第1話 もう嫌、こんな生活。

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第1話 もう嫌、こんな生活。

83ddbee9-7723-4486-b0a6-753220121152「ステファノ、これも洗っておけ!」    小さな飯屋の狭い厨房。そのまた狭い洗い場で、ステファノは皿の山と向かい合う。今掃除が終わったばかりだというのに。   「これだけの量――。(かめ)の水が足りないな」    はあと大きなため息を吐き、ステファノはトボトボと井戸に向かう。何度も水を汲み上げては、大きな桶を満たしていく。  桶が一杯になったらそれを運んで水瓶(みずがめ)に移す。  それを10回繰り返さなければ洗い場の(かめ)は満たされない。  2つの桶を天秤棒で担ぐ。棒は肩に食い込み、一歩進むたびに骨と筋が(きし)みを上げる。両手は桶を釣る縄を支えており、額から(したた)る汗を(ぬぐ)うことすらできない。 「しまった!」  気を付けているつもりだったが、石畳に足を取られて足首を捻ってしまった。たまらず膝をつき、桶の水を半分ぶちまけてしまった。泣きたい思いをこらえて立ち上がり、もう一度井戸に向かう。     1時間は経っただろうか。水瓶に水が溜まった頃には、ステファノは腕が上がらなくなる程に疲弊していた。足も腰もフラフラだ。  捻ってしまった足首もうっ血し始めていた。    一息入れなければ洗い物の山に立ち向かう気力も湧いてこない。    店を支度中にしたのであろう。昼の部の後の休みを取りに、亭主であり父親のバンスが厨房に入ってきた。   「何だ? まだ終わってねえのか?」  厨房の隅の椅子に腰を下ろすと、バンスは煙草を取り出した。 「水瓶が空だったんだ」 「それがどうした。水汲みにどれだけ時を掛けてんだ? 日が暮れちまうぞ!」    バンスは乱暴者ではなかったが、口も気も荒い。もたもたしていては職人は務まらない。そう言って生きてきた男である。   「大体おめえはだらしがねえんだ。ひょろひょろしてやがって踏ん張りもききゃあしねえ」    そう言われてもステファノには言い返す言葉もない。そんな元気もない。10程数えて(きし)む足腰で立ち上がった。   「夕方までには終わらせるよ――」 「しっかり洗えよ。客は待っちゃくれねえぞ」    煙草一服の休憩の後、バンスは夜の部の仕込みに入る。家族経営の大衆食堂だ。ダラダラする暇などありはしない。  バンスはそうして下働きからここまでやってきた。自分ができたことは(せがれ)にもできるはずだ。それが当たり前だと思っていた。  筋肉が鉛になったかのような腕を動かして、ステファノは皿を洗い始めた。握力がまだ戻らない。危うく皿が掌をすり抜けそうになる。   「おっとっと! 危ねえ――」  ステファノは思わず冷や汗をかいた。 「おい、気を付けろ! 割った分はてめえの給金から引くぞ」    親子だからといってバンスは手加減しない。仕事に親も子も関係ないというのが、バンスの流儀だ。  それは当然だとステファノも思う。自分がしっかりすれば良いことなのだ。  更に小1時間も掛けて、ようやくステファノは皿の山を洗い終わった。  皿洗いが終わったら、今度は皿を拭いた布巾を洗って干さなければならない。しっかりやって置かなければ、次に使うとき自分が困るのだ。    洗い物がおわったら、店の片付けをする。テーブル・セッティングなどという気の利いたことは必要ないが、椅子を揃えたり、テーブルを清拭(せいしき)したりの雑用は存在する。こういう準備に手を抜くと店がだらしなく見える。ひいてはメシが不味くなるというのが、バンスの口癖だ。   「親方、片付けが終わったよ」  ステファノの報告を聞いて、バンスが頷く頃には夜の営業が始まろうとしていた。 「良し。パンとスープの残りで飯を済ませておけ。十分で終わらせろ」a18c6cc0-2c8e-41de-8fcf-02febf89b652   昼食なのか晩飯なのかわからない食事――冷めたスープの残りと固いパン――を無理やり腹に入れた頃には、「支度中」の札がひっくり返される。  後は昼の仕事の繰り返しだ。    いや、違った。夜は酔っ払いが出る分だけ昼よりも厄介だ。壊された食器を片付けたり、喧嘩の仲裁をさせられたり。運が悪ければ自分が殴られる。 「さっさと持って来い! この屑が! わざとらしく足なんか引きずってんじゃねえよ!」  紫色に腫れ上がった足首を冷やす暇もなく、ステファノは配膳を急ぐ。  言い訳したところで、殴られるだけだ。    深夜に店を閉め、奥の部屋で倒れるようにベッドに潜り込む頃には、ステファノはもう何も考えられなくなる。ただ休みたい。眠りたい。   「あーあ、明日が来なけりゃ良いのに――」  ステファノは毎晩そうやって眠りにつく。  毎晩だ。  ある朝目覚めた途端、心の底から思った。 「もう嫌、こんな生活!」  その日からステファノは生き方を変えた。 「俺は魔術師になって、自由に生きる!」  15歳になったばかりのその日から、ステファノは魔術師になるという目標にすべてを賭けた。 ―――――――――― 今回はここまで。 読んでいただいてありがとうございます。 次回でステファノは、生まれ故郷の街を出る決意をします。 己の知恵と努力で魔術師になるために。 ◆次回「第2話 ステファノ、決意する。」   「そんなことで魔術を覚えられんのか?」    バンスの声が心配の色を帯びた。きついことを言っても、やっぱり親なのだ。   「確信はない。でも、分の悪い賭けじゃないはずだ」  ステファノはきっぱりと言い切った。  …… ◆お楽しみに。 ◆「飯屋のせがれ、魔術師になる。」は毎日17:45から営業です。(=新話公開)
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