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8 首謀者
遠くでカラスが鳴いている。市街地が夕焼け色染まろうとしている。一日の終わり。粗末な衣服に身を包んだバースの労働者達が浴場へと集い始めている。最近は、バース人にも入浴の習慣が根付いているおかげてバース民の公衆衛生が向上しているのだ。
バース人はもちろん、役人や軍人が安い麦酒や林檎酒に酔いしれて街は大いに活気付く時刻である。
イリアが入浴を終えてサナに髪を乾かしてもらっていると、アレクが部屋に来た。
「イリア様にお話があります」
辺りは真っ暗になっている。こんな時刻にルシルが荷車を一人で押してイリアに面会を願い出てきたことを不思議に思い、アレクの書斎に入れると、彼女は思いつめたように切り出した。
「イリア様、突然ですが、逃走の手伝いをしていただきたいのです」
「逃走するって、どこに?」
「わたしではありませんわ。実は、カーン族の首長の息子のトナを逃がしたいのですわ」
「カーン族のトナ?」
イリアよりも先にアレクが身を乗り出して聞き返している。
「次期族長候補の若者ですわ。先ほどまで我々はカーン族のトナを従兄の家に匿っていました。しかし、スツラの部下達が街中の家屋を捜索していると聞いて慌てて逃げ出したのでございます。スツラは、不審な人物を見かけた者には報奨金を出すと言っております。見付かるのも時間の問題かと思います」
このままでは見付かってしまう。唯一、この街で信頼できるイリアの屋敷に飛び込んできたというのである。
「従兄の荷車にトナを乗せて連れてまいりました。哀れなトナは狭い木箱の中におります。怪我が酷いというのに、彼を医者に診せる事が出来ません」
ハッとなる。病人を外に置いておく訳にはいかないではない。急いでイリアが動き出していた。
「それなら、すぐにトナの手当てをしましょう。アレク、頼むわよ」
すると、アレクがイリアの屋敷の奴隷達を呼び寄せて、こんなふうに命じたのである。
「おまえ達、その箱の中には貴重な陶器や銀製品か入っている。ユリアウス様からの贈り物だ。そっと、わたしの執務室へと運びなさい」
本当に貴重な銀食器や陶器は、アレクが自室に保管するようにしている。だから、誰も、不審に思う事なく重い木箱を書斎の真ん中に置いたのだが……。
中味が何なのかバレると大変なことになる。とにかく、早く、トナという若者の顔を見たい、使用人が出て行くとアレクが力任せに蓋をこじ開けたのだ。
「おおっ……」
痛ましそうにアレクが目を眇めている。イリアも覗き込むと、そこには苦しげに身体を折り曲げている若者がいた。衣服に血痕や汗が染み付いていた。今にも死にそうなほど憔悴しているが、激烈なほどに美しい顔立ちをしている。野生動物のような強さを秘めているようにも見える。
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