憑依とめまいとラブ展開は突然に~腹黒イアンvs女優サラ~

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憑依とめまいとラブ展開は突然に~腹黒イアンvs女優サラ~

差し出されたイアンの手は白かった。 素直に手を取ろうか、それともパシンと叩いてやろうか。どうしよっかな、と考えていたら、先にイアンが痺れを切らして顎をあげた。上目遣いが媚びて見え、デコピンしたくなるのを我慢する。 「ジゼルがやめとけっていうから、やっぱりやめようかしら」 ナリッサの口調に変化を感じたのか、イアンは興味深そうに目線をあわせ上半身を起こした。 「皇女様はジゼルの契約者ではないでしょう?」 「でも、魔塔主様の猫なら言うことを聞いた方が賢明だと思わない?」 あ、年下だと思ってついタメ口になっちゃった。イアンの口元の笑みが腹黒。 「舞踏会のことはもう一度お兄様に相談してみます。ベルトラン卿は想像していたのとお人柄がずいぶん違っていたから。わたしが戸惑うのも理解してくださるでしょう?」 「そんなに神経質になる必要はありませんよ。結婚の申し込みをしているわけではないのですから」 たしかに、一夜限りの契約パートナーに過ぎない。 「ベルトラン卿は〝偽物皇女〟の他にエスコートしたい方がいなかったのですか?」 あたしの問いかけにイアンの笑みが深くなる。 「皇女様をエスコートしたいと、わたしから父にお願いしたのです」 ニール研究所でのゾエとの会話を聞いたときも感じたけれど、ナリッサに関して積極的に動いているのは宰相ではなくイアンのようだ。政局を見据えてのことなのか、時々見せる好奇と狂気が根底にあるのか。 「皇女殿下は、どなたかエスコートしてもらいたい方がいるのですか?」 ここは「お兄様」ってアピールしたいとこだけど、こんな時に限ってスクルースもマリアンナもいない。 ゾエはナリッサの変化を感じたようだけど、舞踏会の返事を保留にしたことにはホッとしているようだった。 「ベルトラン卿、そろそろ庭園に戻りましょう。きっとみな待ちくたびれています」 池に背を向け歩きはじめると、玄関前に控えていた騎士と執事がさりげなく視線を他へ向けた。あたしがイアンの手を取らなかったのを見ていたらしい。 「フラれたのが護衛の騎士にバレてしまいました。父にどう報告するつもりなのか」 ナリッサの身長だと、隣に立つイアンが大きく感じられる。 「あの騎士はわたしの監視係なんです」 イアンは砕けた表情で肩をすくめた。思っていたよりベルトラン親子の関係は良くないのかもしれない。まあ、ナリッサについてる騎士と家庭教師も監視係だから、一概にそうとは言えないけれど。 「ナリッサ様、せめてワルツはわたしとも踊ってくださいね」 「それは当日の気分次第です。わたし、ベルトラン卿が誰と踊りたいのか知っているんですよ」 へえ、と彼は興味をそそられたようだった。 「そんな話は誰ともした記憶がありませんが、答えを教えていただけますか?」 「ゾエでしょう?」 後ろから聞こえていた足音が一瞬止まり、イアンもそれに気づいたようだった。彼はペースを変えず歩き続ける。 「ゾエ先生は平民ですよ。小さいからデビュタントに紛れても違和感なさそうですが」 イアンは茶化すようにクスクス笑う。 玄関前を通り過ぎ、「何の話をしてるんだ?」という表情の騎士と執事を無視して石榴の庭園に向かった。 「石榴宮へ来られたのも、わたしではなくゾエに会いたかったのではありませんか?」 「皇女様は面白いことをおっしゃいますね。彼女はガルシア側の人です。ガルシア公爵家とベルトランの関係はご存じありませんか?」 「知っています。でも、叶わなくても望んでしまうことってあるでしょう? わたしがお兄様と踊りたいと思っているように」 ちょうどテーブルまで戻って来たタイミングで、イアンは不思議そうにあたしを見た。 「ベルトラン卿は高望みだと思われますか?」 「いえ、デビュタントのパートナーを家族が務めるのは珍しくありません。でも、意外です」 「お兄様とわたしのことは本宮でも噂になっていると言われたのに?」 