1 属州バースの夜明け

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 深夜、イリアは不穏なざわめきを感じてハッとなる。  イリアの部屋には南向きのバルコニーがある。寝室の床には様々な鳥を描いたモザイク画が施されている。  樫の木で作られた彫刻が見事な寝台。繊細な蔦模様の彫刻を施された黒檀の机と椅子。壁際の衣装箱と硝子細工の水差しに銀の燭台など、オスベルの王都から運んできた瀟洒な調度品が揃っている。  イリアは十八歳。野蛮な属州に引っ越してきて、わずか数ヶ月。住み慣れない場所という事もあり、こんな深夜に何事が起きたのか不安に駆られていた。  ここは、オスベル帝国の属州のバースで最も大きな街なのだが、オスベルの王都から早馬を使っても七日以上はかかる。街全体が頑丈な城壁によって守られており、屈強な軍隊が常駐しているが、それでも、いつ、暴動が起きてもおかしくない。  イリアは寝台を出て水色の絹のガウンを羽織ると裸足のままヒンヤリとした床を進んだ。鼓動を鳴らしながら東側の鎧戸を開いて様子をジッと伺う。高級住宅が建ち並ぶ丘は落ち着いており、いつもと何も変わらないように見える。 (何の騒ぎだったの……?)  心許ない気持ちで佇んていると坂の下から松明の灯りがこちらに移動する様子が見てとれた。屋敷の奴隷達が帰宅した為に門番が戸を開けて迎え入れている。何が起きたのか気になり、寝室の呼び鈴の紐を引くと、侍女のサナが階段を駆け上がってきた。 その手には室内用の銅製ランプを掲げている。サナは三歳年上だ。イリアが十歳の頃から身の回りの世話をしてくれているのである。 「何が起きたの?」 「深夜、西側の市場の付近の香油を売っているルシルの自宅が火元となりました。うちの奴隷も火消しを手伝い、鎮火しましたので心配はありません」  イリアの邸宅の脇には頑丈な石造りの倉庫が並んでいた。オリーブ油、小麦、葡萄酒、石鹸、皿や壷や靴などの生活雑貨といった生活物資をオスベル軍舎に納入している。  それとは別に、個人事業主にも卸している。ルシルという娘は週に一度は香油の仕入れに来る。イリアとも顔見知りだった。 「ルシルの父親が徴税人と揉めたのですわ」  ルシルの父親は近隣の村々を巡る運送業者なのだ。半年前に牡馬が原因不明の嘔吐を繰り返して急死して税が払えなくなり、それで、仕方なく徴税人に借金をしている。もしも、期限まで返せない場合、自分が奴隷になるという約束を取り付けていたというのである。 「ルシルの父親は利子を払うのにも苦労しておりましたわ。死んだ馬の代わりに、今にも死にそうな馬を手に入れて運送業を続けていましたが、赤字は膨らむ一方だったようです」  そして、昨夜、奴等が来た。借金の形として、一人娘のルシルを連れ出そうとしたものだから、大騒ぎとなったという。 『おい、なんで、わしじゃなくてルシルなんだ! やめろ!』
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