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能面家庭教師の本性
ノードとナリッサが平民街行きの算段をしているあいだ、あたしはジゼルと一緒にゾエの後について彼女の部屋を訪れていた。
もちろんゾエはジゼルだけがついて来ていると思っている。
「この時期にしては涼しいな」
ひとり言をつぶやいていたから、あたしの冷気は伝わっているらしい。
この世界はこれから夏に向かう。寝苦しい夜の冷房代わりに添い寝を提案したらノードは呆れるだろうか。
あたし自身は気温をあまり感じられなくて、たぶん心頭滅却しなくても火の上に立てる気がするし、真冬の湖で寒中水泳もできそうだ。
ゾエはベッドと小さな机だけのこじんまりした部屋で、ほとんど荷詰めの終わったボストンバッグから紙とペンを取り出した。
「魔法具だ」
と、ジゼルは机の上に飛び乗り、ゾエの手に握られたペンの匂いを嗅ぐ。
「さすが魔塔主様の魔獣。このペンが何かわかるのね。インクにマナ液が配合されていて魔力のない人には読めないのよ」
「魔力がなければ読めないならお前も読めないのではないか?」
「わたしの場合はこのルーペをかざさないと読めないんだけど」
ジゼルの声は「ニャア」としか聞こえていないはずなのにちゃんと会話になっている。
ゾエがポケットから取り出した五百円玉サイズのルーペに、ジゼルが興味深そうに鼻を近づけた。ジゼルの頭をゾエがなでる。
「君を手懐けたら魔塔主様ともお近づきになれるかしら?」
えっ?
「皇太子様だけでなく魔塔主様も宮に顔を出されるようになったと聞いたから期待してたけど、まさか本当に会えるとは思わなかった。これはどう考えてもチャンスよね」
「チャンスって、何?」
あたしの問いかけにもちろん返事はない。
ゾエはひとり言をつぶやきながら休むことなく紙の上でペンを動かしている。しかも本人には文字が見えていないはずなのに手の動きが淀みない。
「それにしても、ナリッサ様があれだけ魔塔主様に気を許してるってことは、二人は以前から会っていたと考えるべきだわ。使用人たちからそんな話は聞いたことがないし、魔術を使って直接ナリッサ様の部屋に行っていたってことかしら。偽物皇女と呼ばれてるナリッサ様と隠れて接触してたなんて、もしかしたら魔塔主様もわたしと同じ考えを持ってるのかもしれない。なんと言っても亡国イブナリアの偉大な魔術師様だもの」
「主、この女何か知ってそうだな」とジゼルがあたしを見上げた。
あたしは机の真上に浮いて彼女の手紙を読んでいる。ゾエに見えないインクの文字が読めるのは、ひとえにジゼルの魔力があたしに供給されているおかげ。そこに書かれているのはイアン・ベルトランからの手紙のことだ。
「ゾエがノードに近づきたがってるのは何のためなんだろ?」
「色恋じゃないと思うぞ」
ジゼルはあたしの考えをお見通しだった。
「じゃあ、ジゼルは何だと思う?」
「さっき女が言っていた亡国イブナリアに関することだろう。ナリッサとどう関係しているのかはわからないがな」
あ、そういえばジゼルにもまだ言ってないんだった。
「ナリッサはイブナリア王族の子孫だよ」
ニャッ? とジゼルが猫の鳴き声をあげたのはよほど驚いたらしい。
「主、どうしてそんな重要なことを今まで話さなかった」
「なんとなく話すタイミングがなくて。麻薬の件でそれどころじゃなかったし、それにノードには知られたくなかったから」
なぜノードに知られたくないのか聞かれると思ったけれど、ジゼルは楽しげにケケケッと笑い飛ばした。
「魔塔主が知ったらどうなるか見ものだな。この女がその事実に気づいてるなら、魔塔主にバレるのはおそらく時間の問題だぞ」
「ゾエはやっぱり気づいてるかな?」
「気になるならついて行ってみるか?」
さすがジゼル、話が早い。
ガルシア公爵宛てに手紙を書いているということは、ガルシア領に戻る前におそらく帝都の公爵邸に寄るだろう。ナリッサの本当の父親がどんな顔か知っておきたいし、二人の会話を聞いたらゾエが何を考えているかわかるかもしれない。
「それにしてもベルトランのクソガキが」
あまりに汚い言葉に、それがゾエの口から出たのだと気づくまでに数秒かかった。ナリッサ視点で描かれたゾエ像は何だったの?
ゾエがひたすら猫を被っていたのか、ナリッサに人を見る目がなかったか。
はぁ~あぁ、とゾエは深いため息をついてペンを置いた。
「ラランカラ贈ってきたってことはローズ様のことも調べてるんだろうな。論文のこともあるし、ベルトランも気づいてるって考えた方がいいかも」
論文って何?
ベルトランも気づいてるって、もしかしてナリッサのオーラのこと?
