今宵、ワルツを踊るのは

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今宵、ワルツを踊るのは

ドッキリ番組で、天井から長い髪の女がニュッと頭を出してターゲットを驚かす、というのを観たことがある。あれはやっぱり柳のようにだらりと垂れる長い髪がポイントで、坊主頭だと怖さが半減する。 皇城の広間のめちゃくちゃ高い天井であたしは長い髪の幽霊をやらかそうとし、律儀に重力に従う金髪に気づいて思いとどまった。 皇宮にいるときは基本的にマジカル戦士ラブルーン変身後のヒラヒラ&ラブリー衣装。あたしは金色の長い髪を三編みにしたあと襟元にあった紺色のリボンでキュッと結ってクルッと巻いてコンパクトにまとめた。 これで誰かに見られても怖さは半減するはず……じゃなくて、見つかりにくくなるはず。 いちおう天井から頭を出す割合は気をつけて、見られたとしても「なんかあの壁のシミって人の顔に見えない?」くらいにしたけど、それを推しに見られたのは辛かった。 だって、ノードにもジゼルにもあたしの位置はバレバレ。そろって天井を見上げ、次の瞬間ふたりとも顔を伏せて体を震わせた。 まあ、笑いたくなるのもわかるよ。 そのあと上を見ないようにしてるのが笑いを堪えるためだっていうのもわかる。 あたしは天井のシミ幽霊を卒業すべく別の場所を探したけど、比較的安全そうなのは皇族席の背後しかなさそうだった。ランドたちに遭遇したときノードがあたしを追いやった紫色の垂れ幕。あそこだといい感じに襞がよっているから様子を眺めつつ隠れられる。 今はまだユーリックが入場しておらず、あたしはシャンデリアの取り付け部分で目立たないように天井のシミ幽霊をやっていた。 ちなみにスカートがうっかり天井から出てしまったら困るから、下に履いていたパニエ(ボリュームアップのためのフリフリ)は脱いだ。そしてパニエと同化していた白いかぼちゃパンツを発掘した。 「グブリア帝国皇太子ユーリック・(異世界語翻訳不可部分省略)・グブリア殿下、皇太子妃エルゼ・(同上)・グブリア殿下、御入場です」 広間の扉が開けられ、現れたのは今まで見た中で一番キラキラのユーリック。うら若い令嬢たちの無言の黄色い声が聞こえる気がする。 皇室カラーは白・銀・菫だけど、彼が着ているのは隣のエルゼ皇太子妃と合わせた萌葱色の生地に銀刺繍の燕尾服だった。エルゼはレース生地の緑のグラデーションが美しい初夏らしいドレス。 ユーリックはエルゼの手をとり、広間中央を歩いていく。 扉に近い後ろ半分は円卓が並べられ、デビュタント以外の招待貴族たちが椅子から立ち上がって頭を下げていた。天井から眺めていると、皇太子夫妻が通り過ぎたあとに貴族たちがヒソヒソと話を始めたのがわかる。 ユーリックとエルゼは緊張した様子もなく紫の絨毯の上を歩いていた。ナリッサの赤髪とイアンの銀髪は、広間前方の階段に一番近い最前列の通路脇。ユーリックの目が皇女に注がれていることに気づいたのは、おそらくエルゼだけだ。 皇太子たちが遠ざかるほど広間後部席のヒソヒソ話は広がって、気になったあたしは下に降りてみることにした。 スクルースが皇族席の隅に控えていたけど、どうせ鳥にあたしのことは見えない。彼が澄まし顔で立っているのはユーリックたちが座ると思われる椅子の斜め後ろ、垂れ幕のそば。あたしが狙っていた場所だ。 とりあえずそれはいいとして、ランドの姿が広間に見当たらないのはラッキーだった。外にいるか、皇族席の後ろの扉の向こうにいるか。 あたしは一旦外に出たあと、ランドの気配に気をつけながら壁を抜け、広間の一番後ろの席に座った。幸いみんな立ったままで、ユーリックがあたしに気づく心配はない。 「イアン様がパートナーらしいですわ」 聞こえてきた囁き声は若い女性のものだった。扇を口元に当てているから逆に誰が話しているのかわかりやすい。 年齢はおそらく十代後半。彼女の隣で相槌をうっているのも同じ年頃の女性だ。ふたりともショールをはおっているけれど、堅苦しい謁見の儀が終わったら肩を露わに婚活ハントしそうな気合の入ったドレスとメイク。 