月下のワルツと魔塔主の秘密

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月下のワルツと魔塔主の秘密

「サラ」 囁き声で目を開けると、あたしの目の前にはナリッサをお姫様抱っこしたノードが立っていた。 外ではなく、ナリッサの寝室。ポピーが布団をめくり、ノードはベッドにナリッサを横たえる。彼女はユーリックにプレゼントされたドレスを着たままだった。 「眠っているだけですから、あとはポピー殿にお任せします」 「はい。魔塔主様、いつもありがとうございます」 完全に寝落ちした人間を着替えさせるのは重労働だろうなあと考えていたら、ノードが部屋から出て行くのと入れ替わりに侍女が二人入っていった。 あたしはノードの隣に並んで階段を降りる。 ナリッサの体に入った後は自我がフワフワしているというか、雲の上を歩いてるようで心許ない。あたしはあたしなのに、ナリッサの名残が心をかき乱す。 センチメンタルモードを紛らわせようとノードのローブをつかもうとしたら、彼が着てるのは燕尾服だった。髪もひとつにくくったまま。横からだと顎のラインがよく見えてグッド。あたしのピアスが見えるのもなおさらグッド。 推しの横顔に見惚れていると口角がクッとあがった。 「サラさん、階段を下りてるつもりかもしれませんが、段と足の位置があってませんよ」 「えっ」 足元を見ると、右足首から下が階段に埋もれていた。悔しいから歩くマネはやめて飛ぶことにする。 「ランドに見られたときは大丈夫でしたか?」 そうだ、皇帝の部屋のバルコニーの件。 ノードは周囲を見回し、階段の途中で足を止めた。エントランスホールにはランプが灯っているけれど人の気配はない。 「顔は見られてないし、舞踏会の参加者だと思ったみたいです」 「そうですか、それなら大丈夫そうですね。皇帝の執務室に忍び込むなんて、サラさんは一体何をするつもりだったんですか?」 「……えっと、もしかしたら皇帝もこういう服でオーラを隠してるのかなって思ったので」 チャンスとばかりにあたしはノードの服の袖を掴んだ。 「なるほど。それで、どうでした?」 「ちゃんと確かめたわけじゃないけど、オーラを隠してるわけじゃない気がします。隠すメリットなんてないし」 ノードは軽くうなずく。 「陛下の服に魔術は付与されていません。そんな依頼は受けていませんし、独自に魔術師と繋がりを持つような方でもありません。でも、サラさんが疑いたくなる気持ちはわかります」 それくらいカインのオーラが弱いってことだ。 カインがノードに会いたくないのは、オーラの弱まりを隠しておきたいという理由もあるかもしれない。魔塔主の魔力は三百年経ってもなくならないのに、皇帝はオーラだけじゃなく体も日に日に衰えていく。人間なら当たり前、ノードが規格外なんだけど。 「そういえば、ノードがナリッサのオーラに気づいたんじゃないかって皇帝とガルシア公爵が話してました。それで、ナリッサのオーラのことをユーリックに話すつもりみたい」 「……陛下は、ガルシア公爵がナリッサ様に渡したもののことはご存じないですよね」 「知らないみたいです」 ノードは「ふむ」と顎に手をあてる。 「あっ、あと、マリアンナにも話すかも」 「えっ?」 ノードは疑わしげに眉を寄せてあたしを見た。 「嘘じゃないですよ。ナリッサがオーラを発現したとき対処できる人物かどうか調査するって。男性より女性のほうが都合がいいみたい」 「そうですか。そうなるとユーリックも陛下に秘密を打ち明けないわけにいかなそうですね」 ノードは対戦中の棋士みたいな思案顔。いったい何手先まで読むつもりなんだろう。 「ランドとスクルースは養子なので彼らの出生を調べるのは難しいでしょうが、トッツィ卿は父親であるトッツィ男爵の本当の娘。男爵領には内情を知っている者もいます。根掘り葉掘り調べられる前にユーリックから獣人だと打ち明けた方が得策かもしれません。彼女が獣人だと分かれば、どのみち陛下公認の皇女専属騎士となるでしょうし」 「獣人なのにですか?」 