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ナイトガウンの内側に傷跡
邸内のマナ石ランプの明かりは、見回りの召使によってひとつずつ落とされていった。広間も廊下も真っ暗になり、廊下に漏れ聞こえていた女中の笑い声が途絶え、どこかの部屋から途切れ途切れのいびき。
ゾエは本に埋もれて寝息を立てていた。魔獣探知のブレスレットは付けたままのようだったけれど、近づかなければ問題ない。
厨房の隣の倉庫にまだ光と話し声があった。どうやら使用人たちの寝床らしく、その明かりと声が消えたあと、ジゼルは厨房の小窓から邸内に入って来た。
「この屋敷は魔法具が多いな。ランプが消えてもマナの気配がある。さすが金持ちというべきか」
「うっかり閉じ込められないようにしないとね」
「防音結界程度ならぼくが解除できる」
「魔獣捕獲結界があるかもしれないよ?」
ゾエが襲われた話を思い出したのか、「たしかにな」とジゼルはうなずく。そのわりに歩調は軽やかで警戒しているふうでもない。
「まあ、ペットレベルの魔力に抑えてあるから結界が発動することはないだろう」
一理あると言えば一理ある。警戒するのが面倒だから捕まったら魔術でどうにかしようと思ってるんだろうけど。
「ところで主、いったいこの屋敷で何を探るつもりなんだ?」
あたしとジゼルはエントランスを抜けて二階にあがり、ガルシア公爵の寝室に向かっていた。ついさっき寝ているのを確認したから家探しするなら今しかない。
あたしもジゼルも暗闇で視力が奪われることはなく、ジゼルがどう見えてるのかは知らないけれど、あたしの場合、彩度は失われるけど物の形や陰影はちゃんと見えている。なんとなく、自分が幽霊なんだと実感する。
「ナリッサの母親が金色のオーラを持ってる証拠を探そうと思ってたんだけど、それじゃダメって気づいた」
「どういうことだ?」
「ナリッサが公爵の娘だって証拠を探さなきゃ、ユーリックと血が繋がってないことを証明できないから」
「……主」
ため息が聞こえて振り返ると、ジゼルが廊下の真ん中で恨めしそうにあたしを見上げていた。
「あたし、どこまで小説の内容話したっけ?」
「ガルシアの娘だというのも、そもそも皇太子と血が繋がっていないという話も初耳だぞ」
「でも、過去に回帰したナリッサがお兄様に恋をする話って言ったよね」
「血の繋がった兄でも惚れたら恋だろう?」
「うーん……、でもあの小説はラブコメだからそういう重いのはちょっと違う」
「違うとか、そんなのは知らん」
言われてみると、探せばそういう小説もあるかもしれない。なんにせよ、ちゃんと説明しないと悪魔には伝わらないらしい。
「それなら」と、気を取り直してジゼルはあたしについて来る。
「ナリッサはイブナリア王族の血を引く平民の女と、いま寝室に向かってるガルシア公爵の娘ということか。だとしたら皇帝はなぜ皇女などと嘘を吐いたのだ?」
ふとあたしの脳裏を過ったのは舞踏会での謁見シーンだった。
――わたしは陛下やお兄様、エルゼ皇太子妃とあそこに並び立つことはできない。わたしの体には皇族の血など一滴も流れていないのだから。陛下が望むのは、わたしがこうして頭を垂れて彼の前に跪くこと。
そういえば、回帰後の舞踏会でユーリックの隣にいたのは銀髪に菫色の目を持つヒメナではなく、緑眼のエルゼだった。
「利用したかったんじゃない?」
あたしが捨て鉢に言うと、ジゼルは「やはり凡夫は凡夫か」と悪魔っぽい笑みを浮かべた。
「凡夫って皇帝のこと?」
「ああ。まだ顔は見ていないが聞けば聞くほど凡庸だ。凡庸な人間ほど迷いが多い上に善意のつもりで悪事を働く。主、以前この世界の悪魔の話をしたことを憶えているか?」
「存在が悪なら悪魔で存在が善なら聖魔、だっけ」
「そうだ。悪魔も聖魔も元は召喚獣だが、その本質を左右するのは召喚者の本質だ。本来なら〝魔獣との血の契約〟と言うべきところを〝悪魔との血の契約〟という呼び方が通例になっているのは、召喚獣のほとんどが悪しき存在となるからにすぎない。凡庸な人間が悪魔を生み出し、闇を深めて悪魔に食われる」
ジゼルがあたしのことを「何があっても闇落ちしない」って言ったのは悩みがなさそうって意味かもしれない。善意と楽観でできている、とも言っていたし。
本人的には慣れない異世界幽霊ライフに悩ましい日々を送ってきたつもりなんだけど、それより、
「ジゼルは悪魔なの? 悪魔じゃないの?」
小説ではハッキリ悪魔と書かれていたけど。
「主が召喚術に割り込んでこなければ悪魔になったんじゃないか? 召喚者であるナリッサの本質はあのとき悪に寄っていた。でも、そこにドバッと主の血を浴びたから、もしかしたらぼくは聖魔かもしれない」
