治癒師皇女と腹黒公子〜その根性治癒して差し上げます。お代は高くつきましてよ〜

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治癒師皇女と腹黒公子〜その根性治癒して差し上げます。お代は高くつきましてよ〜

執務室のソファに横たわったオクレール卿は、頬から首筋までが熱を帯びて赤くなっていた。 エンドーは来客用の寝室でベッドの準備中。ポピーがたらいに水を持ってきてオクレール卿の額に濡れタオルを当てる。 「すいません。少し休んだら……」 「ベッドの準備をしますので、もう少し待っていてくださいね」 ポピーがパタパタと足音をさせて執務室から出ていくと、イアンがソファの脇にしゃがみ込んだ。 「すい、ません」と騎士は切れ切れに言う。 「それは何について謝ってるのかな?」 「このような醜態を……」 「うん、酷い醜態だね。騎士が皇女殿下の宮で熱を出して倒れて介抱されるなんて。それより酷いのが、君がやったことがすでにバレてるってことだよ」 オクレール卿は重たげに瞼を持ち上たけど、瞳はゆらゆら揺れて焦点が定まらない。 「イアン卿、場所を変わって下さい」 ナリッサがイアンの肩に手をかけ、入れ替わって床に膝をつく。 「皇女殿下、彼の罪を知ったうえで治癒なさるんですか?」 ナリッサは「うーん」と考える素振りを見せ、チラッとオクレール卿と視線を合わせた。そしてニッコリ笑う。あたしの背筋はゾクッとなる。 「わたし、マナ滞留症状の知識はありますけど実際に治癒するのは初めてなんです。それに、うっかりしてましたけど治癒師の資格もないんでした」 実験台はゴメンだというようにオクレール卿が視線をそらした。 「でもぉ、石榴宮に真っ先に来てくださるお医者様といえば魔塔主様ですし、魔獣の魔力がオクレール卿の体内で滞留しているだなんて、あの方が気づかないわけありません。魔獣との契約は重罪ですから、治癒してもすぐに首をはねられてしまうかも」 病人相手に笑顔で脅すナリッサの後ろでイアンもニヤニヤ笑っている。 タイトルつけるならこんな感じ。 『治癒師皇女と腹黒公子〜その根性治癒して差し上げます。お代は高くつきましてよ〜』 騎士は目をギュッと閉じ、おそらく耳も塞ぎたいのだろうけどその力はないようだった。 「オクレール卿」と穏やかな声でナリッサが呼びかける。 「お選び下さい。罪人となり処刑されるか、わたしの治癒を受けるか」 「悪女の素質十分だな」ジゼルが呆れ顔でナリッサを眺めている。 「オクレール卿がどう答えても治すんだろうな」 あたしの言葉にジゼルはフンと鼻で笑ったけど、たぶん同じことを思ってたはず。オクレール卿は上半身をわずかに起こし、治癒師皇女と腹黒公子に頭を下げた。 「公子様、皇女殿下の治癒を受けさせていただいてもいいでしょうか」 ナリッサがイアンを見上げ、イアンはいかにも皇女の熱意に押されたふうに肯いて許可する。 「その代わり後ですべて話してもらうよ。皇女殿下、申し訳ありませんがわたしの護衛騎士をよろしくお願いします」 「わかりました」 ナリッサの顔が悪女から治癒師に変わった。同じような笑顔なのに、印象がずいぶん違うのはなぜだろう。 「ねえジゼル。治癒師の時のナリッサと契約したら聖獣になれたんじゃない?」 ジゼルは質問の答えを真面目に考えているのか、じっとナリッサの様子を観察する。 「オクレール卿、あなたは運がいいわ。おそらく帝都の治癒師で今一番マナ滞留症状に詳しいのはわたしよ。一週間前は違ったでしょうけど」 ナリッサは平民街に行ったときと同じように最初に自分のマナを整え、それから騎士の体に触れた。カーテンも窓も開け放たれ、彼女の魔力が纏うかすかな光は陽光に埋もれる。 イアンは窓辺に立ち、チョイチョイとジゼルに手招きした。ジゼルは気づいていながらしばらく無視していたけれど、ナリッサに任せても大丈夫だと確信したのかソファから執務机に飛び移る。