「獣人だからです。秘密を守ってもらうには弱みを握っておいた方がいいでしょう?」 そっか。 それにしても男爵と獣人の娘なんてマリアンナも異世界小説の主人公になれそうだけど、もしかしたら、 「男爵はマリアンナの母親が獣人だって知らなかったのかな……」 ふと浮かんだ疑問を口にすると、思いがけず「いえ」と返事が返ってきた。 「知った上での結婚です。トッツィ卿の母親はトッツィ男爵領を拠点とするザルリス商会長の娘。ザルリス商会は帝国商人ギルドの代表格ですが、実は会長一族はトッツィ卿と同じサルの獣人です。その秘密を知っているのは本人たちとトッツィ男爵家の歴代当主、あとは獣人騎士たちとユーリックとわたしくらいでしょうか」 ってことは、 「政略結婚ですか?」 「男爵の方が惚れ込んだらしいです。けれど相手は商会長の娘とはいえ平民。獣人と知らなくとも周囲には反対されたようです。トッツィ卿の母君は正妻ではありません」 そうだ、この国は一夫一婦制じゃないんだった。 ふと、マリアンナが着ていたサリーみたいな独特の民族衣装が頭に浮かんだ。あれは平民だけが着るものなんだろうか。ああいう服も生きてるうちに一回くらい着てみたかった。 「ベルトラン卿を待たせています。そろそろ行きましょう」 「あっ、はい」 掴んでいたノードの服の袖をパっと離すと、「どうぞ」みたいな顔で彼は肘を浮かせた。推しからのファンサービスは感謝して受け取るのが読者としてのつとめ。あたしが手を添えると、ノードはチラとこっちを見た。 「その髪はサラさんが自分で結ったんですよね?」 頭に手をやるとリボンで括ったままになっていた。三つ編みにしてキュッてしてクルッってした髪形。パニエも脱ぎ捨てたままだからスカートはボリューム感がなくペタンとしている。 「天井から髪の毛が垂れてたら怖いので」 あたしの言葉にクッとノードが笑った。 「髪の毛が垂れてなくてもそれなりに怖かったですよ」 失礼な。 「笑ってたくせに」 「せっかくなので帰るまで髪はそのままにしておいてください」 〝せっかくなので〟とは? 聞き返そうと思ったけれど話し声が聞こえてやめた。エントランスホールに人影はなく、声は外からだ。 「エンドー殿と見張りの兵士のようですね。今夜は銀月騎士団が石榴宮の警備にあたるそうです。わたしはジゼル殿を連れて魔塔で待機するようにと」 「石榴宮で待機するんじゃなくて?」 「現場に来たのが紫蘭騎士団だったら待機どころか夜通し働かされるところですが、銀月騎士団は魔術師を頼ることを恥と思っているようですので」 もし取り逃がした魔術師が石榴宮を襲撃したとしたら、銀月騎士団の人は自分たちで対応できると思っているのだろうか。 「普通の騎士だけで大丈夫なんですか?」 「ジゼル殿があれだけ派手にやったんですから、今夜はもう心配ないと思います」 ノードが何か思い出したようにフフッと笑った。 「銀月騎士団の方々はわたしがあれをやったと思ったようです。ジゼル殿が魔獣だということも分からないのに、どうやって魔術師から皇帝を守るんでしょうね」 「ノードがやったことにしたんですか?」 その方がいい? でも、馬車が跡形もなくなるなんてちょっとやり過ぎな気もするけど。 「捕まえた魔術師が喋ればジゼル殿が魔獣ということはいずれ分かるので、ジゼル殿は皇女を守るよう魔術をかけられた魔獣ということになってます」 ユーリックが勘違いしてたやつだ。 「見た目が子猫のせいか、騎士団の方々はなかなか信じてくれませんでしたけど」 たしかに両手に乗るような白猫があの爆発を起こしたなんて、実際に目にしないと信じられない。尻尾の分かれた魔獣は警戒されるだけだ、みたいなことをジゼルは言っていたけど、やっぱり見た目って大事。 ノードは広間の前を素通りし、その奥にある応接間の扉をノックした。間をおかず「はい」とゾエの声。扉が開くと白猫がダッシュで駆け寄って来て、その猫は途中で「あ、うっかり」って顔で進路変更。あたしではなく魔塔主の胸にダイブした。 