イアンがナリッサに近づいたのは、小説では「好奇心と好意から」とイアン本人が言っていた。銀色のオーラの血筋のはずなのにナリッサは銀髪でも菫色の瞳でもなく、イアンはそれを美しいと褒めていた。
――赤髪と緑眼を見て石榴のようだというイアンの言葉が、今のわたしを怯えさせることはなかった。銀と菫が特別な色であることに変わりはないけれど、銀色のオーラを継ぐ者が必ずしも銀の髪と菫色の瞳を持つわけではないのだから。
イアンとの初対面シーンにたしかこんな感じの描写があった。
銀色のオーラを継ぐ者のほとんどはユーリックやイアン、ヒメナ皇太子妃と同じように銀髪と菫色の瞳を持つけれど、そうでない者もいるらしい。先帝の目の色が赤だったと知ってナリッサが驚くシーンがある。
こうして裏事情を知ってみると、イアンの接近は「好奇心と好意」だけでは済まないようだ。
イアンは甘い笑顔と天然系弟キャラが魅力で、あたしは小説を読みながら何度もキュンとした。もしイアンの本性がゾエみたいに小説と全然違っていたら、作者にクレームが届くよう毎日祈りを捧げたいと思う。
きっと、何も知らないイアンを父親のベルトラン公爵が利用してナリッサを手懐けようとしていたに違いない。
(この思考でフラグが立った気もするけど……)
ふとリアーナとアンナのことを思い出した。利用されるのはいつも疑うことを知らない純粋な人。
ゾエは手紙を封筒にしまい、身支度をはじめる。あたしたちは先に部屋を出ることにし、ジゼルが扉にガリガリと爪を立てた。
「魔塔主様のとこに戻るのね。よろしく言っといて」
ゾエが扉を開け、ジゼルは通路に走り出る。そこには使用人たちの部屋が並んでいて、興味本位でのぞいてみたけれど一人部屋はゾエの部屋と執事の部屋のふたつだけだった。二段ベッドの並んだ部屋が二つと、あとはクシャクシャの毛布がいくつも投げ置かれた部屋。どうやらゾエの待遇は侍女よりずっといいらしい。
通路を抜けると広間のドアが開け放たれているのが見えた。広間ではノードが一人庭園をながめていたけれど、あたしたちに気づいて振り返る。ナリッサの魔力の気配は二階にあった。
「高い靴も長いドレスも疲れたらしく、着替えにあがられました」
ノードはこっちに歩いて来ると、ラランカラの傍で足を止めて顔を近づける。
(ああっ! 念写プリーズ!)
「サラさんとナリッサ様はどこか似てる気がしますね」
そう?
「そうか? ナリッサは少々危ういところがあるが、主はたぶん何があっても闇落ちしないぞ」
ジゼルが言うと、フッとノードが笑った。
「それは怖いですね。闇落ちしないということは最強の悪魔さえ味方につけられるということですから」
「それはない。ぼく以外の悪魔と契約したくても主の血はもう存在しないからな」
「たしかに。なかなかおもしろい関係ですね、ジゼル殿とサラさんは」
そうか、あたしは望んだとしても他の悪魔と血の契約を結ぶことはできないんだ。じゃあ、
「血の契約と魂の契約っていうのはどう違うの?」
何気なく聞いただけなのに、ノードとジゼルが真顔であたしを見た。
「サラさん、魂の契約のことはジゼル殿から聞いたんですか?」
ノードの顔に笑みはなく、明らかに機嫌を損ねたのは分かるけど怒り方がいつもと違う。彼は真冬の湖よりも冷ややかな視線でジゼルを睨んでいる。
「ぼくは言ってない」
ジゼルもまずいと思ったのか、慌てて首を振って否定した。濡れ衣なのに。
「ノードが言ったんですよ。あたしとジゼルが召喚されたとき、魂の契約じゃなくて血の契約だから死んだら契約は終わるはずだって、言ってたじゃないですか」
ああ、とノードは一生の不覚とでもいうように頭を押さえた。その一生はかなり長いから普通の人間とは重みが違う。
「サラさん、魂の契約はダメです。ジゼル殿に持ち掛けられても絶対に受けないで下さい」
「そんなの持ち掛けたりしない」
「今はそうかもしれませんが、先のことは分からないでしょう? 本性は移ろうものですから」
あたしそっちのけで二人はしばらくジッとにらみ合っていた。結局〝魂の契約〟が何なのかわからないまま、すでに聞ける雰囲気ではない。
でも、契約するなとノードが言うということは、血を持たない幽体のあたしでも魂の契約はできるということだ。血の代わりに差し出すのは……魂?