「噂と言っても一部で囁かれているだけですし、それに別の件(・・・)で出入りされているのでは、と」 「別の件?」 ええ、とイアンは言葉を濁したけれど、間違いなく麻薬事件のことだ。 ということは、ベルトランはナリッサとユーリックの距離が縮まったと確信して近づいたのではなく、状況を探ろうとしているだけなのかもしれない。 「そんな(・・・)わたしのパートナーを務めることにどんな栄誉があるのでしょう。ベルトラン卿も白い眼で見られるかもしれませんよ。やはり、パートナーは騎士の方にお願いしようかしら。トッツィ卿が男性だったらよかったのに」 「皇女様、ベルトランがパートナーとなることで根も葉もない噂を広める貴族たちを黙らせることができるんですよ。もう一度よくお考え下さい」 必死に訴えるイアンの言葉に思わずグッときた。でも、 「判断はお兄様におまかせすることにします」 パートナーはきっとイアンになるだろう。だからといって今ここでイアンに説得されるつもりはないし、あたしが勝手に決めてしまったらまたナリッサの記憶が混乱して疑心暗鬼になってしまう。 とりあえずノードが来るまでにもっと〝お兄様とダンス踊りたいアピール〟をして、せめてユーリックと舞踏会でワルツを…… と意気込んでいたのに、クラッとめまいがした。これは風邪の前兆? 「ジゼル」 庭で蝶を追っていた愛らしい白猫が、あたしの呼びかけで一目散に駆けてくる。広げた腕に飛び込むと「どうした?」と耳元で囁いた。 「風邪ひきそう」 「……またか。とりあえず魔塔主を呼んでくる。本宮には入れないが気配で気づくだろう」 イアンはあたしたちのヒソヒソ話に気づいていたようだったけれど、そんなの気にしている余裕はなかった。風邪はひきはじめが肝心って言うし、ナリッサの体が優先。 「じゃあ、行ってくる」 ジゼルはイアンに向かって「余計なことを喋ると死ぬぞ」と物騒な捨て台詞を残し、あっという間に門を駆け出ていった。白猫の逃走劇をみんなポカンと見送っている。 「きっと魔塔主様のところに行ったんでしょう」 あたしの言葉で大部分が納得し、マリアンナはスクルースを探したのかぐるっと庭園を見回した。小鳥の姿はないようだ。 「すいません、ベルトラン卿」 門外の林に目を向けていたイアンは、我に返って人懐こい笑みを寄こした。 「どうされました?」 「少し風に当たりすぎたようです。体調が優れませんので、失礼させていただいてもよろしいでしょうか」 「もちろんです。こちらこそ無理をさせてしまいました」 「いえ、お話ができて良かったです。グブリア帝国宰相ベルトラン公爵閣下ご自慢の御令息がどんな方なのかよくわかりました」 「それは、わたしと逆ですね。わたしは皇女様がどういう方なのか分からなくなりました。殿下はふたつの顔をお持ちのようです」 「あら、それはお互い様ではありませんこと?」 さっきから頭がフワフワして、これ以上口をきいたらハイテンションの毒舌がエンドレスに飛び出しそうだった。ジゼルはあたしを「善意と楽観でできてる」と言っていたけどそんな自覚はないし、最悪の場合ノードからナリッサ接近禁止令を出されるかもしれない。 よし、ここは倒れよう! 「あっ、皇女様!」 ポピーの声が聞こえた。あたしの体を支える腕にポピーのぽっちゃり感はなく、薄目を開けると萌黄色のジャケットと白く骨ばった大きな手。見上げたらイアンの顔が間近にあった。 たぶん漫画ならワンコのたれ耳と〈キュ〜ん〉って文字が頭の上についている。心配顔のイアン、実はこんなにイケメンだったんだ。あまりの腹黒さにうっかり忘れかけていた。 額に触れたイアンの手がぬるくて、あたしが冷や汗をかいてるのか妙にじっとりしている。 ……早く来てくれないかな。 「ノードのバーカ」 エッ、とイアンがつぶやいたけど、もうどうでも良くなった。 「ノードが治してくれるから、イアンは心配しなくて大丈夫です」 「ナリッサ様は、自分のことは治癒できないんですね」 「そうなんです。イブナリアが滅んだのもそのせいかもしれませんね」 あ、なんか余計なこと言ったかも。あたしを抱くイアンの腕に力が入った。 