上海記者倶楽部①

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上海記者倶楽部①

「帷子辻?」 「そうです、帷子辻」  鮸膠も無い答えに、禅問答か、と瑞垣は毒づいたが、野々村は涼しい顔のまま続ける。 「瑞垣さんはお馴染みでしょう、京都ですから」 「んなわけあるか、太秦やろ。ほぼ嵯峨野やないか、よう行かんわ」  そもそも地名の話でもあるまい。  いつものように記者倶楽部でクダを巻きつつ雑多な情報交換をしていた時分、其の話題は割り込んできた。どうしても硝煙臭いニュースの多い中、其れは別の方向に一際異彩を放って、だから瑞垣もわざわざそれに乗ったのだ。  或る日、往来に死体が現れたという。  始まりは半年ほど前に遡る。曰く、夕暮れ、まさに逢魔が時に、上海租界と外界の丁度境の路地に、忽然と死体が現れた。とはいえ、行き倒れも珍しくない時代である。常ならば間髪入れずに対処され、すぐに忘れ去られる程度の話題であったのに、そうはならなかった。  何故なら三月後、また死体が現れたからだ。然もまた夕暮れ時、数分違わぬ場所に。そして其れは、都合四度続いたという。  瑞垣はわしわしと頭を掻く。明るい髪色は地毛ではあるが、此の異郷に来てから更に色素が薄くなった気もしていた。彼はひとつ息をつくと、暗い声で続けた。 「往来に死体遺棄、帷子辻とくれば……九相図やな。嵯峨帝の、檀林皇后だったか……」 「一説では小野小町だとも」 「とりあえず別嬪さんだったら誰でもええんや、ああいうのは」  冷静な後輩の声を遮って吐き捨てる。  九相図とは、屋外に打ち捨てられた死体が朽ちていく過程を9枚の絵図で表現したもので、元はといえば仏教絵画である。帷子辻はその死体を打ち捨てた路地であり、京都の太秦にその地名を残している。  九相図と呼ばれる絵図には幾らか種類があるが、生前の姿を写したものは一枚のみで、あとは死後の様子を時間の経過とともに表した連作であることが殆どだ。凡そは死亡直後から、腐乱し、血と肉に崩れ、獣や虫に喰われ、最後は白骨となる様子がまざまざと描かれている。  そして大抵、生前の姿は美女であった。九相図がそも、仏僧の修行の妨げとなる煩悩に対し、現世が不浄であり無常であることを表現しているわけだが、その仏僧の煩悩の対象が女であることに起因するとか。  小野小町は勿論、日本史上随一の美女として有名だが、帷子辻の出所である檀林皇后もその容色常ならず、大層な美貌の持ち主だったという。それが為に道を誤る僧が居たとか居ないとか。そうして彼女は自らの死に際し、遺体を辻に打ち捨てよとの遺言を残す。どれほど美しい容貌であっても、屍が朽ちていく過程を見れば、それがいかに移ろい易く、虚しいものなのかが解るであろうとその身をもって示した、というのが帷子辻の謂れでもあるのだが……  つまり男が愚かだということの証だろう、と瑞垣などは思っている。大体においてそうなのだ、己の不浄を外に、つまり女に押し付けている。  否、今はそれはどうでもよい。  雑念を振り払い、瑞垣は思考を元の軌道に戻した。 「何れにせよ、刑事事件やろ。死体だらけの中世の都とは違うて、死体はそんな都合よく落ちてるもんとちゃう」  京の都といえば歴史上、長きにわたり日本の中心地であったがその実、死体にあふれた街でもあった。無論、人口が多い為であるが、数々の戦乱や幾多の事件、疫病や自然災害等に見舞われれば、都には死人が多く出た。その結果、死体を葬る場所と作法が必要になったのだ。鳥辺野、化野等が著名ではあるが、市街地から一歩踏み出せば、無数の墓場が広がっていた。  だからこその都である。  17世紀の初め、江戸に幕府が開かれ戦乱の世が終わりようやっと落ち着きを見せ、また維新をも乗り越えた古都はその面影を振り払ってはいるが、それまでは本当に冥界への入り口に囲まれた街であり、遺骸は身近なものであった。だからこそ、帷子辻の伝承もそれはしたりと思わせるものであった。  が、此処は海を越えた近代都市、上海である。 「死体遺棄事件、でしょうね。真っ当に考えれば」  野々村の冷静な受け答えに、瑞垣はますます眉間の皺を深くする。 「まっとうにて……それ以外になんかあんのか?」  あるわけがないと言下に否定する瑞垣の一方で、野々村の様子は珍しくどうにも要領を得ない。 「遺棄事件では、ないようなんですよ、どうやら」 「は? なんやそれは」  どういういこっちゃ、と盛大に顔を顰めて瑞垣は倶楽部の長椅子に身を投げ出し、どかっと靴を肘掛けに上げる。そしていつも必ず出る野々村の小言の前に、投げ遣りに混ぜっ返した。 「事件やないなら、怪談の類や」 「その、怪談の可能性が無くもないんです」 「どういう意味や」 「死体が残っていないんです。消えました」 「……はあ?」  しれっとした野々村の言に今度こそ、頓狂な声が出た。 
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