ダンスレッスンと公爵家からの手紙

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ダンスレッスンと公爵家からの手紙

広間からは石榴の庭園が見えていた。 ついさっき、庭園からバルコニーを見上げたときは一階に臙脂色のカーテンが引かれていたけれど、今は金色のタッセルでゆったりと留められ窓も開け放たれている。広間から直接庭園に降りられるようだった。 ナリッサの寝室とは違い、広間の窓は瓶底をいくつも並べたような不透明なガラス。これならモザイク処理されているのと同じだから、二階の寝室もこのガラスにすべきじゃないかと思ったけれど、覗き見できないと小説的に都合が悪いのかもしれない。 そんなことを考えながら二階のバルコニーの前までふらっと飛んで、ふと地面を見下ろしたら広間からノードが顔を出していた。 窓枠に手をかけ、空を仰ぐようにあたしを見上げるノード。彼の髪がシャンプーのCMみたいに優雅になびいて、片方の耳でピアスがキラッと光った。 ――サ・ラ と、彼の唇が無音のまま動いた。 逃亡したと思われたのか、心配で見に来たのか。彼の笑顔は明らかにあたしを牽制しているけれど、そんなの関係なくあたしの胸はドキッと跳ねる。だって、広間にいる人たちには内緒の二人だけのやりとり。 「ノード」 なんとなく名前を呼んだ。 あたしが一階と二階の中間あたりに浮いたままでいると、ノードは小さく肩をすくめて背を向ける。部屋の奥に引っ込むことはなく、後ろ姿があたしを待っているような気がした。 「ノード、あたしが逃げたと思いました?」 ノードはわずかに首をかしげる。 広間ではナリッサがエンドーを相手にダンスの練習をしていた。時おりゾエが手本を見せるためナリッサと入れ替わり、扉の前に立っているポピーはナリッサが躓くたびグッと体を揺らす。 目の前にいる三人にはあたしがまったく見えていないと思うと、太陽の下で活動していることがなぜか申し訳なくなってくる。この世界のすべてが眩し過ぎて、人々は生き生きとして、その中であたしだけが死んでいる。 「踊りたくなりましたか?」 ノードが庭園を見るふりをして耳元で囁いた。いつの間にかあたしの手は彼の腕を掴んでいる。 「あの人たちを見てたら、あたし死んでるんだなあって思っただけです」 なんとなくノードの顔を見たくなくて、あたしは踊るナリッサをじっと見つめていた。 このナリッサは死んだら回帰するのだろうか。 小説『回帰した悪女はお兄様に恋をする』のラストでユーリックと結ばれた主人公ナリッサ。物語の続きが描かれることはないけれど、死んだ時はどうなるのだろう。きっと作者はそんなこと考えていないし、老衰で死んだあと召喚術の真っ最中に戻ったりしたらラブコメじゃなくてホラー小説だ。 ふと、ナリッサの回帰にノードが関わっているのではないかという考えが頭を過ぎった。小説で描かれない未知の領域を好き勝手想像するのは読者の特権。 「魔塔主様」 ゾエの声であたしはハッと現実に引き戻される。現実――、そう、たぶんこの世界はもう現実で、たとえ幽霊だとしてもあたしはこの世界の登場人物。 「なんでしょう、ゾエさん」 「よろしければナリッサ様のダンスのお相手をしていただけませんか? わたしとエンドー様が踊るところを見ながら、ナリッサ様もそれをマネて練習できればと思うのですが」 「わかりました。皇女殿下のパートナーを務めさせていただけるなんて光栄です」 ノードは脱いだローブをあたしに渡しかけ、それを見たポピーが慌てて受け取りに来た。ポピーも他の誰も不審がる様子がないのは、付き人がいないことを魔塔主がうっかり忘れていたのだろう、くらいに思ったのかもしれない。 「あたしだってローブくらい持てるのに。魔塔主のローブなんだから宙に浮いたっていいでしょ?」 ナリッサに歩み寄るノードの肩がクッと揺れたけど、笑ったのかはわからない。彼は皇女の手をとり当たり前みたいに口づけ、その肩に手を置く。 麻薬事件の前まで、ナリッサの石榴宮での(・・・・・)味方はアンナだけだったけど、ノードはもしかしたらずっと石榴宮の外で彼女の味方をしていたのかもしれない。 ノードだけがナリッサを皇女として扱っていた? 「ノードもエンドーも背が高過ぎなのよ。わたしはこんなに高い靴を履いてるのに」 ふくれっ面でノードを見上げるナリッサ。ノードの美しい顔があんなに間近で見られて、手の甲にキスされて、手を握り合って躓いたら抱き寄せてもらえるなんて羨まし過ぎる。 「ワルツですよね?」 ノードがゾエに確認した。 「はい。ご存じでしょうが初夏の舞踏会はデビュタント向けに皇室主催で開かれるものです。