「仲良しですね」 イアンはソファに体を預けたままニマニマ笑っている。ジゼルは不本意そうにジトッと魔塔主の顔を見上げた。 「ジゼル殿は早く魔塔に帰りたいんでしょう。しばらく魔塔の林に行けてませんから。銀月騎士団の目があるので、わたしたちはそろそろ帰ります。ベルトラン卿もゆっくりお休み下さい」 「イアンは帰らないの?」 あたしの疑問に答える代わりに、ノードは「寝室の準備はまだ?」と誰に問うでもなく口にした。どうやらイアンは泊まるらしい。 「準備はできているそうです。魔塔主様が戻られるのをお待ちしてました。皇女殿下の魔力が乱れているとおっしゃってましたが、大丈夫そうですか?」 「問題ありません。襲われたことによる恐怖心で一時的に魔力が乱れたようです。安静にしていれば治ります」 ……魔力の乱れ。そういえば眠ってしまう前にノードがそんなことを言っていた。 「ねえ、ノード。魔力の乱れって誤魔化すための嘘じゃなくて本当なんですか?」 ノードが小さくうなずく。 ってことは、ナリッサに憑依してる時にあたしが動揺したら魔力が乱れるってこと? イアンは納得いかない様子で首をかしげている。 「魔術師に襲われたときのナリッサ様はぼくよりも勇敢で、それほど怖がっているように見えませんでした。ジゼルが何とかしてくれるからって。むしろ、ジゼルの魔法で馬車が跡形もなくなったのを見て様子がおかしくなったような……」 頭の中にあのとき見た光景が舞い戻ってくる。と同時にナリッサの処刑シーンを思い出しそうになってあたしはギュっと目を閉じた。 足首に柔らかな感触があり、見るとジゼルがさりげなく体を擦り寄せている。ノードの腕が「平気ですか?」と問うようにコツンとあたしの腕にぶつかった。 「丘を揺らすほどの爆発でしたから、間近で見たのなら中途半端な魔術師の魔術よりよほど怖かったのかもしれません」 たしかに、とイアンがうなずく。 ジゼルが魔術で防壁を作らなければ爆風で吹き飛ばされて無傷で済まなかったことは彼もわかっているようだ。変人で命知らずのイアンも少しは恐怖を感じたのかもしれない。 コンコン、とノックの音がしてエンドーが顔を出した。 「騎士団の方が、まだ魔塔主様はいらっしゃるのかと……」 申し訳なさそうに口にする。イアンはまだ話したそうだったけど、そういうわけにもいかなかった。 あたしたちは玄関まで見送られて帰途につき、門の外にいた銀月騎士団員ふたりの前でノードはこれ見よがしにゲートを開いた。ゲートが気になるくせに気にしないフリをして視線を逸らす騎士たち。ジゼルはいつも通りまっ先にその光に飛び込んだ。 空には赤銅色の月。この角度なら皇城からはまだ青白い月も見えているかもしれない。紫蘭宮の城壁は紫に染まっているはず。 「ユーリックもまだ働いてるのかな」 なんとなく口にしたら、グイと手を引かれて平衡感覚を失った……と思ったら不意に楽になった。 「……ノード?」 「これでも効果はあるでしょう?」 たしかに楽になったけど、推しにがっつりハグされてるこの状況、ゲート酔い防止とは違う効果が発揮されてるんですが……。 「サラさん、火が怖いのは召喚時のことが原因ですか?」 「えっ?」 「馬車が燃えたのを見て様子がおかしくなったとベルトラン卿が言っていました」 「あ、……それは」 それもあるけど、どちらかと言えばナリッサの火あぶりシーンが原因。 序章はサラッと流したはずなのに、読んだ時よりリアルな色と匂いと熱。まるで本当に体験したような気分だった。ナリッサの体に入っていたせいだろうか。 「サラさんの前では火炎魔法は控えた方がいいかもしれませんね」 子どもをあやすようにノードがあたしの頭をなでた。たしかに火は怖いけど、でも、 「平気です。ジゼルは火炎魔法が得意だし、今夜みたいにそれが必要なときもあるから。だから平気になります」 ノードは数秒考え、「無理しない程度に」とため息をついた。密着してなかったら気づかないような小さなため息。 「せっかくの舞踏会が台無しになってしまいましたね」 気づくとノードの肩越しに山積みの本が見えていた。