ出かけることができました。今じゃ訪れたことのない場所のほうが少ないんじゃないかしら。ふたりで眺めた美しい景色の数々が、今でも鮮明に思い出されます。すべての瞬間が、わたしにとってかけがえのない宝物なのです。
あなたと一緒にいるとき、わたしはいつもあなたの手のぬくもりを感じていました。いつだって手を握っていてくれるんですもの。
長くて器用な指。時にあなたの手のひらの汗を感じながら。もう、あの手のぬくもりを感じられないのかと思うと、胸が締めつけられる思いです。
こんなこと望んでいなかったのに、今日からわたしは他の男に触れられる。あなたがそう望んだんだから仕方がないわね。わたしにはどうすることもできない。運命ですから。
そういえば、急に女を連れ込んできたことがありましたね。なぜあんなひどい仕打ちをしたのでしょう? 嫉妬で気が動転してしまい、少々手荒なことをしてしまったこと、今でも反省しています。
わたし、暴走するとブレーキがきかなくなる性格みたい。結局、ケガを負ってしまったのはわたしのほう。治療するのにたくさんのお金が必要になってしまって。ほんとにごめんなさい。あなたに迷惑をかけてしまったこと、改めて謝罪させてください。
実は、わたし、あなたの自宅からそう遠くない家で暮らすことになったの。心配しないで。あなたへの未練から、そんなことを企んだわけじゃない。たまたま、わたしを選んでくれた男の家が、そこにあったってだけの話。
だから、もしかすると、わたしのことを近くで見かけることがあるかもしれない。そんなときは、明るく手でも振ってください。
あなたに見つけてもらえるよう、あの頃のままのわたしでいたいけど、それはわたしを選んでくれた男が決めることね。
男は、愛した女を自分の意のままに変えていくもの。だから、まったく別の女になっちゃうかもしれない。たとえそうなったとしても、変わってしまったわたしのことを責めないで欲しい。
ごめんなさい。ついつい長くなってしまったわね。あなたと過ごした夢のような時間を思い返すと、涙がとまらなくなって、視界もどんどん悪くなる。しまいには、涙も枯れ果てました。
今まで、たくさんの宝物をありがとう。あなたのことは一生忘れない。
あなたも、新しい女との新しい人生を楽しんでください。わたしと一緒にでかけた場所も、きっとまた訪れることでしょう。そんなときには、一瞬だけでもいいから、わたしのことを思い出してくれると幸いです。
それじゃあ。お互いの未来に向かって、走り出しましょう。悔いが残らないよう、アクセルはいつだって全開で。
さようなら』
男は手紙を手にしたまま、呆然と立ち尽くしていた。手紙の差出人が誰かはわかっている。胸に去来する懐かしくも切ない気持ちに心当たりもある。しかし、まさかこんな手紙を送ってくるなんて。そのこと自体が、にわかに信じがたかった。
男はチラッと自宅のガレージに目をやった。
そこには、先日買い替えたばかりの新車の姿。初々しい艶を放ちながら見つめ返してくる。
男は慌てて新車に背を向けた。
「まさか、売りに出した愛車から手紙が来るなんて……」
きっと、中古車として新たなオーナーに買われていったのだろう。
「見つかるとマズイことになりそうだな」
何も気づいていない様子の新車を一瞥すると、男は書斎へと急いだ。滅多と読むことのない分厚い辞書を開き、思い出に蓋をするように封筒を挟み込んだ。
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