ニセモノ彼氏

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 その日から門脇君のメッセージは来なくなった。そして、廊下やエレベーターホールでもすれ違わなくなった。  ばったり出会った前原に、門脇君の出勤の有無を訊ねてみると、彼は通常通り出勤しているとの事だった。だとしたら、私と会わなくなった理由はただひとつ。 「門脇君と喧嘩でもしたの?」  長い巻き髪を後ろでまとめた前原が、好奇心を含んだ顔で訊ねてくる。 「喧嘩っていうか……」 「でも、門脇君なら大丈夫でしょ。廣田にベタ惚れじゃん」  返答を詰まらせた私に、隣を歩く前原が明るく言う。私の心境を心配してくれているのかもしれないとその時ようやく気付いた。私はいつだって人の心に疎い。 「痴話喧嘩をしているうちが平和だよ。私なんて彼に言いたい事もなくなっちゃった」 「それでも、結婚するんだよね?」  トートバッグの紐を握っている前原のエンゲージリングがきらりと光る。前原は「仕方ないよね」と微笑んだ。妥協もすれ違いも乗り越えた前原は、幸せに溢れていて輝いている。  私も前原のようになりたかった。  恋をした事がない。  そして、自分を装う術を必要ともしないし、何より女らしさを振舞う事も苦手で、素のままで生きてきた。その結果、大人になってからは「女らしくない」「結婚できなさそう」と笑われる事が増えて、それらに笑顔で対応しながら過ごす以外の方法を見つけられなかった。  人を好きにならない自分を欠陥品のように思った。誰にも言った事がなかったのに。  忙しない年度末、あっという間に時間の流れた三月末、ある地域では桜が開花したという。  門脇君の退職については社内でのニュースとなり、数人が私に真相を訊ねてきたが、私は知らないの一点張りで答え続けた。嘘をついていない。本当に、私は門脇君本人から何も聞いていない。  営業部内では送別会が行われたらしいけれど、当然私は参加をする事もなく、三月最後の日曜日を迎えた。  休みである事をいいことに朝に惰眠を繰り返していた私の枕元で、スマートフォンが小さく震え、私はゆっくりと目を開けた。スマホに表示された通知を見て、私は一気に覚醒する。  ――おはよう  久しぶりの門脇君からの朝のメッセージだった。私は両手でスマホを持ったまま起き上がる。パジャマを着た肩に触れる気温が真冬に比べてずいぶん高くなったことに気付く。  おはよう、と四文字を返すだけでいいのに、戸惑っていると更に通知が届いた。  メッセージアプリに表示されたのは、一枚の写真だった。満開の桜が画面いっぱいに広がっている。この近辺では桜はまだ開花していない。  ――今、実家にいる  吹き出しマークと共に門脇君のメッセージが表示された。どこかで予想できていたものだった。  ――桜が綺麗で、廣田に見せたくなった  文字だけのツールなのにその言葉に嘘がないと思えるのは、この一か月間、門脇君の近くにいたからだ。物理的ではない場所で。  今日からおまえは俺の恋人だと言われた日から、やたらと廊下ですれ違っていたのは、門脇君が私を探そうとしていてくれたからかもしれない。自惚れかもしれないけれど、そうだといいと思う。  混沌とした感情を抱く会社で、門脇君の存在は確かに私の救いだった。  私は送られてきた画像をタップして、写真を眺める。春を彩る桜色。綺麗だと思える自分の感情に安堵した。  ーーおはよう  私は震える手先でメッセージを打つ。  ――写真ありがとう。桜、綺麗だね  恋人の期間はあとわずかだ。
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