「噂で赤い髪とは聞いておりましたが、まさか本当だとは思いませんでした」 「皇族席に上がれないのも当然ですわ。兄妹といっても皇太子殿下とはまったく似ておりませんもの。一度は皇女と発表されましたけど、いずれ撤回されるおつもりではないかしら」 「だとしても、どうしてイアン様があのような方と? 偽物と噂されてますのに」 「きっとイアン様の同情に縋って言いくるめたのです。平民は媚びるのがお上手だと言いますから」 「御令嬢方」と男の声が加わった。まだ若そうだから、おそらく帝都住まいの貴族。 「最近、皇太子殿下が石榴宮に頻繁に出入りしているという噂はご存知ですか?」 女性二人だけでなく、周囲で聞き耳を立てていた年嵩の貴族にも驚きが広まっていく。それは囁き声の伝言ゲームになってさらに拡散していった。 「このような場で安易な噂話は命取りですよ」  物騒な言葉でヒソヒソ話を黙らせたのはノードだった。 女性たちはノードの笑顔に見惚れ、男性は何か言い返そうとしたけれど彼の抱く白猫の首を見て口を噤んだ。皇家の紋章が刻まれた真鍮タグ。 そのときカラン、カララン、とベルの音が響いた。 「グブリア帝国皇帝カイン・(異世界翻訳不可部分省略)・グブリア陛下、御成りです」 一瞬の静寂の後、トランペットの音。厳かに始まったオーケストラの演奏が徐々に盛り上がり、もったいぶるようにして開かれたのは階段奥の扉だった。 あたしは貴族たちと一緒に立ち上がってグブリア帝国皇帝の姿を見た。 頭の冠に襟元フサフサのファーみたいなのがついた長いマント。いかにも王様という感じだけど、マントは紫、冠は銀。やはり国家権力のトップというより宗教権力の頂点という印象だ。肩ほどまでの髪は銀髪というより白髪に近く、想像以上に老けている。ガルシア公爵が〝イケおじ〟なら、カインは〝イケおじぃ〟。 それにしても違和感を覚えるのはユーリックとエルゼの服装だ。 もしユーリックの隣に銀色のオーラを継ぐヒメナ妃がいたら、階段上の皇族席は銀と菫色のグブリアカラーになったはず。こうやってエルゼを連れるにしても、緑の服を選ぶ必要はなかったのに。 「緑色の服はナリッサのためなのかな」 あたしがボソッとつぶやくと、近くにいたノードがチラと後ろを振り返る。 貴族たちはナリッサが緑眼だということに気づいていないようだった。その証拠に、エルゼ妃を初めて見た令嬢が「エメラルドみたいな瞳が美しいですわ」と口にしていた。彼女はナリッサが緑眼だと知ったらなんと言うのだろうか。 皇帝は無言のまま玉座に座り、階段脇に控えている男に片手をあげた。男が何者なのかは知らないけど、肩から斜めにたすき掛けされた布は受勲の証のはずだから偉い人っぽい。華奢な体に眼鏡をかけた姿は騎士ではなく文官のようだ。その文官が一歩前に進み出て宣言した。 「これより謁見の儀を行います」 オーケストラの演奏が始まる。 「あたし、ナリッサの晴れ舞台見てくる」 ノードに声をかけ、数秒移動で外を通ってユーリックの背後に回った。予定していたのと反対側の、スクルースがいない方の垂れ幕の陰。驚いたのは、いつの間にかその垂れ幕の前にガルシア公爵が立っていたこと。 階段下ではナリッサとイアンが手を取りあって頭を下げている。 デビュタントは皇帝と視線を合わせてはいけないのか、イアンもナリッサも目を伏せたまま音楽に合わせて後ろに下がり、入れ替わりに次のデビュタントとパートナーがお辞儀した。 あたしは周囲をうかがいつつ垂れ幕から一歩出て、そっとガルシア公爵の顔を覗き見た。 目を潤ませてるんじゃないかと想像していたけれど、そこにあったのはゾエ並みの能面無表情。感情を隠すのが得意でないと皇帝補佐官なんて務まるはずがない。 パヴァーヌの先頭を行くナリッサとイアンは、楽団の前を過ぎて来賓席エリアに入った。貴族たちは椅子に腰をおろしているけど、あからさまに身を乗り出して〝偽物皇女〟の顔を拝もうとしている。彼らの視線が皇族席と皇女を見比べていた。 ゆっくりとしか進まないパヴァーヌのリズムがもどかしい。ナリッサにも貴族たちの囁き声が聞こえているかもしれない。 わずかにうつむきがちになったナリッサの後ろ頭。イアンがさりげなく彼女の耳元に顔を近づけ、何か囁いたのが見えた。 