頭に浮かんだのは死霊魔術師。ゾッと背筋に悪寒が走った。
短いけれど重い沈黙の時間を打ち破ったのはゾエ。
「魔塔主様。まだいらしたんですね」
ゾエに似合わない浮わついた声が、場の強ばった空気を解きほぐした。
彼女はボストンバッグと帽子を手に持ち、服装は地味なままだけど旅装にふさわしく動きやすそうなチュニックとスカートに着替えている。
「ゾエさんはガルシア領に行かれるのでしたね」
「はい。本当は舞踏会までこちらに滞在する予定だったのですが、所属の研究所から手続き関係のことで呼び戻されて。向こうに着いて用事を済ませたらトンボ返りする予定です」
「研究所に所属されているのでしたか。どうりで博識なはずです。ということは行かれるのはニール地区ですね。ゾエさんは何の研究をされてるのですか?」
「実は」と、ゾエは勿体ぶって間をおいた。
「実はイブナリアの歴史研究をしています。ぜひ魔塔主様にご協力いただければと思うのですが」
イブナリア王国のことを知りたければ生き証人であるノードに聞くのが一番だ。ノードに近づきたいのも納得できる。
「協力してさしあげたいのはやまやまですが、魔術師は魔塔内での研究しか関わることができません。ご存じでしょうが」
「はい。公爵様にも無理だと言われました。でも、独自研究を進めたくても関係資料のほとんどが紛失してしまって行き詰っているのです」
「紛失というより焼失ですね。あの戦争被害のほとんどが世界樹の火災によるものです。イブナリア王国に関する多くの資料が燃えてしまいました」
ん?
ノードが以前亜空間からイブナリアの資料を取り出したとき、背丈ほどある書類を前にごく一部だと言っていた。たぶん皇室に内緒で色々隠してるんだろうな。
「魔塔主、この女は何か知っているぞ。ベルトランも何か気づいてるのでは、というようなことをひとり言で言っていた」
――! ジゼルの裏切り者ぉ!
こぶしを握りしめるあたしに、ジゼルは「オーラのことは言ってないだろう?」みたいな感じでシラッと視線をそらす。
ノードは「ふむ」と思案顔になり、そのあとチラとあたしを見た。
「もちろんついて行くつもりですよ」
以心伝心だったらしい。漏れる笑みを隠すようにわずかにうつむくノードの仕草、好き♡
「ゾエさん、研究協力については検討してみます。いずれにしろ皇室の許可が必要ですから、結論がでるまで少々時間がかかると思いますが」
「本当ですか!」
ボストンバッグを足下に落として歓喜するゾエを見たら、きっとナリッサの顎は外れるだろう。
「そうと決まったら、やること済ませてさっさと帝都に戻ってきます。まったく、クソべルトら、ん……」
本性がこぼれ出かけてゾエはグッと手で口を塞いだ。しっかり聞こえたはずなのに、ノードはスルーして床に落ちたゾエのボストンバッグを手に取る。
「外までお持ちしましょう」
「いえ、魔塔主様にお持ちいただくなんて。それに、まだナリッサ様に挨拶をしていませんので」
「でしたら、わたしは先に失礼します。またお会いしましょう」
ゾエはノードのために扉を開け、あたしたちが門を出るまで玄関先で見送っていた。彼女が再び宮の中に入っていくのを確認すると、ノードが若干呆れ気味の表情であたしを見る。
「色々聞きたいことはありますが、一旦保留にしておきましょう」
「そうですね」
あたしの満面の笑みに苦笑が返って来た。
「ゾエさんについて行くのを止めるつもりはありません。おそらくガルシア公爵邸に寄るでしょうから、どんな話をするか聞いてもらえるとありがたいです」
「ナリッサのためですか?」
「そうですね」
「イブナリア研究のことは?」
ノードはその質問を無視した。触れられたくないときの反応。
「サラさん。せっかくなのでガルシア領に着いたら瞬間移動できるかどうか試してみましょう。帝都に隣接しているとはいえ、ニール地区ならそれなりに距離があります。それだけ離れてもわたしのピアスの位置がわかるなら、そもそもサラさんに移動の制約はないと考えた方がいいです」
「ノードのことを考えたら瞬間移動できるんですか?」
「とりあえずそれくらいしか思いつきません。ダメなら諦めましょう」
雑だな、おい……
「ただし試すのは夜中にして下さい。月がふたつとも沈んだら寝室に一人でいるようにします。ユーリックと一緒にいるときに突然サラさんが現れたりしたら目も当てられませんからね」
深夜の密会……♡
なんて考えていたらエンドーとゾエの声が聞こえ、あたしはノードに手を引かれて塀の陰に隠れた。あたしは隠れなくても見えないと思うんだけど。
「ジゼル殿、ご主人が突っ走らないようによく見ていてくださいね」
「ああ、見てるだけならぼくにもできる。余裕だ」
「見てるだけじゃなくて突っ走りそうなら止めて下さい」
「……だそうだ、主」
「心配しなくても大丈夫ですよ、ノード」
どうせ信用されないのはわかってるからあたしの言葉はペラっペラに軽い。同じくらいの軽さでため息をついたノードは「くれぐれも」と、握ったままだったあたしの手の甲にキスをした。
思考停止したあたしの脳が再稼働する前に、ローブの後ろ姿はゲートの中に消える。
「……主、生きてるか?」
肩に飛び乗ったジゼルの肉球があたしの頬を押した。
「うん、死んでる」
「だろうな」
聞こえたのはケケケッという笑い声ではなく、子猫らしからぬ深いため息だった。
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