ナリッサ様に覚えていただくのは皇帝陛下に謁見する際のパヴァーヌと、そのあと令嬢令息が交流のために踊るワルツ。おそらくワルツの方が大変でしょうから、わたくしが宮にいない間も練習できるよう先にワルツを覚えていただいているところです」 「基本のステップだけ覚えて、あとは笑顔で誤魔化せばいいですよ」 ノードの雑なアドバイスに「魔塔主様」とゾエが無表情の笑みを向ける。〝無表情の笑み〟って何? って思うけど、それ以外の表現が浮かばない。 「では、はじめましょう。……はい、1,2,3、1,2,3」 ゾエの声にあわせて二組のカップルが広間でステップを踏み、ふと見るとポピーがリズムに合わせて体を揺らしていた。 ナリッサのボリューミーで丈の長いドレスは練習のために着ていたのか、ダンスの動きによく映える。髪をアップにしたら宮廷映画の中から抜け出したみたいだ。ユーリックを誘惑できるかもしれない。 ……それに比べ、どうしてあたしの服はこんなちんちくりんなんだろう。 ふつう異世界小説で悪女モノなら、ある日目覚めたら美女になっていてドレスも侍女たちが着せてくれるはずなのに、あたしは血だらけで死んだ上に服のレパートリーは下着呼ばわりされたユニク〇ワンピかコスプレ衣装。 ため息をついたら後ろから「ニャア」とジゼルの声がした。いつの間に庭園に出ていたのか、ジゼルはあたしの視線を誘導するように空を見上げる。 「鳥だ」とジゼルが言った。 「獣人?」 「ああ。ぼくがいるせいか降りてくる気配はない」 「鳥さんにはジゼルの声は聞けないの?」 「おそらくな。あの鳥からはほとんど魔力を感じないだろう? きっと変身するのに必要な魔力しかもっていない」 空色の鳥は庭園の上をグルグルと旋回していた。 あたしが芝の上で手を振っても二階まで飛び上がっても何の反応もなく、調子に乗って触ろうとしたら冷気を感じたのかバサッと羽音をさせて急降下する。ジゼルから離れた芝の上に降り、キョロキョロと首を動かす仕草が可愛らしい。 人間の姿はどんな感じなんだろう? 小説でナリッサが獣人騎士の存在を知るのはずいぶん後のことだ。変身シーンで記憶にあるのはランド、あとは……確か猫がいた気がする。鳥はどこかで登場したかもしれないけれど正直なところ覚えてない。風景描写と思ってスルーしたか、そもそも作中に描かれていなかった可能性もなきにしもあらず。 ふと室内に目をやると、ナリッサが椅子に座って足首を擦っていた。 「足の裏がつりそう」 「慣れるしかないですね」と、ゾエは他人事だ。 「ゾエは舞踏会に行ったことがないって言ってたのに、どうしてそんなに上手なの?」 不服そうなナリッサは、元来負けず嫌いな性格なのだろう。でなければ悪女にならず引きこもっていたはず。 「剣にしろダンスにしろ、何かとガルシア小公爵様の練習に付き合わされましたから」 「小公爵様は舞踏会で別の方と踊られたってことよね」 ナリッサは腹立たしげに言ったあと、ハァとため息を吐いた。 「ユーリック殿下には練習しておきなさいって言われたけど、わたしをエスコートしたい方なんていないわ」 「心配される必要はないかと」 ゾエの事務的な口調がナリッサを少し安心させたようだった。 「社交界デビューの舞踏会では身内か家門の騎士にエスコートしてもらうことが多いようです。懇意にしている家門同士で年の近い令嬢令息がいる場合はこの限りではありませんが、皇女であるナリッサ様に釣り合う家門で皇帝派の貴族となると数は限られますし、おそらく皇太子殿下が紫蘭騎士団のどなたかを寄こして下さるでしょう」 小説でのナリッサはどうだったっけ? 回帰前は麻薬事件で謹慎になって舞踏会に出席できず、ナリッサの社交界デビューはその翌年になった。それも皇家主催の派手なものではなく、ガルシア公爵家主催の舞踏会。 ――で、ナリッサはこのとき初めて意図的に悪女っぷりを発揮した。 原因はユーリックが舞踏会に連れてきた皇太子妃のヒメナ。彼女は数少ない銀色のオーラを継ぐ家門の出身で、ユーリックと同じ銀色の髪と菫色の瞳を持っている。貴族たちが「皇女よりもよほど殿下の妹らしい」と囁き合うのを聞いたナリッサは、ジゼルの火炎魔法でヒメナの銀髪に火をつけ、それを消すふりをして水をぶっかける。 麻薬事件で無実だと信じてもらえなかったことがナリッサの心を捻じ曲げ、「悪女」と呼ばれることに開き直ってしまった。 一年遅れの社交界デビューだから当時は十五才。ナリッサの気持ちを想像すると胸が痛くなる。だって、十五才って言ったらまだ中学三年生なのに。 「よし!」 あたしが決意を固めてガッツポーズをすると、ジゼルが何か察したのかケケケッと笑った。 