イブナリアの血を引くことを、ナリッサはまだ知らないんだっけ。まあ、なんとかなるでしょ。ギリセーフってことで。 「あの、殿下は……」 イアンが何か言いかけたときどよめきが起こった。目を閉じていてもわかるノードの気配。安心したせいか体から力が抜け、「おっと」とイアンが態勢を崩した。 「ノードは来るの遅過ぎ」 「魔塔主様にそんなふうに言えるのは殿下だけなんでしょうね、()女様」 あたしはイアンからエンドーに引き渡され、おんぶされて寝室まで運ばれた。少しずつノードとイアンの気配が遠ざかり、ジゼルとマリアンナの気配がついて来る。 「熱はないようですが顔色が良くないですね。魔塔主様をお呼びして来ます」 エンドーは今すぐにも部屋を飛び出しそうな勢いだった。あたしもそれを望んでいたけれど、ポピーが「あの」と焦った様子で引き止める。 「姫様はおそらく貧血ではないかと」 「貧血? ……あっ、ああ、そうでしたか。ではポピーさんにおまかせします」 エンドーは意外に冷静に受け止めていた。言われてみれば、たしかにこの感じ……。 「あっ、魔塔主様!」 えっ! どうしよう。どうしたらいい? 異世界ファンタジーなのにこんな設定必要? あたしは頭をフル稼働させてそれっぽい描写がなかったか思い出そうとしたけれど、血の足りない頭では思考がとっちらかって早々に考えることを放棄した。 昨夜のナリッサみたいに布団をかぶって丸くなり、こっそり耳を澄ます。ノードの気配は部屋の外にあって、ボソボソと話し声がした。じきにドアが閉まった音がして「姫様」とポピーが優しく声をかけてくる。 「布巾のお取替えはよろしいですか?」 布巾? あ、ナプキン的な? 「うん、今はいい」たぶん。 「そうですか。しばらく横になっていたら楽になると思います。温かいお飲み物をお持ちしますね」 ポピーが立ち去る気配があって、あたしは慌てて布団から顔を出した。 「待って、ポピー。あの、魔塔主様も、その……」 何と聞いていいかわからずしどろもどろになるあたしに、ポピーがクスッと表情を緩めた。 「恥ずかしがらなくても大丈夫ですよ。昔は〝穢れ〟とされていたようですが、今そんなことを言うのは片田舎の偏屈な老人くらいです」 そうなの? そこの設定は現代日本の価値観に近いって思っていい? 「じゃあ、魔塔主様を呼んでくれる?」 「はい、承知しました」 「あっ! でも、その前に先にゾエを呼んで」 ポピーが躊躇いをみせたのは、あたしとイアンの会話のせいかもしれない。今思えばゾエとイアンの関係を匂わせる話を他人に聞かせるべきじゃなかった。あの時はどうにかイアンをやり込めようとしてたけど、無性にイラついたのは生理のせいか……。 あぁ、反省。 「ゾエとは今のうちに話しておきたいの。ベルトラン卿が平民のゾエに親しく話しかけていたからかしら、陛下とお母様のことが頭を過って動揺してしまったみたい。変なことを口走ってしまったから謝らないと」 「あ、……そうでしたか」 ポピーは安堵した顔でホッと息を吐いた。 「ポピー、もしかして使用人の中にゾエを悪く言う人がいた?」 「いえ、むしろゾエ様の経歴に感心しているくらいです。ニール研究所の研究員なんて」 「ベルトラン卿が言ったの?」 「はい。家門同士の確執抜きにゾエ様のことを尊敬してらっしゃると」 ポピーは目をキラキラさせて部屋を出て行った。 ポピーの実家はいわゆる没落貴族らしく、身分を超えた二人の関係に憧れを抱くのも無理はない。小さな領地で細々と食いつなぐだけ。各派閥の主要な家門や元皇族とは縁がなく、おそらく皇帝はそういう者ばかりを石榴宮に集めたに違いなかった。 そういう意味でアンナが石榴宮に紛れ込めたのは奇跡と言えるけど、現在進行形で没落中のローナンド侯爵家からは潮が引くように貴族の姿がなくなったと聞くし、貿易成金でも政治力はなかったのかもしれない。 ローナンド家の裏の顔などまったく知らされていなかった令嬢が侯爵家を継いだというから、異世界ファンタジーなら没落令嬢は溺愛されるか領地経営かしら? なんて考えていたら、コンコンと控えめなノックの音がした。 