あたしの背にあったノードの腕が離れていく。 「あたしは舞踏会楽しかったですよ」 「まるで参加したように言うんですね。踊ってもいないのに」 「どうせ踊れませんから。それに、ナリッサとユーリックのダンスが見れたので満足です」 ノードは本心を探るように視線を合わせ、あたしはやましいことなんてないのに推しの目力に負けて視線をそらした。いや、心の中はやましいことだらけなんだけど。 「サラさん」 ノードが何か言いかけたとき「魔塔主」とジゼルの声が頭の上から聞こえた。狩りに行ったのかと思っていたら、ヒョコッと顔を出してそのままあたし目がけてジャンプする。 「仲良しですね」とノード。さっきイアンに言われたセリフだ。 「主だからな」 なにその理由。 「それより魔塔主、上にあるドレスは主のか?」 ドレス? 「ドレスがあるんですか?」 「ありますよ。着てみますか?」 「えっと、でも……」 もしかしてミラニアのドレス? あたしのためにドレスを仕立てるわけないし、ノードが持っていたのだとしたらミラニアの服としか考えられない。舞踏会に出られないあたしを憐れに思って亜空間から引っ張りだしてきたのかも。 「ドレスくらい買ってあげないとサラ殿に逃げられるぞ、と。ユーリック殿下に付き合わされました。ナリッサ様のドレスを仕立てたのと同じ服職人のものです」 「ってことは、あたしのですか?」 「そうですよ」 「採寸もしてないのに?」 「しなくても分かります」 えっ! わかるの? えええぇぇぇえぇ…………。 「気に入らなかったら無理に着なくてもいいですよ」 ノードはあたしの腰に手を回し、ヒョイヒョイっと梯子をのぼって寝室に連れて行く。白装束一式のそばに、夜空みたいなドレスが掛け置かれていた。 デザインはナリッサのドレスよりもむしろエルゼのドレスに似ている。レース生地を使った紺色のグラデーション。それに星を散らしたような金色の刺繍。あたしの腕からストンと床に下りたジゼルがツンツンと裾を触る。 「魔塔主、白装束の次は歩くドレスでもさせるつもりか? 怪奇(ホラー)だな」 たしかに普通の人が見たらそうなっちゃうんだけど。でも、 「きれい……」 「気に入ってもらえてよかったです。じゃあ、そこに立ってください」 言われた通りドレスの横に立つとノードは一分ほど詠唱し、そのあいだに光の文字は八の字を描くようにあたしとドレスの回りを行き来した。最後にノードがパチンと指を鳴らすと、腰回りの圧迫感と魔力付与された服の重みに包まれる。 飛べるだろうかと試したら問題なくできた。そういえばジゼルを抱いて飛んだ時も普通に飛べたんだった。 「その髪形とよく合ってます。じゃあ、行きましょうか」 行きましょうか? 「どこにですか?」 あたしが差し出された手を取るとノードはゲートを開き、ジゼルがあたしの肩に飛び乗った。ジゼルの首にいつも巻かれていた魔力抑制リボンはなく、背中の羽は何かを期待するようにゆっくり閉じたり開いたりしている。そういえば、皇家の紋章が入った真鍮タグはどうしたんだろう。 ゲートの光に包まれたのは一瞬。いつもみたいにクラクラしなかったのはドレスに付与された魔術のおかげらしい。たどりついたのは林に囲まれた池のほとりだった。 「どこに行くのかと思ったら魔塔の林じゃないか」 ジゼルはつまらなそうに言い、「狩ってくる」と言い残すとあっという間に林の中に消えた。 「ここを知ってるなんて、魔塔の林はほとんど行き尽くしたようですね」 微かな風で池にドレスの襞のようなさざ波が立っていた。水面に映った赤銅色の月が乱れたのは風ではなく水生生物のせい。かすかな魔力の気配が水中を泳いでいる。 林の近くに白い花が群生していた。甘くやわらかな香りが風に乗って届き、あたしは誘われるように花のほうへ歩いて行く。傍に寄ってみると花は思いのほか大きく、手のひらと同じくらいあった。 しゃがみ込んで花の匂いを嗅いでいると、ノードがあたしの隣に座る。 「月下美人という花です」 名前は知っているけれど実際に見たことはなかった。