あたしに見えたということは、その様子は貴族たちはもちろんユーリックにも見えていたということ。 「宰相も、なかなか」 耳に届いた声が一瞬誰のものか分からなかった。けれど、この場で口を開くことができる人間は限られている。 あたしはカイン((皇帝))がナリッサを見ていたことに動揺した。 皇女であり、金色のオーラを受け継ぎ、グブリア帝国皇帝の悩みの種であるナリッサ。注目しないはずはないのに、何年もナリッサを放置していた皇帝がナリッサを見ているわけないと勝手に思い込んでいた。 「ユーリック」 皇帝はリビングで寛いでるようなくだけた口調で呼びかける。 「なんでしょう。皇帝陛下」 「宰相の意図はなんだと思う?」 「……皇女は今年で十四になりました。今後、皇家でどのような立場におかれるか探っているのではないでしょうか」 「探るにしてはあからさまに距離を縮めているようではないか」 「……宰相の意図と関わりなく、ベルトラン卿は皇女に好意を持っているようです」 「ほう」 カインの声には笑いが含まれているようだった。 来賓席の端まで行ったナリッサとイアンが、ゆっくりと進行方向を変えて正面を向いた。イアンの視線がこちらに向いてハッと止まり、彼はまたさりげなくナリッサに何か囁いた。ナリッサのステップが乱れ、ドレスが不自然に揺れる。イアンは何を囁いたんだろう。 皇族席は沈黙していた。けれど、全員の視線がナリッサに注がれているのは間違いなかった。 中央通路をゆっくり進む若い男女。ナリッサ以外の令嬢を見ているのは年頃の若い男性ばかりで、それ以外はみなナリッサとイアンの姿を追っている。 「菫と緑眼が並ぶ意味など、ここにいる何人が知っていることか」 カインの声は、ひとり言なのかユーリックに問いかけているのか微妙だ。 「陛下、それは皇女と公子のことですか、それともわたしとエルゼの?」 「ああ、そういえばそなたたちもそうであったな」 元の位置まで戻って来たナリッサたちは、その場所で顔を伏せたままパヴァーヌの終わりを待っている。 皇族席には長い沈黙が続き、ガルシア公爵はそのあいだ身じろもぎせず広間の奥に目を向けていた。まるでナリッサを見ることを禁じられてるみたいに。 通路の半分ほどデビュタントの列が残っていたとき、不意に会場がどよめいた。何が起こったのかと思ったら、皇帝が玉座から立ち上がり階段に向かっている。 ガルシア公爵が驚いた様子で「陛下」と声をかけた。公爵の体を盾にユーリックから身を隠していたあたしは慌てて頭をひっこめる。 「マティス((ガルシア公爵))、お前も来い」 カインは振り返ることなく階段を降りていく。その後を追うガルシア公爵は動揺を隠せないようだった。デビュタントたちは異変を感じ取っているものの、律義に顔を伏せたままでいる。 会場中がパヴァーヌの行進ではなく皇帝の姿を追っていた。彼は階段を下りると、赤髪のデビュタントの前で立ち止まる。ナリッサとイアンが緊張の面持ちで顔をあげた。 近くに行きたいっ! なに話してるのか知りたいっ! そもそも、この奇跡のシーンは何?! カインが皇族席から降りるなんて小説にはなかったのにどうして……かというと、たぶんあたしの存在が原因なんだろうな。 異世界召喚されてからというもの、実体がないくせに魔塔主様に呆れられるくらい色々やらかしてる。 ナリッサが横目でガルシア公爵の姿を捉えた。それは本当に一瞬。パヴァーヌのときのイアンの耳打ちはこれだったのかもしれない。ガルシア公爵が皇族席にいるよ、と。 皇帝はナリッサの傍でパヴァーヌの終わりを見届けると、皇族席に戻りマントを翻して貴族たちを見回した。 「グブリア帝国の希望がここに集った。今宵、そなたたちは帝国の礎となる最初の一歩を踏み出す。存分に励み、楽しむがよい」 文官が手をあげると、管楽器の音色が勇ましく広間に鳴り響く。皇帝は短い言葉だけを残してあっさり広間に背を向け、ガルシア公爵とともに扉の奥に姿を消した。 ユーリックの「無礼講だ」という言葉で会場は一気に緊張がほぐれ、料理の皿や酒の入ったグラスを手に召使いたちが忙しなく行き来する。