皇帝派と皇太子派と皇室の下僕

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皇帝派と皇太子派と皇室の下僕

イアン・ベルトラン。 その名前には覚えがあった。ナリッサが回帰した後の舞踏会のパートナー。 回帰前の記憶から侍女アンナの企みを回避したナリッサは、他のデビュタントたちと一緒に初夏の舞踏会に出席する。 今のところ、舞踏会に関しては回帰後と同じ流れに乗っているのかもしれない。イアンの登場もそうだけど、ノードがナリッサのパートナーを買って出ようとしたのも小説と一緒。 イアンはナリッサを中心とした恋愛相関図の中にいる人だ。 ナリッサの本命はもちろんユーリック。ノードは恋愛対象外だけどユーリックの嫉妬を煽る役。イアンはユーリックと同い年で、作中では何度かナリッサの心が揺れ動いていた。その理由は簡単だ。イアンがユーリックと同じ銀髪と菫色の瞳を持つから。 グブリア帝国には銀色のオーラを受け継ぐ家門がいくつかあり、ベルトラン公爵家もそのひとつだった。 ようやく思い出したけど、イアンの父親であるベルトラン公爵こそガルシア公爵と対立関係にあるグブリア帝国の宰相。ガルシア公爵にかわいがられているゾエがベルトランと聞いて顔を強張らせたのも無理はない。 「ベルトランが動くとは少々意外でしたね」 置き去りにされた真っ赤なラランカラを前に、腕組みをしたノードがチラとゾエを見た。 エンドーとポピーは席を外し、椅子に座ったナリッサと正三角形を成すようにノードとゾエが立っている。ジゼルはナリッサの膝の上でまるくなり、時おり庭園の青い鳥に視線を向けた。 ノードも鳥に気づいているようだから、この会話はユーリックに聞かせるつもりなのだろう。ゾエの魔法具(アーティファクト)に獣人は反応しないらしく、彼女は鳥を警戒することなく振られた話題に答える。 「ベルトラン家を含め、これまでナリッサ様と関係を深めようという貴族はありませんでした」 「ゾエさんがここで家庭教師をしているのはガルシア公爵殿の意向では?」 「貴族の中に家庭教師を買って出る方がいたら、わたくしはここにいないでしょう」 ナリッサがうつむき、ゾエがフォローするように説明を付け足した。 「ナリッサ様のせいではありません。貴族たちは皇帝陛下の顔色をうかがい、その動向からナリッサ様を軽んじているのではと勝手に解釈して距離を置いたのです。ベルトラン家のこの度の申し出は、もしかしたら皇太子殿下の動きを知ってのことかもしれません。あの事件(・・・・)以来、皇太子殿下が石榴宮を頻繁に訪れていることは、ベルトラン公爵様であればきっとご存じでしょうから」 ゾエの口ぶりからすると、箝口令が敷かれた月光の庭園での一件についてある程度把握しているようだ。 なるほど、とノードはうなずき話を引き取る。 「最近、皇帝派の中で分裂が起こりつつあると聞きます。ユーリック殿下に翻意はないでしょうが、彼を担ごうとする皇太子派が生まれつつあるとか。陛下に近いガルシア家門を敵対視しているベルトランが、ユーリック殿下に接近するためナリッサ様にすり寄ろうとしている……。あり得なくもない話です」 「まあ、舞踏会のパートナーに騎士をあてがうより、銀色のオーラを継ぐベルトランの息子の方がナリッサ様にふさわしいといえばふさわしいです」 公爵家令息相手に〝ベルトランの息子〟とぞんざいな言い方をするゾエはよっぽどベルトランが嫌いなのだろう。 ややこしい権力争いの話を聞いていると、ユーリックが以前言っていた言葉の意味が分かった気がした。 ――わたしはそなたを遠ざけてきた。その方がそなたを危険から遠ざけられると思ってのことだ。 あの時はあたしがナリッサの中に入っていたから、ナリッサは直接その言葉を聞いていない。ナリッサが記憶をなくしたからといってユーリックがもう一度言うことはなさそうだし、誰かちゃんと伝えてあげただろうか。 ナリッサは二人の会話をぼんやり聞いていた。あたし同様、貴族と皇族の権力争いには詳しくないのかもしれない。 それにしても、鳥に聞かせるためとはいえ今日のノードはよく喋る。 「そもそも、この初夏の舞踏会でナリッサ様が他のデビュタントと同じ立場で陛下に謁見するというのはおかしな話なのです。ナリッサ様の席は皇族側にあるべきで、実際、ユーリック殿下は幼い頃から皇族の一員として列席されていました。彼が十四才の時は隣国の王族たちが招かれていましたし」 「言われてみればそうですね。でも、今のところ皇太子殿下からダンスの練習をするよう言われただけですから、ナリッサ様が皇族側に座る可能性もあるのではないでしょうか」 「ゾエさんは本当に可能性があると思いますか?」 ゾエはとぼけるように「さあ?」