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治癒師リーナと過去の噂話
馬車がたどり着いたのは、平民街の市場を過ぎてしばらく行った先。ノックの音のあと御者が荷台後ろの木戸を開け、あたしは中の二人が降りるのを待ちきれずに外に出た。
立ち並ぶ民家の中に鋳造所の看板を掲げた家がひとつ見える。通りを行き交う人の中に職人らしい姿も見えたけれど、市場の賑わいと職人町の活気のちょうど中間にある空白スポットなのか、のんびりした雰囲気が漂っていた。
「あ……、ゴホン」
ジゼルはまた「主」と言いかけたようだった。御者台を足場に荷馬車の屋根に飛び乗ると、ジゼルはあたしと同じ高さの目線で二階建ての建物の屋根に目をやる。宿屋の看板が出ているから、ここがたぶん目的地。
「鳥を狩るのもいいな」
ジゼルの言葉が聞こえたようなタイミングで、空色の小鳥が屋根から飛び立っていった。ふと見るとマリアンナもその鳥影を目で追っている。
「無事に着いたって、ユーリックに報告に行くのかな?」
「あの鳥は騎士団の副官なんだろう? 副官っていうのはそんなに暇なのか?」
「知らないけど、でもユーリックの命令なんじゃない?」
パシンと鞭の音がしたと思ったら馬車が揺れ、「おっと」とバランスを崩したジゼルはそのまま地面に飛び降りる。馬車は通りを曲がって宿屋の裏手の方へ入っていった
「リーナ、こっち。その籠はわたしが持つわ」
突然くだけた口調に変わったマリアンナに、ナリッサがポカンと口を半開きにしている。そのあと慌てて籠を手渡し、彼女について道を渡り始めた。
「わたしたちはトッツィ男爵領から帝都観光に来た商人の娘。リーナはわたしの妹で治癒師見習い。この宿屋に麻痺症状患者が収容されていると知り、治癒師を手伝うと申し出た」
「うん、わかってる」
最終確認した二人は、宿屋の扉を開けて中に入っていった。
お膳立てはすべてユーリックの指示によるものだ。宿屋であれば地元の人間が出入りすることもないし、前もって借り上げ患者を集めておけば効率的に治癒できる。
これはナリッサだけでなく平民たちのためでもあるようだった。若い働き手が動けないせいで市場だけでなく職人町でもジワジワと影響が出ているらしく、魔塔への陳情も何件かあったとノードが言っていた。けれど、皇室に報告をあげても魔塔への協力要請はなかったという。
そんな裏事情を聞いてしまうと、平民のために宿屋を借りて治癒師を集めたところで人気取りとしか思えない。ああ、やだやだ。
ローナンドがばら撒いた〝ハズレ〟の麻薬による麻痺は、〝アタリ〟には含まれない毒成分が関節に蓄積して起こるらしかった。薬で毒素の排出を促すのが主な治療で、魔力でできるのは副作用による一時的な痛みの憎悪を緩和するくらい。魔術師だろうが治癒師だろうがそれは変わらないとノードは言っていたけれど、だとしても人海戦術で魔術師さんに協力してもらえばもっとたくさんの人を治療できるのに。
あー、やだやだ。
「主、ぼくらも行こう」
治療現場に毛を持ち込むのはどうかと思う、とあたしがつい言ってしまったせいか、ジゼルは中に入ろうとしなかった。宿屋の周囲をグルッと回って様子をうかがい、そのあと木箱や庇を伝って二階の窓枠に飛び移る。
宿屋といっても一階と二階に大部屋がひとつづつあるだけで、患者は雑魚寝。横手と裏手の路地に面して格子窓がひとつずつあり、鎧戸は開け放たれていた。
ナリッサたちの姿はまだ大部屋になく、一階と二階に二十人ずつくらいの患者と、治癒師らしい白衣姿が二人ずつ。お腹を出すように上着をまくり上げている人や上半身裸の人もいて、中に入ってみるとムッと汗の匂いがした。
ジゼルは窓の格子に前足をかけてこっちを見ている。
「ねえ、ジゼル。今日ってもしかして暑い?」
「そうだな。気温はそこまででもないが、昨日までの雨で湿気がこもっているんだろう。少々蒸し暑い」
窓が開いているのはどうやら衛生管理のためではなく風を入れるためのようだ。
「ジゼル、あたしちょっとエアコン係やって来る」
あたしの冷気の拡散範囲はそれほど広くない。たぶん、体臭が匂うくらいの距離じゃないだろうか。ということで、あたしは鼻をつまんで(も息苦しくない!)、とりあえず二階にいる患者さんたちを順に冷やしていった。
「なんか涼しくなったな」
そりゃそうでしょ。エヘン。
患者さんたちは快適になったようだけど、白衣を着た治癒師さんたちはまだ暑そうだった。気温や湿度のせいだけではなく、どうやら魔術の使用時に体温が上昇するらしい。彼らは患部に手をかざし、短い言葉を繰り返し詠唱する。そのうちジワジワと額に汗が浮いて、患者の眉間によったシワが消えていく。
「ねえ、ジゼル。ジゼルもこの治癒魔法使えるの?」
「使えるぞ」
「やったことある?」
「ない」
「どうして?」
「契約者に求められたことがなかったからな」
えっ?