デビュタントたちはソワソワしながらその場にとどまる者もいれば、パートナーに誘われて後部席の貴族に挨拶に行く者、連れ立って庭園へ向かう者、色々だった。 デビュタントたちがいた場所がダンスホールになるらしく、中央に敷かれていた絨毯が手早く丸めて撤去される。イアンを囲むようにデビュタントとそのパートナーが集まっていたけれど、ダンスホールの準備が整うと彼はナリッサと二人で中央へと向かった。 ホールには他にも数組のペアがいるけれど、最初はデビュタントの晴れ舞台らしく色のついたドレスはない。 ユーリックは肘置きで頬杖をついてダンスホールの様子を眺めていた。オーケストラが音楽を奏で始め、〝皇女〟のお手並み拝見というように野次馬貴族たちがわらわらとホールを囲んでいく。その中にノードとジゼルもちゃっかり混じっていた。 ダンスホールに咲く白いドレスの花たち。その中でナリッサの赤い髪はひときわ目を引くけれど、貴族たちが階上の皇族席と皇女とをチラチラ見比べているのは彼女の緑眼が原因に違いなかった。 音楽にかき消され、貴族たちの囁き声は聞こえない。ナリッサがステップを間違えないよう必死に踊りながら時おり視線を送っているのは、周りの貴族ではなく皇族席。 「ユーリック殿下と違って、皇女様はダンスがお好きなようですね」 エルゼの声は穏やかで上品だったけど、その言葉には皮肉が込められているようだった。 「わたしはダンスが嫌いだと言ったことはないと思うが?」 「でしたら踊りますか? 次の曲からは誰でも参加できます。皇太子殿下も、わたくしも」 「今夜の主役はデビュタントと未婚の令嬢令息だ。既婚者が出しゃばる場ではない」 やっぱり婚活ダンスパーティーなんだ……。 「殿下」 と、思わぬ人間が声を発した。そばに寄った副官に、「なんだ」とユーリックが訊ねる。 「グラスをお預かりしましょうか」 「なぜ?」 「今夜はデビュタントが主役です。その中でも一番の主役は皇女殿下です」 「だから?」 「先ほどから、会場の隅にいる皇女殿下の護衛騎士の視線が痛いんです。一生に一度のことですから、皇女殿下の願いを叶えて差し上げてはいかがでしょう?」 もしかして、獣人たちは意外にナリッサの味方? 「シュレーゼマン卿((スクルース))、面白そうな話をされているのね。皇女様はユーリック殿下と踊りたいとおっしゃっていらしたの?」 「スクルース」 ユーリックに制されて副官は口を噤んだ。ごめんね、みたいな感じでマリアンナの方を向いて肩をすくめる。 ダンスホールに色とりどりのドレスが混ざり始めると、それに便乗するように貴族たちが皇族席へ顔を出し始めた。イアンはそれを見計らったようにナリッサの手を取って階段を上って来る。 貴族たちの上辺のおべんちゃらを適当に受け流していたユーリックは、二人が最上段に足をかけたとき「来たか」と顔を向けた。 皇族席を囲んでいた貴族たちはサーッと音もなく姿を消し、残ったナリッサとイアンが皇太子夫妻の前でお手本通りのお辞儀をする。 「無礼講なのだから畏まらなくていい」とユーリック。 「皇女様、噂に聞いていた瞳をわたしにも見せて下さるかしら?」 エルゼに声をかけられ、ナリッサは恐るおそる顔をあげた。 「まあ、本当にわたくしと同じ緑眼。皇太子殿下ではなくわたくしの妹という方が信じられそうですわ」 ナリッサは何と返していいか困惑している。それはエルゼの狙い通りらしく、うろたえる皇女を前にクスッと笑い声を漏らす。 「姉妹か」とユーリックが口にした。 「瞳の色で姉妹と言うならわたしとベルトラン卿も兄弟ということになるが、卿とわたしとは同い年だからか兄弟という感じもないな」 「皇太子殿下と兄弟など、恐れ多くて冗談でも口にできません」 フン、とユーリックは笑ったようだった。 「それは意外だ。卿はわたしと兄弟になることを望むのかと思っていた」 「もしわたしが望めば許して下さるのですか?」 ……このやりとり知ってる! 回帰後の舞踏会。二人は同じようにナリッサを挟んでバチバチ火花を散らしていた。 「卿もわかっているはずだ。それを決めるのは我々ではない。こうして銀色のオーラを笠に着て貴族らを見下ろしていても、望むものが手に入るのは稀なこと」 「オーラの力も権力も手にされているはずの殿下が、さらに望むものとは何なのでしょう?」 