そして窓際の花瓶の傍へ着地した。イアンが執務机の椅子に座り、ジゼルと目線をあわせる。 「ジゼルがナリッサ様にもできるって言うから任せたけど、治癒師には無理なんじゃなかった?」 彼はボソッと口にする。 「ナリッサの魔力はすでに治癒師の域を超えている。平民街に行ったあと魔力が増していたからな、治癒することでマナ経路が拡張するのかもしれん」 へえ、と興味深そうにイアンはナリッサに目を向けた。 「言われてみれば魔力が増えてる。でも治癒って魔力量だけでどうにかなるものじゃないよね?」 「ああ。だが、ナリッサは他人の経路を探るのが上手い。それは麻痺症状の治癒を見てわかった。治癒師はだいたい患部だけを探って治癒するが、ナリッサは体全体の流れを把握してから治癒を始める。母親がそう教えたのだろう。経路の把握ができて、かつ十分な魔力を持っているのならマナ滞留症状を治すのは難しくない。あの騎士のマナ経路にナリッサのマナを通して滞留している魔獣の魔力を押し出すだけだ」 「ジゼルもできる?」 「できないことはないが、ああいう神経を使う作業は性にあわない。それに、アレを助けてもぼくには何の得もない。疲れるだけだ」 ゾエはジゼルの言葉が聞き取れないからかナリッサのそばで治癒を見守っていた。ローズのノートを見ていたからナリッサが何をしているのか理解しているようだ。 ケガの治療のように詠唱したりすることなく、ナリッサは胸、みぞおち、鎖骨、腰、……と、探るように手を触れ、自分のマナを騎士の中に送り込んでいく。じっと見ているとあたしにもマナの滞留している場所がわかった。ナリッサが左右の耳の後ろのリンパ節あたりをそっともみほぐし、溜まっていたマナがスーッと流れていく。 「ねえ」 ナリッサはオクレール卿の体に触れたまま窓際を見た。イアンとジゼルが「何?」というように首をかしげ、ナリッサは患者に視線を戻して喋り続ける。 「思いのほかオクレール卿のマナ経路が太くて、このままわたしの魔力が混ざったマナを注いだら彼は治癒師くらいの魔力になってしまうかも。でも、マナを満たさないことには魔獣の魔力は完全に排出できない。この人、おそらくマナが滞留したというよりも魔獣の魔力に体が過剰反応して経路の一部が収縮したのよ」 「つまり?」とイアンが首をかしげる。 「治癒師レベルなら、おそらく話が通じる(・・・・・)わ」 ナリッサの視線がジゼルに向けられ、一同がその意味を理解したようだった。イアンが人差し指を口元にあて、ナリッサとゾエが小さくうなずきあう。 「ジゼルはお口チャックね」 あたしが言うと白猫は「ニャア」と可愛らしく猫の鳴きまねをし、イアンがクッと笑って頭をなでた。ジゼルはオクレール卿のそばに行って治癒状況を確かめると、扉の前で振り返ってまた「ニャア」と鳴く。 「皇女殿下、少し席を外します」 イアンが椅子から腰を浮かせた。 「分かりました。治療はあと十分ほどで終わります。執事たちにはそれまで入って来ないよう伝えて下さい。くれぐれもわたしが治癒したとは言わないように」 「わかりました。伝えておきます」 イアンは書棚に立てかけてあった騎士の剣を手にとり、ゾエに差し出す。 「ゾエ先生、皇女殿下をお願いします。騎士が精神錯乱を起こしたら処分して下さって構いません。ぼくが責任を取ります」 ゾエは一瞬躊躇ったけれど、「承知しました」と剣を手に頭を下げた。 パタパタと忙しない足音が近づいてくる。イアンは執務室の扉を開けると、階段を駆け上がってくるぽっちゃり侍女に微笑みかけた。 「すいません、ポピーさん。うちの護衛騎士がご迷惑をおかけして」 「いえ」とポピーは恐縮して首を振る。 「彼が眠ってしまったのでしばらくソファに寝かせようと、皇女様が」 「そうですか。それで、姫様は?」 「殿下はお優しいですね。もう少し様子を見ていて下さるそうです。騎士を起こしたくないので部屋には入らないようにとのことでした。