夜咲いて一晩で萎んでしまうとか。匂いだけで貴婦人になったような気分。 「この花、あたしの世界にもありました」 「へえ」 ノードが嬉しそうな顔をしたから、あたしは得意になって喋り続ける。 「石榴もあるんですよ」 冥界の王ハデスとペルセポネの物語を話そうとしたら〝神〟という概念がないらしくそれを説明するところから始まった。哲学的な議論をするつもりはないからそこは簡単に流して、冥界の食べ物である石榴の実を食べたコレーが冥界の王妃ペルセポネとして一年のうち四ヶ月を冥界で過ごすことになったという部分に力を入れた。 不意にポンと音がした。 見ると近くにあった蕾がゆっくり開きはじめ、あたしたちは無言でそれを見つめる。完全に開花した花は純白のドレスのようだ。その花にノードは手を伸ばし、花びらを一枚ちぎった。 「サラさん口を開けてください」 「えっ?」 「月下美人は食べられるんですよ。魔塔の林の植物は魔力を帯びているので、サラさんでも食べられます」 はい、と目の前まで持ってこられて仕方なく口を開けると、ノードはポイッと細長い花弁を放り込む。かすかに甘い匂い、シャキねば食感。味らしい味はなかった。 「サラさんもこれでこっちの世界の住人ですね」 悪戯っぽい笑みを浮かべ、ノードも花びらを食べる。 ペルセポネの話のあとにそんな台詞を吐くなら責任取って娶ってくれないと。 「サラさんが飲んだレムリカスという薬はこの月下美人のおしべから作られています。魔力の濃い土壌で育ったものでないと効果がないので通常手に入れようとすると魔獣生息域のある他国からの輸入になるのですが、渡した薬はここの月下美人から作ったものです」 「貴重なものなんですか?」 「貴重というか、よほど裕福な貴族でない限りレムリカスという薬があることすら知らないでしょうね。治癒師が製薬できるものではないです」 「……皇宮医はこの薬を使いますか?」 あたしの問いにノードが怪訝な顔をした。 「薬の存在は知っているでしょうが、グブリア帝国の皇宮医が製造過程に魔術が使われる薬剤を使うことはありません」 「でも、マナポーション……、じゃなくて、マナを使った回復薬みたいなのがありますよね?」 マナ回復薬は小説でもちょこちょこ出てきたし、ユーリックも飲んでたはずなんだけど。 「あれは総合栄養剤にマナ石などを使って栄養成分を活性化状態にしたものです。回復薬と呼ばれていますが、溶け込んだマナを吸収して魔力回復効果を得られるのは元々魔力を使える人間に限られます」 「ユーリックには効果はあるんですか? 彼のは魔力じゃなくてオーラですけど」 ノードの表情がなんだかちょっと険しくなった。 「サラさんは皇太子殿下にずいぶん興味があるようですね」 「えっ……と、」 興味がないと言えば嘘になる。 知りたいのはユーリックがナリッサに渡したレムリカスをどうやって手に入れたのかっていうこと。回復薬のことは話しの成り行きで聞いただけだったんだけど、 「……ユーリックは二十四時間働いてるみたいだから」 ノードは「そうですか」とちょっと投げやりな言い方をして空を仰いだ。いつのまにか月が見えなくなっている。 「サラさんがユーリックの側につくのは困るんです」 ……どういう意味? 「あたしはただの幽霊ですよ」 「召喚獣の主で、皇女殿下に憑依できる幽霊です」 それは、 「ユーリックがあたしを利用して何かするって思ってるんですか?」 あたしは思わず声を荒げていた。ノードが驚いた顔であたしを見る。 「じゃあ、ノードはあたしをまったく利用するつもりなくそのピアスをつけたの? そんなはずない。だってあたしは召喚獣にくっついてきた、ただの死体だったんだから」 こんなこと口にしてしまう自分が嫌だ。でも、損得勘定だけでユーリックにつくなって言われた気がして悔しかった。 色々あったせいか情緒不安定で、涙がこぼれそうになって逃げるように地面を蹴る。林の上まで飛ぶつもりだったのに、グイと手首を掴まれて地面から離れることすら叶わなかった。 