男たちが勝手に話を逸らしていくのが気に食わなかったのか、エルゼがさっきの話を蒸し返した。 「男性に比べ女の望むのは些細なことです。皇女様はユーリック殿下とワルツを踊ることをお望みなのですよね?」 「えっ……」 踊りたいです!  エルゼ、ちょっとムカついてたけどナイスアシストです! 動揺してるナリッサがもどかしくて憑依してやろうかと思ったけど、飛び出した瞬間ユーリックに目撃され、しかもナリッサに入るのまで見られたら完全にアウト。 誰かどうにかして、と周囲に念を送っていたら、伝わったのか分からないけどイアンが喋りはじめた。 「わたしは幸運なことに皇女様のパートナーを務める栄誉をいただきました。ですが、デビュタントが家族と踊ることは珍しくありません」 「あら、それはパヴァーヌの話でしょう?」 エルゼの笑い混じりの吐息が聞こえる。「そうですね」とイアンはすぐ引き下がり、攻め方を変えた。 「皇太子殿下と皇太子妃殿下は下で踊られないのですか?」 「ベルトラン卿はご存じないのですね。ユーリック殿下はあまりダンスを好まれません。それに、ご覧ください。お二人と踊りたい方がたくさんこちらを見上げてお待ちですわ」 階段下を見たあたしはギョッとした。たしかに野次馬の視線もすごいけど、オクレール男爵が図々しくも階段を上って来ようとしている。イアンとナリッサも気づいたようだった。 「わたしたちがいると他の方が上がって来られないようです。皇女殿下、そろそろホールに戻りましょう」 「ベルトラン卿」 呼び止めたユーリックの視線は、イアンではなくオクレール男爵に向けられている。 「皇女を頼む。これまで大勢のいる場に出ることはなかったから」 「承知しております」 イアンが頭を下げたとき、オクレール卿が最上段に足をかけた。よっぽど必至だったのか、それともただの運動不足か、ずいぶん息があがっている。 「ご歓談中にも関わらず、無礼を承知で参じました。皇太子殿下、皇太子妃殿下にお目にかかります。オクレール家当主、*#@&¥・オクレールと申します。辺境地で魔獣取引業を営んでおります」 名前と家名だけなのに異世界語翻訳機能が〝オクレール〟しか訳さないってことは、小説内で彼がこんなふうに名乗るシーンはなかったのかもしれない。もしかしたら登場したのは息子のオクレール卿だけだったのかも。息子はイアンの護衛だから一回くらい小説に出ていてもおかしくない。 「皇女のために魔獣を持参したというオクレール男爵か」 最初から知っていたくせに、ユーリックはさも今知ったように言う。 「はい。皇女殿下のお気に召す魔獣があればよいのですが」 「皇女のお気に入りは魔塔主のペットの白猫の魔獣だ。目が肥えてしまったからなかなか気に入るものはないと思うぞ」 「そうはおっしゃらず、皇女殿下もぜひわたしのお持ちした魔獣をご覧になってください」 「庭園にいるそうだ。気が向いたらのぞいてみればいい」 ユーリックの口ぶりは「そんなもの見てもしょうがない」と言っている。オクレール男爵にもそれは伝わっているらしく、「皇女殿下、この度は社交界デビューおめでとうございます」と強引に話題を変えた。 「ありがとうございます」 ナリッサがお辞儀したとき、オクレール男爵の視線は自分の腕輪に向けられる。わずかに首をかしげたのは、魔力探知魔法具が反応していないからだろう。 「それにしても、皇太子妃殿下と皇女殿下の瞳の色はそっくりですね。本当にお美しい。クラウス侯爵領では緑眼が珍しくないそうですが、皇女殿下もそちらのお生まれなのでしょうか」 「いえ、わたしは……流浪の、治癒師の娘ですので」 「ああ、そうでした。わたしの住む辺境地までも母君の〝聖女様〟の噂は届いております。なんでもすばらしい治癒の力を持っていらっしゃったとか。わたしの領地では聖女は聖獣をそばに置いたという言い伝えがあるのです。皇女殿下もぜひ魔獣をそばに置かれてはいかがでしょう」 グブリア皇族の前で聖女の話ってマズいんじゃなかったっけ、と思ったら、スクルースは髪だけじゃなく顔まで青くなっている。階段脇に控える文官は完全に聞いてないフリ。 