ゾエ先生も一緒ですから心配ありません。わたしは待つあいだ庭を散策したいのですが、構いませんか?」 「もちろんです」 頭を下げた侍女に「ありがとう」とファンサービスみたいに手を振り、イアンはジゼルと並んで階段を下りていく。エントランスで声をかけてきたエンドーとも同じ会話をし、イアンは石榴の庭園に向かった。 「そういえば、トッツィ卿の姿が見えないけど」 「ああ、ここしばらく来てない。魔獣の件で忙しいのだろう。あの場にいたんだから。それに、ナリッサが外出しないなら護衛など不要だ」 「石榴宮にはジゼルがいるしね」 石榴の木の下に小鳥を見つけ、ジゼルは体を伏せて狙いを定めた。イアンがそれを無視して歩を進め、鳥はパタパタと羽音をさせて飛んでいく。 「せっかくの獲物を、邪魔するな」 「さっきのは普通の小鳥だよ。ジゼルの食事は魔獣じゃないの?」 「魔獣がいないなら普通の動物を狩るしかない。魔塔主が来たら入れ替わりで魔塔の林に行くんだが、あいつはいつ来るかわからん」 そういえば、とジゼルはイアンを見上げた。 「お前、どこで魔獣を仕入れた?」 「何の話?」 「とぼけるな。お前が血の契約を交わした弱小魔獣たちのことだ。オクレールとかいうやつのところで買ったのか?」 イアンは芝の上に腰をおろし、「うーん」と思わせぶりに首をかしげる。真面目に答えるつもりはなく、どう答えたら楽しめるか考えているようだった。 「答える気がないなら別にいいぞ。大したことじゃないからな」 堪え性のないジゼルの目はすでに次の獲物を探している。イアンは苦笑し、余計なお遊びはやめにしたようだった。 「オクレール領から手に入れたものもある。でも、取引したのは男爵じゃない。あそこら辺の農家は魔獣と動物の区別なく一括りに害獣として捕獲してるんだ。処分費用もバカにならないって聞いたからそれを適当に貰ったんだよ」 「魔獣と普通の動物がお前に見分けられたのか?」 「魔獣と動物の境目なんてあいまいなものだよ。オクレールのような辺境域になると普通の動物のように見えても大抵魔力を持ってるし、むしろハッキリ魔獣と分かるような魔獣はぼくには契約できない。ぼくに必要なのは微々たる魔力しかない魔獣だったんだ」 「お前のことはこれから微々(ビビ)と呼んだ方がいいか?」 「イアン・ビビ・ベルトラン?」 クッとイアンが笑う。 「今回のオクレール卿のこともそうだけど、魔力測定器の数値はあまり意味がなさそうだね。個体差はあっても、環境によってはすべての人と動物が魔力を持ち得る。一度宰相に連れられてオクレール男爵の魔獣飼育施設に行ったことがあるんだけど、帝都と違って魔力保持結界がなくても魔獣たちは魔獣らしい姿をしてた。二本の尻尾を持つイタチは自然生息してるらしいよ」 ジゼルの隣にいたあたしはふと気になって白猫のお尻に触る。 「ねえねえ、ジゼル。ジゼルの尻尾も魔力アップしたら数が増える?」 ゆらりゆらりと眠くなりそうな速度でジゼルは尻尾を振った。 「ぼくの尻尾は魔力が増えても一本のままだ」 「そうなんだ」と、あたしの代わりにイアンが反応する。 「二本や三本、ましてや九尾なんて化け物じみた見た目は警戒されるだけだ。召喚獣は魔力が増えれば自由に姿を変えられるようになるから、別に猫のままでいる必要もない」 そういえばそんなことを以前も言っていた。人の姿にもなれるって。 「ジゼル、今は変身できないの?」 イアンがまた危ない目つきになっている。彼の好奇心むき出しの無邪気な笑顔は、無垢な残虐さと紙一重な感じがしてちょっと怖い。 ジゼルは返事をしようとし、何も言わずハッと後ろを振り返った。つられてイアンとあたしが背後に目をやると、カーテンの開けられた応接間にナリッサとゾエ、それにオクレール卿の姿がある。 「処置が早かったおかげだな」 ジゼルが囁き声で言った。 「そういえば、ぼくは微々(ビビ)なのにジゼルの声が聞こえるのはどうして?」 