「ゾエです」 「入って」 庭園で見たのと変わりない地味服の家庭教師スタイルなのに、うなだれたゾエはなんだか萎んで見える。 「あの、皇女殿下……」 「ゾエ、わたしが先に謝ってもいい? 憶測で変なこと言ってごめんなさい。ゾエの立場が悪くなるかもしれないのに」 皇女が平民に謝るというのはやっぱり余程のことなのか、ゾエは慌てて膝を床について頭を下げた。 「わたしがベルトラン卿との関係を隠していたせいです。ニール研究所での立場も石榴宮の方々には伏せていましたし」 「ゾエは今回のことでガルシア公爵様に怒られたりしない?」 「それは仕方ありません。今後の家庭教師については」 「辞めちゃダメよ」 「しかし」と口にするゾエに、あたしは「その代わり」と手招きする。 ベッドサイドにしゃがみ込んだゾエは、ずいぶん疲れた顔をしていた。気苦労の絶えないそばかすの家庭教師にさらにお願いするのは申し訳ない気がするけど、 「ガルシア公爵様と会って直接お話がしたいの」 ゾエはハッと目を見開いた。目の前の十四才の少女が一体何を思ってこんなことを口にしているのか、その意図を探るように。 「お母さまのことが聞きたいの。それだけよ」 イアンはガルシア公爵とローズの関係に気づいている可能性が高い。一方ゾエはと言うと、二人の間にそういうことがあったとは微塵も考えていなさそうだった。 「わかりました。そのように公爵様にお伝えします」 「ナリッサが両親(・・)について知りたがっていた、と公爵様にはそう伝えて」 公爵は会ってくれるだろうか。皇帝の目がある以上、直接会うのはなかなか難しそうだ。 カリカリカリと扉を引っ掻く音がし、ゾエが振り返る。あたしにはそこに誰がいるのか分かっている。 「ゾエはもう休んで。ガルシア領から帰ってくるなり慌ただしくて疲れたでしょう? わたしも魔塔主様に診てもらったらゆっくり寝て明日のダンス練習に備えるわ」 ゾエは「はい」と素直にうなずき、あたしの傍を離れると扉を開けて白猫を招き入れた。ジゼルはダッシュで駆け込みベッドにダイブする。 「お邪魔でしたか?」 ノードが部屋の前でゾエに尋ねた。 「いえ、ちょうど失礼するところでした」 そうですか、と微笑みを崩さずゾエを見送ったノードは、扉が閉まるなり「ハァ」と厭味ったらしくため息を吐く。その手にはトレーがあり、ポットとカップが乗っていた。 「主、風邪じゃなかったのか?」 や・め・て! 「たしかに血の匂いがするな」 だ・か・ら! 「ジゼル、それは本人の前では言わないでよ」 ジゼルはきょとんとした顔であたしを見上げた。あたしはノードと顔を合わせづらくて白猫の頭をなでる。なでて、なでて、なで続けたけれどノードは一言も発することなく、部屋にはジゼルが喉を鳴らす音。 チラッとノードを見ると、いつもの威圧的な笑顔ではなく明らかに怒っていた。 「とりあえず」と、ようやくノードが口を開く。 「薬を飲んでください。すぐ眠くなりますから、ナリッサ様にはゆっくり休んでもらいましょう」 ノードは粉状の薬をカップに入れ、お湯を注いであたしに差し出した。 「ノード、あの……」 「話は直接本人の口から聞きます」 手渡されたカップが温かくて、あたしは素直にその薬を飲み干した。布団の中に潜り込むとノードの手がナリッサの額に触れ、「大丈夫そうですね」と安心した顔をする。ついでのように頭をなで、途中で中身がナリッサではないことを思い出したのか気まずそうに天井を見上げた。 「ノードはナリッサがかわいいんですね」 「……たまに、人間はみんな大人にならなければいいと思うんです。純粋な子どものままでいてくれたら世界のすべてを愛せるのに、と」 「すべてを、ですか?」 「はい」 「それは、魔塔主としての使命ですか?」 明後日の方を向いていたノードが不意にこっちを見た。 ナリッサの意識は少しずつぼんやりした霞に覆われ、瞼はもう半分くらい閉じて、そのわずかな隙間にノードの碧眼が見える。 あたしはどうして人間じゃないんだろう。 涙が目尻を伝った気がした。 頬に触れた指が、それを拭ったかもしれない。 「サラ」 「ごめんなさいっ!」 意識が戻ったとき反射的に頭を下げたあたしの目には、ベッドですやすや眠るナリッサの姿があった。