「ジッ……、ジゼルって契約者がいたの?」
「いないと思ってたのか? あの召喚が初めてだったら、ぼくは主ではなくナリッサを選んでたと思うぞ」
それはつまり、ピアスを破壊してあたしを消滅させたってこと?
「どうしてあたしにしたの?」
「言っただろう。生身の人間と契約するのは面倒だって。都合よく使われるのはこりごりなんだ」
「あたしだって都合よく使うかもしれないよ?」
「それはそうだが。甘い物ばかり食べてたら辛い物が食べたくなるのと一緒だ。口直しみたいな。出血大サービスしてもらったしな」
口直し……。
出血大サービス……。
「ちなみに前の契約者たちは……?」
「死んだに決まってるだろ。闇落ちした人間もいる。あとは殺されたり、病死、事故死。悪魔を飼うと短命になると言うからな、契約期間はどれも長くない」
うぶな子猫と思っていたわけじゃないけれど、なんだか胸に広がるモヤモヤ。あたしが初めてじゃないと言われたショック。
「ねえ、ジゼルはあたしと契約したこと後悔してない?」
「なぜだ?」
「だって、ピアスの片っぽをノードが持ってるから、壊してあたしとの契約解消しようと思っても簡単にできなくなっちゃったでしょ?」
ジゼルはたった今そのことに気づいたように目をパチクリさせた。
「魔塔主が破壊しないようにすることばかり考えてたから、うっかりしていた。主、かしこいな」
いや、絶対ジゼルがおまぬけなんだって。
「まあ、今のところ後悔などしていないから気にするな。幽霊が主というのも望んでできる体験ではないし、それなりに楽しんでる」
うん。たしかに楽しんでるのは常々感じてる。
「なら、契約者としてお願いしていい?」
「なんだ?」
「ジゼルの魔法で治癒師さんのお手伝いしてあげられないかな」
「治癒魔法か? それは構わんがおそらくサルにバレるぞ」
あっ、そうだった。
「じゃあ、諦めるしかないか」
「サルがいないときに来ればいいんじゃないか? この宿はしばらく治療のために使われるんだろう?」
「いいの?」
あたしが聞くと、ジゼルは楽しげにケケケッと笑う。
「そんなことを聞く召喚者はいないな」
それなら近いうちに魔塔を抜けて来ようという話をしたあと、あたしたちは一階に降りてみることにした。
ジゼルの姿が窓から消えたのを確認し、あたしは床をすりぬけて一階の天井から顔を出す。汗臭さに混じって漢方っぽい薬の匂いが漂っていた。たぶんナリッサが調合した薬。
大部屋にはナリッサとマリアンナ、それに加えてもう一人見知った顔がある。
「あれ、なんか少し涼しくなりましたね」
後ろでひとつに束ねた茶髪を揺らしてキョロキョロ部屋を見回したのは、以前ダンの倉庫で出会った治癒師のフィリスだった。ヒョイと一階の格子窓から顔をのぞかせたジゼルも「あっ」と声を漏らす。
「おや、かわいい子猫がいますね」
フィリスはひょろっとした優男。なよっとした笑顔は相変わらずだ。彼以外の人たちは治癒師を含めナリッサとマリアンナに好奇の眼差しを向けていた。
「こんな子どもに治癒師の手伝いができるかってぇの。他でやってくれよ。実験台にされるのはまっぴらだ。フィリス先生、あんたがやってくれよ」
ガタイのいい若い男は、苦痛に耐えるように左肩を押さえた。どうやら左腕が動かないらしい。
「大丈夫ですよ。この治療では薬の作用が第一で、治癒師は痛みを和らげる簡単な魔術を施すだけです。弟子入りしたばかりの治癒師見習いでもできる初歩の初歩ですから」
「そうは言ってもよう」
渋る男に、フィリスが「それなら少し待っていてください」と部屋を出て行った。すぐ宿屋の男らしい白髪頭の中年男性を連れて戻ってくる。
「ここのご主人は慢性の腰痛に悩まされているんですが、リーナさんには最初にご主人の腰痛を和らげてみてもらいましょう。施術を見てそれでもリーナさんでは嫌だとおっしゃるなら、わたしが治療しますから」
フィリスの態度からすでに宿屋の主人と話をつけていたのかと思いきや、宿屋の男の口からは「ゲッ」と声が漏れた。
「大丈夫ですよ、ご主人。おそらくリーナさんはわたしより優れた治癒師です。差し入れてくださった薬の調合も完璧以上でした」