と首をかしげ、逆に質問を返した。 「魔塔主様は皇帝派ですか? 皇太子派ですか?」 あたしは思わず庭園を振り返る。空色の小鳥は草をついばんでいた。 獣人が聞いているのだからノードも下手なことは言わないだろう。不思議なのはゾエだ。小説ではもっと淡々としたキャラクターだったはずなのに、おそらく魔塔主との会話を楽しんでいる。ナリッサは珍獣を見るような目でゾエを見ていた。 「わたしは魔塔の主ですから、皇室の下僕ですよ」 嘘だ。ゾエもおそらく信じていないし、ジゼルがフンと鼻で笑った。じゃあノードは何派かと言えば、きっと幻の亡国イブナリア派。 「ゾエさんは何派ですか?」 ノードの質問返しにゾエがクスッと笑った……! ゾエが、あの能面家庭教師ゾエが!! ナリッサの口は半開きだ。 「正直なところ、わたしは長らく皇太子殿下に良い印象を持っておりませんでした」 「理由をうかがっても?」 「花街の噂、と言えば納得していただけるでしょうか」 ああ、とノードは笑いを堪えながら首肯する。 「今はどう思っているんですか?」 「少なくとも、ナリッサ様への態度についてはわたしは皇太子派です。皇太子殿下がナリッサ様を遠ざけていた理由も、使用人たちの噂話を聞いて納得できました」 ナリッサが居心地悪そうにしているということは、ちゃんと本人にも伝わってるらしい。 「それに、ここ一週間ほどで石榴宮が変わったのも皇太子殿下の差配によるものです。それに引きかえ、皇帝陛下のナリッサ様への扱いがわたしには理解できません」 そうですね、とノードは相槌を打ったけれど、自ら話そうとせずゾエの言葉を待っている。 「例えばこの石榴宮がそうです。皇族はそれぞれ宮を与えられるものですが、陛下が新宮を建てられたのは石榴宮が初めてだと聞いています。それは特別なことに違いないのですが、一方で立地が他の宮と離れた日当たりの悪い丘の北側。ナリッサ様が宮を贈られた年齢も特殊です。皇太子殿下が紫蘭宮を与えられたのは十四才。その年齢まで皇帝宮か皇后宮で過ごすのが先帝以前の慣例だったようですが、ナリッサ様が石榴宮で暮らし始めたのはわずか八才」 「わたしは平民だから」 ナリッサの卑屈な声に、間髪入れず「違います」とゾエが断言した。 「陛下はおそらく、どっちに転んでもいいようにしているのです」 ふむ、とノードは興味深げだ。 「わたしたち女性は子を産めばそれが我が子だとわかりますが、男性には本当にそれが自分の子か判別する術はありません」 「ないんだ」 思わずつぶやいたら、ノードの視線が一瞬あたしをかすめていった。 つまり、とゾエの言葉をノードが引き取る。 「つまり、ナリッサ様に銀色のオーラが発現したときには石榴宮を与えて相応の対応をしてきたと言い、万が一オーラが現れなかったときは、ひっそりと丘の裏側で一生を終えさせようという魂胆ではないか、……ということですね」 コクリとうなずいたゾエは、まだ喋り足りないようだった。 「陛下は聡明な方と思いますが、ことナリッサ様の扱いに関してはガルシア公爵様がいつも頭を痛めてらっしゃいます。公爵様が表立ってナリッサ様を支援できないのは、公爵様の動向がすなわち陛下の意向であると世間で見做されるからです」 「ガルシア公爵殿は、ナリッサ様の味方ということでしょうか」 「公爵様はお優しい方です。わたしに目をかけて下さっているのと同じように、平民であったローズ様とも親交がありました」 「お母さんと?」 ナリッサは思わず立ち上がり、驚いたジゼルがぴょんと膝から飛び降りた。庭園中央あたりにいた鳥は羽音をさせてどこかに消え、 ――と思ったら堂々と広間の窓枠に降りてきちゃったよ。 豪胆というか図々しいと言うか。この小鳥があまり何も考えていなさそうに見えるのは愛嬌のある動きのせいだろうか。とりあえず、この会話は聞き漏らせないということなんだろう。 正直あたしもドキドキしている。 ナリッサの母親ローズと父親ガルシア公爵の繋がりがここで明らかになれば、誰かが二人の本当の関係に気づいたりしない? 「ゾエはお母さんに会ったことある?」 初めてナリッサの年相応な顔を見た気がした。あります、とゾエは無表情でうなずいたけれど、無表情の中の微妙な変化が判別できるようになってきた。 「ローズ様はガルシア公爵邸の書庫の利用を許されていたようでした。小公爵様がまだ帝都にいらしたころですからずいぶん前のことになります。おそらくナリッサ様がお生まれになる前」 「ゾエは何か話した?」 「挨拶程度ですが」 「じゃあ、お母さんがどんな本を読んでたのか知らない? ガルシア公爵様なら分かるかしら」 「おそらく治癒や薬学に関する資料を読まれていたのではないかと思います。