ということは頭をあげたら魔塔主様がいるはずで、視界にはちゃんと濃紺のローブも見えている。 どうしよう…… とりあえず、もう一回謝っとく? 「あの、ごめんなさい」 無言が一番怖いんですけど。 「ナリッサ様も眠ったことですし、帰りましょうかジゼル」 えっ、あたしは? 「主、部屋の外にサルがいる」 マリアンナがいたら会話しない方がいいのは分かるけど、ノードが返事をしてくれない理由は絶対にそれだけじゃない。 部屋のドアを開け、ノードはマリアンナに笑顔で挨拶した。その作り笑顔すら今のあたしは羨ましくて仕方ない。 階段を下りていくノードの後ろを、気配を消して(るつもりで)追っていく。 「ねえ、ジゼル」 「なんだ? 主」 「ノード、怒ってる?」 「気にしなくていいんじゃないか。今回やらかしたのは主じゃなくてぼくだしな」 えっ? 「イアンがぼくの言葉を聞けるなんて予想外だ。まあ、その理由もだいたい見当はついたが」 「魔法具を持ってたんじゃない?」 「可能性としてはそれもあるが」 「ジゼル」 会話を遮ったノードはすでに玄関前に立っていた。広間と庭園では使用人たちが片付けをしている。外はまだ明るくて、朝からの一連の出来事は全部夢のような気がした。 ノードは門を出るとすぐにゲートを開き、門兵はもう三度目になるのに同じように驚いている。ジゼルがタタタッと駆けて光の中に飛び込むと、それを見届けたノードがおもむろに後ろを振り返った。 「魔塔主様、どうかされましたか?」 門兵が反応する。 「いえ、忘れ物をしたような気がしただけです」 答えながら魔塔主の目はずっとあたしを見ている。あたしは恐るおそる彼の傍まで近づいた。 「では、失礼」 ノードが門兵に笑いかけた瞬間、クラッとめまいがしたけど貧血じゃなくてゲートのせい。堪らずノードに寄りかかると、彼の手がグイとあたしを引き寄せた。めまいはまだ続いている。 「ノード、なんだかいつもよりゲートが長くないですか?」 「大丈夫ですよ。ゲートの中にいる限り外の時間は進みませんから」 そういう仕組みなのはいいけど、めまいが続くのは拷問ですか? 「ノード、怒ってますか?」 「いえ」 彼はバサッと音をさせて濃紺のローブの中にあたしを招き入れた。地面に立っている感覚があって、ゲートから出たのだと思ったら周りにはまだ青と黒の光がぐるぐると不規則な模様を描いている。 「ノードがゲート酔いしないのはローブのおかげだったんですね」 「ズルいと思ったでしょう?」 予想外に優しく耳元で囁かれ、拷問から一転、昇天しそう。これもある意味拷問かもしれない。 「ノードは色々ズルいです」 「知ってますよ。サラさんと違って、わたしはズルいんです」 言い方がちょっと自嘲っぽくて、あたしは気になって彼の顔をそっとうかがった。それはすぐにバレて、目が合うとノードが寂しげに笑う。 「怖くなったんです。サラさんが」 「あたしが?」 オバケだから?  そんなワケなさそうだけど。 「サラさんがいるのが当たり前になることが、です。防音結界だけでガルシア領に行ってしまったでしょう? それはたぶん魔塔主として適切ではなかったんです。それで、少し意地になったというか」 「それで迎えに来てくれなかったんですか?」 「サラさんは数秒で帰って来れますよね」 「ジゼルも来てくれませんでした」 「魔術師を平民街に派遣するために、準備を手伝ってもらいました」 「ノードはもう迎えに来てくれないんですか?」 「……わかりません。でも、今回は迎えに来たでしょう?」 ノードはローブの内側であたしをギュっと抱きしめたけど、それはラブな展開というより迷子の子どもを見つけた父親みたいな感じだった。密着した体からノードの鼓動が伝わってくる。ブルっと彼の体が震えた。 「これ以上は風邪をひきます。そろそろ出ましょう」 情緒もなくポイッとローブから放り出され、クラッとめまいがして地面に手をついたら、今度こそ本に埋もれた魔塔の書斎だった。
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