イアンは建物に背を向けて立ち上がる。 「わからん」 ジゼルの答えはあっけらかんとしている。 「わからんが、微々(ビビ)でも血の契約のような魔術を何度か繰り返し行っていると魔獣と波長が合いやすくなるのかもしれん。つまり、お前は変人だってことだ」 広間と同じように応接間からも直接庭園に出られるようになっていて、イアンとジゼルが部屋にあがるとオクレール卿が深々と頭を下げた。信用を得るためなのか、彼の剣はまだゾエが持っている。 「申し訳ありませんでした、公子様」 「何もなかったみたいに顔色がいいな。ありがとうございます、皇女殿下」 「いえ。今は回復していますが、体が魔力に慣れるまで倦怠感があるかもしれません。あまり無理はさせないでください」 ナリッサの言葉に、騎士はふたたび頭を下げた。 「じゃあ、ゆっくり話を聞くとしようか。皇女殿下も彼が何を話すのか知りたいですよね」 ナリッサは当然というように即座にうなずき、オクレール卿への尋問が始まった。 イアンの隣にオクレール卿を座らせ、その横には剣を手にしたゾエが立っている。騎士の前のテーブルにはジゼルがいて、向かいのソファに皇女。あたしはせっかくだからナリッサの隣に腰かけようとしたけど、ジゼルの視線が「憑依したら面倒だから離れろ」と訴えていたので大人しくみんなの頭上で観察することにした。 尋問官はイアン。 「オクレール卿に聞きたいのは、魔獣の襲撃にどう関与したのか。宰相に流した情報は何か。魔獣と契約した理由と魔獣の所在。他に聞きたいことはありますか皇女殿下」 「……聖女降臨の儀式について」 ナリッサが口にした瞬間、回復していたはずのオクレール卿の顔が蒼白になった。彼はめまいに堪えるように額を押さえ、うつむいたまま話し始める。 「父が、……オクレール男爵が考えているのは昔から世界樹の再生でした。そのために欠かせないのが聖女の存在なのですが、オクレール領での世界樹信仰が他の地域と違うのは、金色のオーラを持つ聖女の他に聖女を守る聖獣がいると伝わっていることです」 ゾエは興味深々でその話を聞いていた。あたしが「聞いたことある?」と問うとジゼルは小さく首をふる。 「聖女降臨の儀式は魔法陣を使って行われるため皇家の許可が必要ですが、当然許可など得られるはずがありません。宰相閣下が見て見ぬふりをして下さっているのは、儀式が領民にとって収穫祭と変わらない一行事に過ぎないと分かってらっしゃるからでしょう」 「儀式って具体的には何をするの?」 聞いたナリッサはグロい想像をしているのか顔をしかめている。自分の召喚術で魔法陣に血だらけの死体が現れたのだから仕方ない。 「信者は地下や森の洞窟などで隠れて儀式を行います。魔法陣を描き、魔獣を捧げ、世界樹再生を祈る。それだけです。実際のところ誰も本気で聖女が降臨するなどとは思っていません」 「でも、男爵は聖女が実在するかもしれないと思ってる」 イアンの言葉に騎士は「はい」と素直にうなずいた。 「父が興奮気味に金色のオーラの話をしてきたのは今年初めでした。その後わたしは公子様の護衛騎士に就くことになり、動向を宰相閣下に報告するよう命じられました」 オクレール卿はイアンとは目を合わせようとせず、感情を挟まないように淡々と話している。 「オクレール卿はぼくが調査を頼んだ件も宰相に報告した? 平民街に現れた聖女姉妹の件」 ナリッサの視線がじっと騎士の口元に注がれていた。 「あの件を実際に調査したのはわたしではなく父の部下です。トッツィ卿((マリアンナ))の動きを追っていたようでした。わたしはその者から情報提供を受け、指定された日時に公子様を治療院に連れて行くようにと言われました。あの事件があった日です」 「ぼくを連れて行け、だと?」 「聖女、つまり皇女殿下とフィリス治癒師が接触したと公子様に報告し、治癒師の在院がその日しかないと言えば必ず行くだろうと」 ジゼルがクッと笑い声を堪え、イアンは不貞腐れた顔で白猫を睨んだ。