「ユーリックにエスコートしてもらおう!」 あたしのひとり言にノードが思わず顔をあげ、パサパサッとあたしの背後で羽音がした。こっそり近づいていた鳥が、ノードの視線を警戒して距離をおいたようだった。 「ジゼル、中に入ろう。鳥さんに会話を聞かせてあげなきゃ。それで、ユーリックにナリッサをエスコートさせるの」 憑依するつもりで意気揚々とナリッサに近づこうとしたら、ノードが行く手を阻むようにナリッサに手を差し出した。 「わたしがエスコートして差し上げてもいいんですよ」 彼は皇女の前に跪き、それを見ていたポピーが「まあ♡」と黄色い声をあげる。 「魔塔主様がパートナーだなんて、なんて素敵なんでしょう」 「ダメ! ナリッサのパートナーはユーリックなの」 あたしの声が聞こえているはずのノードは完全に無視、ジゼルはひとり爆笑している。ゾエとエンドーは魔塔主が皇女をエスコートした場合の周囲の反応を考えているようだった。 地団太を踏むあたしを憐れに思ったのかもしれない。 「皇太子はどうなんだ?」 ジゼルがナリッサに向かって言った。ナリッサは誰にその答えを聞くべきか迷い、自分を除いて唯一ジゼルの声を聞いていたノードの顔をうかがった。 「ナリッサ様はユーリック殿下と踊りたいのですか?」 ノードはナリッサの手を離して立ち上がり、口調は穏やかだったけれどあたしにはその声がどこか尖って聞こえる。 「ノードはナリッサと踊りたいの?」 あたしの言葉にピクッとノードの肩が動いた。返事を言い淀む皇女の代わりに、ポピーが「あのぅ」と口を開く。 「たった二人の兄妹ですから、もしかしたらお受けくださるんじゃないでしょうか。ここ最近は姫様のことをとても気にかけていらっしゃいますし」 「それは難しいかと」と、ゾエの言葉はにべもない。 そうなの? ダメなの? どうして? 「この度の舞踏会は皇太子殿下が取り仕切ると聞いています。謁見の際のパートナーになるのは立場的に無理ではないでしょうか。そのあとのワルツならあり得るかもしれませんが、皇太子殿下はあまりダンスを好まれないという噂も聞きます」 皇子様がダンスしなきゃ乙女たちの夢はどうなるの! シャララ~ンって感じで花背負って星飛ばして貴族令嬢たちを魅了するのが皇太子の仕事じゃないの? 「でも、皇太子殿下はきっと踊ってくださる気がします。ね!」 エンドーは月光の庭園でのユーリックを見ていたせいか、その時一緒だったポピーに同意を求める。彼女もウンウンとうなずいていたけれど、あたしはエンドーたちのように確信を持つことはできなかった。だって、回帰前だけでなく回帰後の舞踏会でも二人は踊っていない。 ナリッサがドレスの裾を蹴ったのか、ユラリと若草色のフリルが揺れた。 「エンドーもポピーも皇太子殿下がわたしを気にかけてるって言うけど、わたしは覚えてない。だから、急に態度が変わられたのが怖いくらい」 ナリッサの足元にいたジゼルがフンと鼻で笑った。 「人間とはほとほと面倒な生き物だな。茶会にいたあの女達もそうだったが、疑心暗鬼は身を滅ぼすぞ。お前のようなやつはやはり悪魔などとは関わらないほうがいい」 ナリッサがハッと目を見開いた。 「ジゼルはリアーナ様に会ったの?」 思わず口にした彼女は慌てて「そういえば」と誤魔化そうとしたけど、そのときトントンとノックの音がした。みんなの気がそっちへ向いたことに安堵したのか、ナリッサの肩から力が抜ける。 「何?」 彼女は座ったまま扉に向かって声をかけた。 「ベルトラン公爵家からお見舞いの品が届いております。お手紙と一緒に」 「ベルトラン?」 顔を強ばらせたのは常時能面のはずのゾエだった。ノードもその名前を聞いて怪訝そうに眉を寄せている。 「入って」 ナリッサが声をかけるとすぐに扉が開き、使用人の一人がラランカラの花束を抱えて入って来た。広間に飾られたものとは違い、燃えるような赤一色。 「執務室か寝室に飾りましょうか?」 エンドーが問うとナリッサは首を振り、「ではエントランスに」と聞かれてコクリとうなずく。まさか花に何か仕込まれていたりはしないだろうけど、ゾエとノードの反応で警戒しているようだ。 ポピーが銀盆にのった手紙を差し出すとナリッサはその場で封を開ける。花束を届けた使用人は下がり、ダンスレッスンのメンバーは彼女が手紙を読み終えるまでじっと沈黙して待っていた。 あたしは当然ナリッサの後ろに回って手紙を先読みする。 そこにあった名前はイアン・ベルトラン。手紙の内容は舞踏会でのパートナーの申し出だった。
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