フィリスがサラッと口にした言葉で部屋の中がザワついた。おそらく、ここら辺りではフィリスが一番頼りにされている治癒師なのだろう。麻薬事件のとき商人のダンが相談に行ったのもフィリスだった。
……あっ、そっか。
フィリスがここにいるのは、麻薬事件があったからだ。あのとき白影に襲われる可能性があったフィリスにユーリックが獣人の護衛をつけた。もしかしたら、その獣人はマリアンナだったんじゃないだろうか。そういえば、鳥さんがさっきここにいたのも麻薬事件の調査の続きなのかもしれない。
大部屋の入口近くに宿屋の主人がうつ伏せに寝て、患者たちの何人かは立ち上がってその様子を見ていた。
「信用してるよ、お嬢さん」
宿屋の主人の笑顔が引きつっている。
「大丈夫です。四才の時から見習いをしてきたので」
ナリッサの言葉にふたたび部屋中がどよめいた。
ナリッサは馬車の中でやったのと同じように両手を胸の前で合わせると、あたしには聞き取れない言葉で詠唱する。うっすらと光が彼女の手を包み込み、近くで見ていたフィリスの目が見開かれた。
「すごいでしょ?」
誇らしくてつい口にしてしまったけど、もちろんフィリスには聞こえないし、ジゼルが呆れ顔になっただけ。
ナリッサは何も耳に入っていないようだった。光を保ったままの手を男の腰あたりにかざし、探るように動かしたあと直接体に触れる。波紋を描いた淡い光は肩甲骨からお尻あたりまで広がってスウッと消えた。
宿屋の主人が「おおっ?」と声を漏らしたことで、その効果が部屋中に伝わった。ナリッサは「もう少し」と患者が動こうとするのを止め、彼の背に触れたまま短く詠唱する。
いつのまにかどよめきはおさまり、治癒師も患者も固唾を飲んでナリッサの施術を見守っていた。
「はい、終わり」
ナリッサは屈託ない笑顔を宿屋の主人に向け、腰のあたりをポンと優しく叩いた。立ち上がった男は腰に手をあてて左右に振り、放っておいたらそのまま踊り出してしまいそうだ。
「お嬢さん、こりゃあ本当にすごいや。すごいよ、フィリス先生」
フィリスは言葉も出ないくらい驚いているらしく、コクコクと頭を上下させている。一転して部屋中にリーナを呼ぶ声が飛び交った。騒ぎを聞きつけた二階の患者がどさくさに紛れて押し寄せ、部屋はいつの間にか寿司詰め状態。
「あのっ」
ナリッサが一言発しただけで部屋はシンとなる。今まで見たナリッサの姿で一番皇女っぽかった。皇女というより聖女。
「まだ薬を飲んでいない患者さんは少し待っていて下さい。服薬から十分から三十分くらいで痛みが出始めるので、先に痛みがある方から治癒していきます」
ナリッサがすごいのか、ナリッサに治癒を教えたローズがすごいのか。ナリッサの治癒術は他の治癒師に比べて施術時間が短い上に、効果も大きいようだった。
あたしは自主的に冷房係をしながら、休みなく治癒を続けるナリッサを見守っている。どうしてあの小説では悪女になってしまったのか不思議でしょうがない。
一階と二階あわせてナリッサが治癒を施したのは十九人。宿屋の受付前に置かれた椅子に座り、ナリッサが自分の肩をもんでいる時には開け放ったドアから茜色の空が見えていた。
マリアンナは馬車を呼びに行き、宿屋の主人は患者たちが帰ったあとの大部屋を掃除している。テーブルを挟んで向かいに座っていたフィリスは、落ち着かなさそうにキョロキョロと周囲をうかがっていた。
「フィリス先生、どうかされたんですか?」
ナリッサの怪訝な表情に、彼はさらに挙動不審に頭をかいたり首をひねったりしていたけれど、意を決したらしく「あの」と身を乗り出した。
「ナリッサ様」
彼が潜めた声で言い、ナリッサの表情が固まる。
「あの……、トッツィ様に知らないふりをするよう言われたのですが、伝えておきたいことがあったので。申し訳ありません」
「伝えておきたいことって?」
ナリッサの声が警戒と緊張で強ばっていた。
「ローズさん……、ローズ様のことです。わたしがこの話をしたことは言わないで下さい。トッツィ様にも皇太子殿下にも」
あたしの顔も驚きで強ばっていたかもしれない。
「意外な展開だな」