ナリッサが不信感を露わに「いたのですか?」と聞く。 「治療院には行きましたが、皇女様とは入れ違いになったようですね」 しれっとかわし、イアンは話を先に進めた。 「皇女殿下があの場所に来ることをぼくに伏せた理由は?」 「はっきりとは分かりませんが、父は皇女様のオーラの発現を公子様に目撃させたがっているのだと思います。その場には護衛騎士のわたしもいるわけですから、上手くいけば皇女様のオーラの秘密をベルトラン家とオクレール家が握ることになります」 「年寄りは屋敷で高みの見物か。オーラの発現の目撃者になるのはぼくも望むところだけど、あの魔獣の襲撃はやり方が雑過ぎて呆れるよ。オクレール卿の魔力のことと言い、きっとまだ何か企んでるんだろうけど、今からでも父親の暴走を止めた方が賢明じゃない? 皇女殿下を襲ってただで済むと思ってるのかな」 オクレール卿は膝の上でこぶしを握りしめ「わたしは伝書鳩ですから」と唇を噛んだ。 「伝書鳩?」 オウム返しにイアンが聞く。 「わたしは父にとって連絡係に過ぎないのです。剣が握れても今のグブリアでは平民相手に権力を振りかざすくらいであまり意味がない。父は魔術師の子どもが欲しかったようです。聖女降臨の儀式のために」 「それで魔獣と血の契約を? あんなの狂ったやつがやることだよ」 自分のことは完全に棚上げのイアンに、オクレール卿を除く一同が苦笑。 「公子様もされた(・・・)のですよね」 騎士の目が真っすぐイアンをとらえ、イケメンの顔が驚きで固まった。内心してやったりと思っているのか、オクレール卿の口元にはわずかに余裕が見える。 「銀髪の青年が害獣を大量に引き取ったという話を、父は害獣を捕獲した本人から聞いたらしいです。父は珍しい魔獣がいないか頻繁に領地をまわって情報収集していますから。その銀髪の青年が公子様だと知ったとき、〝血の契約〟だとピンと来たらしいです」 「いや、普通はピンと来ないだろう?」 異常さで言えばイアンとオクレール男爵はきっといい勝負。 「父は魔力はなくても魔術狂いです。自分に魔力があれば魔術師として儀式を行うことができますから、血の契約を考えたこともあったようです。けれど精神錯乱を起こすと知って諦めたと言っていました」 「ぼくも血の契約についての知識はあるし、精神錯乱を起こすことも知ってる。それなのに、血の契約なんて危険なことするはずないじゃないか。ぼくの精神はいたってまともだろう?」 いや、どうかな。 今の発言自体が狂ってない? と思ったらみんなそんな目でイアンを見ていた。 「実は、護衛の際に魔力探知魔法具をつけていました。魔力測定器のように数値は出ませんが、微量の魔力を捉えてマナ石の色が変化するものです。最初は無反応だったマナ石が、公子様に反応するようになったのは確かです」 あ、あの腕輪。 あれは魔獣探知じゃなかったんだ。 「魔法具はぼくじゃなくてオクレール卿に反応したんじゃないか?」 懲りずにしらばっくれるイアンにオクレール卿はなぜか悲し気な笑みを向けると、「さあ」と投げやりとも思える声を漏らした。 「公子様らしき人が大量の魔獣を引き取っていき、公子様の近くで魔法具が反応した。公子様は錯乱していない。それだけで父には十分だったようです。昨夜帰宅したら地下に魔法陣が準備されていました」 「オクレール男爵が描いたのか?」 「いえ、父がいるのは領地です。魔法陣を描いたのは父の部下。長く父に仕えている男ですが、昨夜初めて彼が魔術師であることを知りました」 ……魔術師! 「魔術師って、もしかしてイタチを操ったのもその男なのか?」 「わかりません。さっきも言った通りわたしは伝書鳩でありただの父の駒です。それが嫌で魔がさしました。魔力があれば、と。契約した魔獣は今朝には死んでいました」 すいませんでした、とオクレール卿は膝に頭をつける。ナリッサの顔に同情が浮かんだのは、たぶん自分と重ねたからだ。 