「本当に?!」
「かもしれないってだけだ。ぼくが自分の本質の変化を感じたのは召喚術の発動時と、血の契約の成立時。ぼくの本質が今どっちに傾いてるのか自分でも分からない」
小説の中のジゼルを思い返してみると、正直なところあまり聖魔っぽくはない。だって得意なのは火炎魔法だし、回帰前はもちろん回帰後も白影との対決や魔獣討伐エピソードで手当り次第燃やしまくり、残るのは辺り一面の焼け野原だ。
「まあ、悪魔でも聖魔でもどっちでもいいか」
あたしが言うと、ケケケッとジゼルが声をあげる。
「そういうところが主なんだ」
そんなふうに悪魔談義をしているうち、あたしたちは目的地であるガルシア公爵の寝室の前に到着した。けれど、ジゼルはなぜか少し離れた花台の陰で扉をうかがっている。
「主、そこなのか?」
「うん、ここだけど。もしかして結界が張られてる?」
「いや、中から声がする。起きてるんじゃないのか?」
「え? さっき来たときは眠ってたよ」
いい感じに年を重ねたガルシア公爵の寝顔は前もってチェックした。悩ましげに眉間にシワを寄せて眠る姿も需要がありそう、なんて考えてたのに、部屋に頭を突っ込んでみるとジゼルの言う通り公爵はベッドに上半身を起こしている。悪夢で飛び起きたように息遣いは荒かった。
「起きてる」
「主だけ中に入ったらいい。ぼくはここでも聞こえる」
「家探ししようと思ったのに」
「それは公爵が寝るまで待つしかないな」
結局あたしは一人でガルシア公爵の部屋に入ることにした。声が聞こえたとジゼルが言っていたのは、きっと寝言だったのだろう。
「ローズ」
公爵が亡き恋人の名をつぶやいた。
……恋人、だったのだろうか?
小説ではナリッサの両親のラブストーリーなんて描かれていないけれど、その恋はどう考えてもハッピーエンドとは言えない。もしローズが急死せずナリッサと平民街で暮らしていたとしても、皇帝カインに金色のオーラのことを知られている限りいずれ泥沼の権力闘争に巻き込まれたに違いない。
なぜローズは金色のオーラをカインに見せたの?
公爵が言っていたように明るい場所でオーラが判別できないなら、何かやりようがあったはずだ。
でも、もし人目を避けて皇宮に連れて行かれ、この部屋のような暗い場所に皇帝が横たわっていたとしたら、ローズの選択肢はふたつ。金色のオーラが知られると覚悟した上で治癒するか、オーラを使わず皇帝を死なせるか。
「あの夜の夢を見たのは久しぶりだな。ベルトランのせいか……」
公爵はベッドから起き出し、サイドテーブルのマナ石ランプを灯して傍らの瓶を手に取った。グラスに注いだのは酒のようだ。
ベッドの縁に浅く腰掛け、はだけたナイトガウンから見える胸板がたくましい。どこかのシーンでユーリックも同じようにガウンをはだけさせていたから、この衣装はきっと読者サービス仕様なんだろう。
メタ視点で現状把握しようとするあたしを試すように、ガルシア公爵が腰ひもを解いた。
ナリッサの物語はラブコメだし、R指定されるような描写はない。でも登場人物たちには文字に起こされない裏の顔や、描く必要のない日々の生活があって、着替えるためには裸になるし、夜になれば夫婦や恋人はむつみあう……はず。
腰ひもの解かれたガウンがどうなるのか、あたしは指の隙間から公爵様の露わになった肌をのぞき見る。あっ、それ以上……と目を閉じかけたとき傷痕が目に入った。
下腹部に引き攣れたようなミミズ腫れが十数センチ。彼はそれを愛おしそうに撫でた。
「ローズ、君が残してくれたのはこの傷痕だけだ」
「いや、ナリッサがいるでしょ」
反射的に入れたツッコミは公爵の耳には届かない。
「わたしはどこで間違えたのか。……いっそあの夜、君と一緒に死んでいたら」
自分で言った言葉に彼はかぶりを振り、グラスの酒をグイッとあおった。飲んでいないあたしでも酔ってしまいそうなキツイ匂い。
「何があっても生きなければ。生きてあの子を、それに君の仲間を守らなければ」
ふと見ると、窓辺にラランカラの花が一輪飾られていた。光が弱くて色はわからないけれど、なんとなく赤のような気がする。ローズの好きだった花かもしれない。
ナリッサがラランカラを好きだとは、小説には書かれていなかった。そもそもラランカラという花の名前にも覚えがない。
むしろ、ナリッサが愛でていたのは皇太子の花ともいえる紫蘭。花言葉は「あなたを忘れない」、そして「変らぬ愛」。
花言葉はあたしが気になって調べただけだから小説には出てこない。ちなみに石榴の花言葉は「子孫の守護」。石榴の花は「成熟した美しさ」で、石榴の実は「結合」、石榴の木は「互いを思う」。