「踊りましょうか」 立ち上がったノードは、何の脈絡もなくそう言ってあたしの腰に手を回す。 「踊れません」 「ナリッサ様の練習を見てたでしょう? ゆっくりでいいです。ほら、右足を下げて、左足がこっち、右足をよせてください」 耳元であたしに指導するノードの声は詠唱してるみたいだ。お経のような、歌のような、知らない楽器の調べのような。 なんとなく体が動きを覚えてきた頃、顔をあげるとノードと目があった。不意を突かれたようにノードのステップが乱れ、あたしは彼の足に躓く。 「あっ」 声を漏らした時には二人で草の上に転んでいた。夜露に濡れた草の感触が妙に懐かしい。気づけば月下美人の群生する場所からずいぶん離れている。 見上げた星空があたしの着ているドレスみたいだった。その星空が真っ暗になったと思ったら、ノードがあたしの肩口に両手をついて見下ろしている。 襲われるときのイメトレは何度もしてきたのに、いざその時になると心臓が爆発しそうにドキドキしてる……気がしたけどやっぱり気のせいだった。胸に手をやってもシンと静まっている。 とりあえず、ノードの顔が近づいてきたら目を閉じよう。 脳内確認してその時を待ったけど、一向にその時は訪れない。 「サラさんは何をしようとしてるんですか?」 「……何を?」 キス? じゃなくて、ナリッサの悪女化阻止。 「ナリッサ様とユーリックを近づけようとする理由は?」 恋のキューピッドになってハピエンにしたい。 「ナリッサ様を気にかける理由は? もしかして最初から彼女のオーラに気づいていたんですか?」 ナリッサは主人公だし、この世界のキーパーソンだし、オーラのことは小説で読んだから知ってた。 けど、答えられる質問が来ない! 「どうしてピアスを簡単にわたしに渡したんですか?」 それは、 「ノードだから」 「見ず知らずの魔術師ですよ?」 あたしにとってはそうじゃない。 彼の耳たぶにあるピアスに触れると、指先から何か流れ込んでくる感覚がかすかにあった。これがR指定の小説だとエロ展開かもしれないけど、そういうのではなくもっと神聖で崇高な。自我が溶けてすべてと一体になるような。 紺碧の瞳がわずかに揺れ、ノードはあたしの手を掴んだ。 「あたしに流れ込んだの、魔力じゃないですよね」 ノードは体を起こし、向かい合って座るとあたしはもう一度彼に聞いた。 「さっきの力は何ですか?」 ノードは無言のまましばらく考え込み、チラッとあたしの顔をうかがった。 「サラさんがさっきの質問にちゃんと答えてくれたら、わたしも隠さず話しましょう。サラさんが皇室に近づこうとする理由はなんですか?」 「それは……」 誤魔化しても全部見破られてしまいそうだった。それに、この世界に来た直後と違って今なら本当のことを話してもそれほど怪しまれないかもしれない。いつかうっかり口にしてしまうくらいならいっそ。 「……実は、召喚される前からこの世界のことを知ってたんです。少しだけど」 「ジゼル殿に聞いていた、ということですか?」 「いえ、ジゼルのことは普通の猫だと思ってました。この世界のことが書いてある本を読んだんです。正確にはこの世界とは少し違って、出てくる人や町は同じだけど、ストーリーが違うというか」 「ストーリーが違う? 歴史が違うということですか」 まあ、そういうことになるのか。あたしがうなずくとノードは「ふむ」と唸る。 「この世界から向こうの世界に行った誰かがその本を記したということでしょうか?」 それはない。だって、書かれてるのはこれから起こることだから。 「それで、サラさんが皇族を探る理由は?」 探ってるんじゃないんだけど。 「あたしが読んだ本では、ナリッサはジゼルと契約したら破滅するんです」 ノードは明らかに驚いたようだった。 「ジゼル殿と契約したら、ということは、召喚しなかった場合のことも書かれているんですか?」 「その本には召喚術を途中で中断したときの話が主に書かれていて、その場合、召喚術の直後にナリッサが金色のオーラを発現します。