フフッと聞こえてきたのはエルゼの笑い声だったようだ。イアンは腹の中で大爆笑しているに違いない。 「オクレール男爵の息子はたしかベルトラン卿の護衛をしているとか」 ユーリックが冷めた声でオクレール男爵の話を遮った。突然の話題の変化に、男爵は「え、あっ、はい」と間抜けな返事をする。 「せっかくの折だ。男爵も家族との時間を楽しむといい。帝都でのマナーも息子の方が詳しいはずだから聞いておけ。ところでベルトラン卿」 「はい」 「気晴らしに踊って来る。隣を代わってもらえるか」 イアンは目を見開き、そのあと優雅な仕草で脇に避けた。立ち上がったユーリックはナリッサに手を差し出す。 戸惑っているのはナリッサだけじゃなかった。振り返った文官の顔は、広間のほとんどの貴族と同じく口が半開き。 「ナリッサ、よく似合っている」 ユーリックに言われ、ナリッサはドレスが彼からの贈り物だということを思い出したようだった。 「あ、ありがとうございます、皇太子殿下。思い出深い良い日となりました」 「宴は始まったばかりというのに、終わったようなことを」 「いえ、そんなつもりは……」 慌てて否定しかけたナリッサの表情が緩んだのは、たぶんユーリックが笑っていたのだろう。 彼女は妹として兄の手をとり階段を降りていく。赤い髪と萌葱色の背中。まさに石榴みたいだと思いながらあたしはダンスホールに向かう二人を見守った。 ホールで踊っていた貴族たちはサーッと縁に寄って観客に回り、中央に一組だけ残された状況にナリッサは緊張で足をもつれさせる。倒れかけたナリッサの腰をユーリックがひきよせ、距離が近づいた二人に観客たちがざわめいた。 ダンスの下手な令嬢が足を踏んだり蹴躓いたりするのは宮廷を舞台にしたファンタジーの定番。生で見てもやっぱりキュンキュン♡ 恥ずかしさから頬を赤くしたナリッサが初々しかった。これがきっかけでユーリックを恋愛対象として意識したりするだろうか? 「ベルトラン卿、下までエスコートして下さるかしら?」 不意にエルゼが立ち上がり、イアンは「喜んで」とその手を取った。 「あの人、そばに行くまでわたしがベルトラン卿に手をとられているなんて気づきもしないわ。妻より妹の方がよっぽど気になるみたい」 「今夜はデビュタントのための舞踏会ですから」 「そうね、七つも年下の少女に嫉妬するなんて。今の言葉は聞かなかったことにして下さる?」 「わたしとも踊ってくださるなら」 イアンは無邪気なアイドルスマイルを向ける。ちょろい男とでも思ったのか、エルゼの指先がイアンの指を妖しくなぞった。ゾエが見てたら能面ビーム発射しそう。 皇家の兄妹が踊り終えると、若い男女が次々に手を取り合ってホールに戻っていく。未婚の公子が皇太子を差し置いてエルゼと踊るわけにはいかないらしく、ユーリックはエルゼの手を取って踊りはじめ、ナリッサの前では黒髪碧眼の魔術師が手を差し出した。 当たり前みたいに皇女の手の甲にキスする男は一体誰なんだ、みたいな視線が周りから向けられているけど本人はおかまいなし。ユーリックもその光景を見ている。 ジゼルはイアンの肩に乗り、ワルツにあわせてユラユラ尻尾を揺らしていた。イアンはあっという間に女性たちに囲まれ、猫連れでダンスを踊り始める。 オクレール男爵の姿がいつの間にかホールを囲むギャラリーの中にあり、皇族席が空っぽになるとスクルースは文官に声をかけ庭園に魔獣の様子を見に行った。 広間にあるのは音と喧騒と笑いとダンス。その中に打算とか陰謀とか駆け引きとかが紛れ込んでいる。持ち場を離れることができないのか、皇族席の文官が一人ため息をついた。 わかる。 あたしにもわかるよ、その気持ち。 あの輪の中に混ざりたいけど混ざれない。だってあたしは幽霊だから。普通の人とは触れあえないし話もできない。こんなちんちくりんのドレスしか持ってない、異世界人の幽霊。 なんだか急に寂しくなり、あたしは衝動的に床を蹴った。 天井を抜けて、ノードのローブの色みたいな濃紺の夜空目指して高く高く飛んでいく。異世界の月にも星にも、やっぱり手が届かないみたいだ。
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