何かの病気について調べていらしたようですが」 そう、とナリッサは思案顔になり、パッと顔をあげてノードを見た。 「ノード、わたし平民街に行こうと思う。粗悪な麻薬で苦しんでる人がいるんでしょう? たぶん、わたしにも治癒できるから」 えっ、とノードとゾエが揃って驚きの声をあげた。 「ナリッサ様がローズ様の手伝いをされていたとは聞いていましたが、ナリッサ様は治癒師の資格をお持ちですか?」 ナリッサの赤い髪が左右に揺れる。 「でも、できるわ。そういうのやったことあるもの」 「すごいですね」 ゾエが感嘆の吐息を漏らしたけれど、ナリッサ本人は「そうなの?」と不思議そうに首をかしげている。 「皇宮に来ることにならなければ、資格証をもらうために魔力測定を受けに行く予定だったの」 「治癒師の資格は実務に三年携わることが必要ですよ」 「だって、家ですることといえばお母さんの手伝いくらいだもの。四才くらいの時から色々教えてもらってた。治癒師の家系ってそういうものじゃないの?」 ゾエの目がキラキラ輝いているのはなぜだろう。彼女の舌が饒舌に喋り出した。 「魔力の強さはオーラと違って家系で受け継がれるものではないですから、魔術師の家系というのがないのと同じように、治癒師の家系というのも聞いたことがありません。治癒師の魔力はそれほど強くはありませんが、それでも代々受け継がれているのならとても特殊な例です。帝都では十二歳で一斉魔力測定が行われますから、そのとき治癒師になれる魔力があると判定された場合に治癒師に弟子入りするのが普通で、それから実務三年、資格証を得られるのは早くても十五歳ということになります」 あたしは窓辺の鳥を確認する。 受け継がれる治癒の力といえば、亡国イブナリアを想起させはしないだろうか。いずれナリッサが金色のオーラを持つことは明らかになるけれど、いつどんなタイミングで誰にバレるかが重要だ。 最初はさっさとユーリックにバラしてしまえばいいと思っていた。そうすれば兄妹の関係から解放されてナリッサの恋が進展するんじゃないか、と。 でも、ラブコメでは描かれなかった複雑な権力構造や陰謀の類を見聞きするにつれ、そんなふうに楽観視できなくなっている。 小説で回帰したナリッサが金色のオーラをひた隠しにしていたのは身の危険を感じたからだ。ラブコメとして小説を読んでいたあたしは、ナリッサがユーリックの目を気にして隠しているとしか思っていなかった。 回帰後、ナリッサは密かに平民街を訪れて金色のオーラで麻痺症状を治療する。ノードは彼女のオーラが見たくて協力的だったけど、金色の光を隠すために苦心する描写があった。 今、ノードは迷っている。 「ノード、行かせてあげないの?」 あたしが聞くと、彼は首を左右に振った。 「ナリッサ様の気持ちは分かりますが、今平民街に行くのは危険です。ナリッサ様が麻薬を平民街に広めたというデマが流れていることはご存じですよね。正体がバレたらどうなるかわかりません。以前は平民街にいらしたのですから、ナリッサ様の顔を覚えている人もいるでしょう」 そういえばそうだった。 デマを流したと思われる魔術師シドは国外逃亡したと言われているけれど、獣人騎士たちがまだ行方を追っている。 ……もしかして帝都に潜んでいたりしないだろうか。だとしたら、やっぱりナリッサを平民街に行かせるのは危険だ。 そんな大人たちの心配などものともせず、「平気よ」とナリッサは言う。 「わたしが住んでたのは市場から遠いタラ地区だから、被害にあった人たちはきっとわたしの顔を知らない。ただ、お母さんのことは覚えてる人もいるかもしれないから赤い髪だけなんとかすれば大丈夫」 渋るノードにナリッサはさらに食い下がる。 「石榴宮に閉じ込められたままだと自分が無力な役立たずに思えるのよ。お母さんがいつも言ってた。〝与えられた力には使命が宿る〟って。この先与えられるのかも分からない銀色のオーラより、すでに与えられた治癒師の力がわたしにとっての使命なのよ、きっと」 ――与えられた力には使命が宿る、か。 あたしの幽霊スキルにも使命があるのだろうか。「別格」と言われるノードの魔力にも。 「魔塔主様は皇室の下僕なのでしたよね」 と、ゾエの援護射撃が入った。ナリッサの熱意に打たれたのか、自分自身が平民街出身だからか。 ノードは諦めたようだったけれど、「ダンスの練習もお忙しいでしょうに」と最後の足掻きを口にする。 「基本のステップさえ覚えればあとは笑顔でなんとかなるって、ノードが言ったんじゃない?」 ナリッサが勝ち誇ったように満面の笑みを浮かべた。そのとき羽音が遠ざかっていったのは、魔塔主が冷ややかな視線を窓辺に向けたからだ。
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