登場人物のフルネームを覚えられないあたしがこんなふうに花言葉を覚えていられるのは、ナリッサとユーリック、そしてイブナリア王国とグブリア帝国をこれらの花言葉に重ねたからだ。
ベッドから立ち上がった公爵が、花言葉のないラランカラに口づける。
「石榴の花が見頃なのに、宮に娘の顔を見に行ったら?」
聞こえないとわかっていながらあたしが公爵に話しかけると、彼の視線がフイとあたしの顔の上を素通りする。
「夜は少し冷えるな」
回帰前、公爵は娘を守ることができなかった。牢獄で処刑を待つナリッサの元にガルシア公爵を連れてきたのはノード。ノードならナリッサをゲートで逃がすこともできたはずなのに、やっぱり小説の中のノードは分からないことだらけだ。公爵は涙を流してナリッサに土下座していた。
グラスを空にした公爵はふたたび布団に包まったけれど、あたしは部屋を漁る気も失せてジゼルの待つ廊下に戻った。扉の前にちょこんと座っていたジゼルが、「憐れな男だな」とあくびする。
「主、今夜は魔塔に戻るのか?」
どうしよっかな。
「ぼくは面倒だから適当に近くで寝る。帝都を出るなら朝早くここを立ちそうだしな」
「あたしは気が向いたら魔塔に行くかも。どうせ眠れないから」
「行って魔塔主に報告するのか? 公爵とあの女の会話を」
「気が向いたら」
ケケッとジゼルは笑い、最初に目についた窓を開けてパタパタと屋根の上に飛んでいく。頭上に月はない。
この建物から見えるのは皇宮ではなく丘の木々ばかり。魔塔が見えないかとノードの気配がある方向に目を凝らしてみたけれどそれも見つけられなかった。
屋根の上でまるくなった白猫は、あたしが撫でているうちにウトウトと目を閉じる。一人の夜がはじまって、ぼんやり考えごとをしていたらいつもみたいに朝が来て、そうしたら帝都を立ちガルシア領に向かうことになるだろう。
あたしは屋根を蹴り、魔塔に向かって飛んだ。
月がふたつとも沈んだら寝室に一人でいるとノードは言っていたけど、あたしがまだ帝都を出ていないことはきっと彼も知っている。ガルシア領に行くはずなのにどうして帰ってきたんですか? ――みたいなつれない言葉を笑顔で言われそう。
こうしてノードのことを考えているのに景色はスキップすることなくいつもどおりに流れていく。ガルシア領に着いてから試す予定の瞬間移動実験は失敗しそうな気がした。
ガルシア公爵邸から魔塔の円錐屋根まで、あたしの体感的には二十分。実際は数秒。小窓から寝室をのぞくと、ベッドの上にはちゃんとノードの姿がある。
枕元にしゃがみこんで推しキャラ魔塔主のイケメンっぷりを堪能している最中、別れ際に手の甲にキスされたことを思い出して声をあげそうになった。でも、ギリセーフ。
起きて欲しいけど起きて欲しくない。
話したいけど話したくない。
そういえば、凡庸な人間ほど悩みが深いってジゼルが言ってたっけ。
恋は人を凡庸にするのね♡
……と、迷言っぽい言葉を思いついたことであたしは満足した。
ナリッサがイブナリア王族の血を引くことは、まだノードには伝えない。
金色のオーラをナリッサが持つことを知れば、彼は小説と同じようにユーリックの恋のライバルになるかもしれない。でも、あたしが気になっているのはナリッサよりもかつて彼の恋人だったミラニアのこと。
ノードが亡国イブナリアの記憶に翻弄される姿を見たくなかった。復讐なんてして欲しくない。
「あたしはノードにも幸せになってほしいんだけどな」
ナリッサとユーリックの恋の噛ませ犬である魔塔主ノードの後日談はそれほど詳しく書かれていない。ナリッサ目線で「魔塔主は相変わらず」というような数行の雑な描写でノードは物語から姿を消した。〈完〉の後に魔塔主の番外編があることを期待したけれどそれもなかった。
「ねえ、ノードの幸せはイブナリアに置いてきちゃったの?」
長居するつもりはなかったのに、小窓から見える空が白みかけていた。あたしが来た痕跡を残そうかと思ったけれど何もできなくて、ふと思いついてノードの長い漆黒の髪に口づける。普通は男性が女性にするやつだけど、いいよね。だって、唇どころかほっぺにキスする勇気もない。
「行ってきます」
眠ったままのノードに声をかけ、あたしはジゼルの気配を目指して飛んだ。
西にある皇宮の丘のあたりはまだ夜の気配を濃く残し、空には星明かり。朝早く起きた使用人が灯すのか、地上にもマナ石ランプの明かりが少しずつ増えていた。
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