おそらく、そこら辺の魔獣と契約するより異世界からの召喚獣と契約する方が重罪。回帰前のナリッサはそのせいで死罪になったし、死罪になるような罪をイアンが何度も繰り返すとは思えない。 「オクレール卿は、最悪の場合自分が一番に切られてたって分かってる?」 めずらしくイアンの声が怒っていた。 「皇室も魔塔も、魔術師の行方と魔獣の出所を追ってるんだ。そこに魔獣取引をしてるオクレール男爵の息子が実は魔力を持っていたと知れたら? しかもその騎士は石榴宮を訪れたことがある」 オクレール卿はグッと唇を噛みしめる。 「オクレール男爵は宰相と手を結んでるつもりかもしれないけど、おそらくあの人にそんな気はない。いざとなったらいつでも手を切れるようにしてるはずだ。ぼくもそうしてる」 最後の一言でオクレール卿がイアンを見た。 「オクレール卿は何かやらかしそうだったし、巻き添えをくわないよう事件直後に皇太子殿下に告発しといたんだ。ぼくの護衛騎士が怪しいから気をつけてください、ぼくは皇女殿下の味方ですって。オクレール卿はぼくが舞踏会の件で紫蘭宮を訪ねたと思ってたんだろうけど」 オクレール卿は押し黙って考えを巡らせているようだった。 皇太子に疑われ、皇女には罪を知られ、父親に血の契約をさせられ、このあと宰相閣下に公子様の行動を報告しに行くのだろう。マナ滞留症状は治ってもストレスで胃痛になりそうだ。 「イアン卿」と、ナリッサが掠れた声を漏らした。 「なんでしょう、皇女様」 「皇太子殿下に、わたしのオーラのことを伝えた?」 いえ、とイアンは笑顔で答える。 「危ないやり方で皇女殿下のオーラを発現させようとしている者がいる、そうお伝えしただけです。おそらくですが、殿下はまだ気づいておられませんよ」 「伝えるときはわたしが言うから、黙っていて。わたしはこの国をむやみに乱したくない」 〝国〟という言葉にイアンはわずかに目を見開き、姿勢を正して恭しく頭を下げた。 「皇女殿下がお望みなら、わたしから皇太子殿下に言うことはありません。その代わり、オーラのことで分かっていることがあったら教えていただけると嬉しいです。ね、ゾエ先生」 え、あ、とゾエはめずらしくしどろもどろになってうつむく。 「まあ、怪我の功名というか、オクレール卿がこっちについてくれたおかげで男爵の動きは把握できそうですね」 無邪気に口にするイアンにオクレール卿が驚いていた。小説ではこの無邪気な演技が天然系弟キャラとしてナリッサの目に映ったようだけど、今は完全に腹黒がバレている。 「公子様、わたしがこっち(・・・)につくとは?」 「男爵と宰相の動きを教えてくれたらいい。もちろん向こうに流す情報はぼくの許可を得てからね。最近のあっちの動きはどんな感じ?」 困惑気味のオクレール卿に、ナリッサが「ちなみに」と追い打ちをかける。悪女スイッチオン。 「こっち(・・・)っていうのは魔塔主様も含まれてます。ジゼルがいる限り魔塔主様には全部筒抜けなんですよ。魔塔主様だったらゲートで目の前に現れて一瞬で焼き殺すなんて朝飯前じゃないかな」 ……たしかにできるけど、ノードが焼くのは死体だけだと思う。あたしがそう思いたいだけかもしれないけど。 オクレール卿は父親のやっていることに疑問を持っていたせいか、思いのほかあっさり観念して意外なことを口にした。 「デビュタントの舞踏会に父が出席することになりました」 その言葉にイアンとナリッサが顔を見合わせる。 「今年は皇女様がデビュタントということもあり、帝都貴族だけではなく領地の方にも舞踏会の招待状が届いたようです。これまで初夏の舞踏会はわたしが出席していたのですが、今回は父が出席すると」 魔術狂いの信者が聖女のいる帝都にやってくる。小説ならそれはなかなか危ない展開。
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