ジゼルは契約してないけどナリッサを助けて、最終的にナリッサとユーリックは結婚するんです」 「ナリッサ様とユーリック殿下が……結婚、ですか……」 驚くよね。だって皇太子と皇女だもん。 「でも、あたしが召喚に巻き込まれてジゼルと契約したせいか、本の内容と今の状況が違います。舞踏会の帰り道に襲撃なんてなかったし、それに、本の中ではノードとユーリックとイアンがナリッサを巡って恋のライバルになるんですけど……」 驚きというより呆気にとられた顔で、魔塔主は思考停止したようだった。カサッと草を踏む音がする。 「なんだ、話したのか」 ジゼルは口に咥えていた小さなコウモリを地面に落として言った。 「まあ、魔塔主よりこの世界のことを知ってる人間もいるということだ」 ジゼルはドヤ顔で言うけれど、別にあたしはこの世界のことを知ってるわけじゃない。 「あたしは話したので、ノードも答えてください」 あたしが地面に手をついてノードに詰め寄ると、ジゼルが「何のことだ?」というように首をかしげる。ノードはジゼルの顔を一瞥し、観念したように吐息を漏らした。 「そうですね。このピアスを通じてジゼル殿にも影響があるかもしれません。話しておいたほうが良さそうです」 「ピアス?」 これか、とジゼルはあたしの膝の上に乗って片耳をかく。ノードが手を伸ばしてそのピアスに触れると、白い耳がピンと立った。 「今のはなんだ?」 試しにあたしも触れてみたけど、あたしだと何も感じないらしい。ジゼルはノードの肩にのって彼のピアスに触れ、またピンと耳を立てる。尻尾もヒゲも立っていた。 「精霊力です」とノード。 「噂は本当だったのか」 ジゼルは意外そうな顔をした。 「精霊なんて滅多にいるもんじゃないだろう? 魔塔主は一体どんな精霊と契約したんだ?」 「世界樹の精霊です。二百年前の戦争で世界樹が燃えたとき、魂の契約を交わしました」 小説に出てこなかった〝精霊力〟って言葉で戸惑ってるのに、世界樹の精霊? しかも魂の契約? 「前に魂の契約はしちゃダメだって、ノードが」 「呪いみたいなもんだからな」とジゼルが言う。 「人間のくせに三百年生き続けてるのはそのせいか」 「本当は二百三十年くらいなんですけどね。話は大袈裟になるのが常なので否定するのもやめました」 なんだか二人とも軽く話してるけど、あたしはまだついていけない。 「ねえ、呪いって?」 ノードはどう説明するか考えているようだったけど、ジゼルが先に答えた。 「何度生まれ変わっても精霊の奴隷ってことだ」 「でも、世界樹はなくなったんだよね」 「魔塔主に精霊力があるということは、世界樹はなくなっていないということだ。そうだろう? 魔塔主」 ノードは立ち上がって、服についた草を払った。 「それに答えるにはサラさんにも答えてもらいたいことが」 そう言ってあたしに手を差し出してくる。あたしは素直に手を取った。 「なんですか?」 「ナリッサ様の破滅というのは、具体的にはどういうことだったんですか?」 答えを予測している目つき。 「……死刑」 「黒魔術使用の罪で?」 「はい」 黒魔術使用が火あぶりの刑ということは当然ノードは知っている。「そうですか」と漏らした彼は、あたしが火に動揺したもうひとつの理由に気づいたようだった。 まったく、とジゼルが男の子の声でオヤジくさいため息をつく。 「召喚術だけで死刑というのはいかにも人間らしい。裁くなら召喚獣を使って何をしたかを問うべきだろう。まあ、ぼくの知ったことではないが。それより魔塔主、世界樹はどこにあるんだ?」 「しいて言うなら、あの木も、この草も、あそこに咲いている月下美人も、どれも世界樹です」 あたしとジゼルは二人して首をかしげ、ノードはそれ以上説明する気はないらしく手をかざしてゲートを開いた。 キィキィという鳴き声と羽音を背後に聞きながら、あたしは青と黒の光の渦に足を踏み入れる。 ゲートに完全に入ってしまう直前、空に一筋星が流れたのを見た。何かを願う時間もないくらい、一瞬のことだった。
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