戸口に立っていたあたしに、ジゼルがボソッと背後からつぶやいた。
ぼくは聞いてもいいだろう? みたいな顔をして中に入って行ったけれど、ナリッサはそれさえ気づいていないようだ。
「フィリス先生はお母さんと知り合いだったんですか?」
「何度かわたしの治療院に来られたことがあって、少し話をしました」
「治療院に?」
「事故で亡くなられる一年くらい前から何度か。マナ滞留症状について調べていらしたようです。ローズ様の話だと、辺境地ではマナ滞留症状が増えていたらしいのですが、帝都ではまったく見られないのが不思議だと」
ナリッサは口元に手をあててしばし思案する。
「……帝都にマナの滞留症状がないわけではなく、症状の判別ができなかったんじゃないですか? 症状が風邪と同じで見分けにくいとお母さんから聞きました」
「わたしは判別できないかもしれませんが、ローズ様は帝都での診療を始めたあとそのことに気づいたようです」
「じゃあ、やっぱりないのかな」
「判別できたところで、マナの滞留は治癒師にどうこうできるものでもありませんし、もしかしたら調査をまとめて魔塔に治癒を要請されるつもりだったのかもしれません」
フィリスは目を合わせるのもおこがましいというようにうつむいて話し、ナリッサが不思議そうに首をかしげたことに気づいていなかった。
ジゼルはナリッサの肩に乗り、耳元で囁く。
「ナリッサは治せるんだろうが、おそらく普通の治癒師に他人のマナの流れを整えるのは無理だ。目立ちたくなかったら余計なことは言わない方がいいぞ」
ジゼルのアドバイスにナリッサは無言でうなずき話題を変えた。
「フィリス先生、お母さんはこのあたりによく来てたのかしら?」
「わたしが帝都に来たのは八年ほど前ですが、帝都の治癒師の間でローズ様はずいぶん有名なようでした。ナリッサ様が生まれる前はこのあたりで診療されていたこともあったようで、腕を見込まれてガルシア公爵様の邸宅にも出入りされていたとか。公爵様は時々平民の青空教室に顔を出されるので、そこでローズ様の噂を聞いて声をかけられたようです」
「お母さんの噂って」
「ローズ様のことを聖女と呼ぶ人がいたらしいですよ」
不意にフィリスがパッと顔をあげた。
「そういえば、最近このあたりでローズ様のことを聞きまわっている人がいると、今日来ていた治癒師の一人言っていました。ガルシア公爵様とローズ様の関係について聞かれた人が何人かいるようです。それで……」
かすかに馬のいななきが聞こえ、ナリッサは戸口をうかがいながら「言って!」と彼を急かす。
「あの、……平民街ではナリッサ様が公爵様とローズ様の子どもではないかと、半ば願望を込めて噂する人もいるようなんです。特に、ローズ様がここにいらした頃のお二人を知っている人たちが。もしその噂が貴族の耳に入ってしまったら、と」
「ベルトラン」
ジゼルの小さなつぶやき声に、ナリッサの顔が蒼白になった。開け放ったドアの向こうに馬車が止まり、「リーナ」とマリアンナの声がする。
フィリスは慌てて立ち上がり、「今日は助かりました」と演技に本音を混ぜた顔で頭を下げた。
「リーナ、帰りましょう」
「うん。フィリス先生、今日はありがとうございました」
ナリッサが背を向ける前に、「あの」とフィリスが引き止める。
「今日の患者さんたちは自分で歩ける比較的軽度の患者さんたちですが、家で動けずにいる人もいます。もしリーナさんがまだ帝都に滞在されるのであれば」
「また来るわ」と、ナリッサはフィリスがすべて言い終わる前に口にした。
「そんなことじゃないかと思ってたの。どこまでできるかわからないけど役立てるなら何かしたい。都合がついたら連絡する」
「ありがとうございます」
十四才の少女に深々と頭を下げるフィリスの姿が不自然でなかったのは、治癒師としてのナリッサを見たあとだから。
ナリッサはマリアンナに促されて馬車に乗り込むと「ハァ」と疲れた様子で息を吐き、癒やしを求めるように膝の上の白猫をなで続けていた。
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