味噌汁

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味噌汁

「捻りがないな」 「……この場合、特に求められてもおらんやろ、洒落やユウモアは」  間髪入れずに言い返して、瑞垣は煙草を咥えたままソファに身を沈めた。  それもそうだなあ、と、笑ってから彼は椀に口をつけた。ふわりと漂うのは祖国の味噌の香りで、先日、瑞垣が元同級生のツテを辿ってようよう手に入れた味噌である。  この国はさすがに亜細亜大陸の中心で、食については殆ど不自由しない。中華帝国は偉大だ。然し、矢張り味噌は母国のものが一番だと言ったのは彼の方で、結果、瑞垣は其の為にかなり骨を折ったのだが無論、そんなことは黙っている。  ただ、味噌汁が飲みたいという彼の言葉を無碍に出来なかっただけだ。  瑞垣は黙ったまま、食卓で飯を喰う彼を眺める。  一方、帷子辻は兎も角、消えるというのが肝心要な訳か、と彼は独りごちる。  此の部屋は租界の端、支流の側にある。外務省が用意した官舎は独り身では持て余すと、彼が瑞垣を呼び寄せた。彼の生活には余白が多過ぎたのだ、ひとが一人増えても不自由がない程度に。  南仏風の造りだという部屋は窓が多かった。夏が近づいている今、風の通り道となる其処此処の窓は開けてある。煙草の煙がするすると流れて、瑞垣はぼんやりと紫煙を目で追った。  彼は「真逆、この街では時間が巻戻るという訳でもあるまい」と続けたあと、 「何れにせよ」  そこで一度、言葉を止める。椀を見下ろす彼の眼がすっ、と冷えた。 「屍体が四つある、ということじゃろう」  自分が出した答えと数分違わぬことを言い切って、彼は椀を置くと「ご馳走さまでした」と手を合わせた。  瑞垣は軽く舌打ちする。  論理的に考えれば、其れ以外に無い。もし他殺体だとすれば、情勢や怪談の要素を取り除くと、極めて陰惨で危険な大量殺人事件なのだが、そのあたりが奇妙に暈かされている。瑞垣としても気になってはいた。  件の現場とこの部屋は同じ租界とはいえ、ほぼ反対側に位置している。其のせいもあるとは思うが、これだけ断続的に続く事件の話をまったく耳にしない。これ程、外連味たっぷりな事件であれば自分か彼の耳に入りそうなものなのに、伝わってこないのはやはり妙だった。  顔を顰めたままの瑞垣を見遣って彼は、ふふっと嗤うと「それで」と促す。 「どうなったんだ?」  彼の眼差しを引き剥がすと、瑞垣はゆっくりと息を吸ってから、押し殺した声で応える。 「五人目が、出た」  ほう、と流石に彼も眼を見開く。 「何時?」 「一昨日」  今度ははっきりと若い女の死体だった。  しかも今回は消えなかった。 「消えなかった?!」 「そう」  これが今回一番の謎であり、唯一の鍵だ。  長い黒髪の……明らかに東洋人で、人相もはっきりしていたという。であれば邦人の可能性も捨てきれぬ。なのに外務省の書記官たる彼が知らないということはまた、その裏にある事情を思って、瑞垣の眉間の皺は深くなった。  とはいえ、とうとう新鮮な屍が出た。 「今度は身元が割れるかもしれん」  であれば、帷子辻云々の装飾が剥がれ落ち、ようやっと事件本来の姿が見えるかも知れなかった。  成る程、と彼は頷くと椀と箸を手に立ち上がる。台所で手早く洗い物をする姿は、独り暮らしの長さを物語っていた。  入省後直ぐ、恩師の紹介で見合いして連れ添ったという細君は、産後の肥立ちが悪く死に別れたそうだ。産まれた女児はそのまま引き取り、今は彼の姉夫婦が育てているという話も、本人からではなく彼の同僚や同業者達から聞いた。後添いの話は降るほどあったろうに、それを振り切ってこんな火薬庫に赴任してきたのだ。  物好きにも程がある。  随分前から、居間にある彼の写真立ては伏せられたままだったが、其れを手に取る度胸が瑞垣にはない。  すっかり短くなった煙草を揉み消し、新しい一本を咥えてマッチを擦った。  ただ水仕事の音を聞く。  捲られたシャツの袖から伸びる腕は、昔のままに絞られた麻縄の様だった。剣の腕前も相変わらずだろうか?  丁寧に食器を拭き終えた彼は、さて、と呟く。それからすいすいと近寄って瑞垣に前に立つと、手を伸ばして点けたばかりの煙草を奪って、ひと息吸う。  煙がまた、流れた。今度は瑞垣も目で追うことはしない。見るのは薄く笑んだ彼の瞳だ。 「ま、それはそうと……こちらは決着を付けよう」  そう言った彼が指し示す、先に。  窓際の机の上、古びたチェスボードがあった。
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