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上海記者倶楽部②
「だいぶん眠そうですねえ」
大欠伸を見咎められ、瑞垣は顔を顰める。
実に愉快そうに声を掛けてきたのは上海日日新聞の若造、塩塚だった。この処、記者倶楽部に立ち寄る時間が短いせいか、顔を合わせるのは久々だ。
「さては昨晩、お楽しみでしたか?」
「愉しかねえよ」
と返しながら、実際、相手の言葉通りではあった。三局もこなしたのだ。眠くて仕方がなかった。
適当に言葉を濁す瑞垣に、倶楽部のドアを閉めながら塩塚はニヤニヤと訊ねてくる。
「で、どんな女なんです?」
「……はあ?」
「惚けないでくださいよう。”あの”瑞垣がカフェーにも酒場にも寄りつかず、夜の街でもさっぱり見掛けない、とうとう何処かの女に捕まったのかって、近頃はシェロンでもその話題で持ちきりですよ~」
馴染みのカフェーの名前が出て、今度は瑞垣も瞠目した。もうあの店に行かずともゲームは出来るが、疎かにすれば何処から煙が立つか解らぬ。巧く立ち回らねばなるまい。
「そんなんやない」
女ならまだよかった。
真顔で黙り込んだ瑞垣を、産まれて初めて出会った生きものを見る目で眺めていた塩塚は「意外なこともあるもんですねえ。本気なんですか?」と呟いてから、はっと気付いて話題を変えた。
「そうだ、瑞垣さん、聞きました? 例の人喰い辻の、」
「それだ! どうなった?!」
こちらも本来の目的を思い出す。
死後どれくらいだ? 身元は? と問いを重ねる瑞垣を、塩塚は「まあまあ」と手を翳していなした。
「どうも厄介なところが絡んでるらしいんですわ」
「と、いうと?」
面倒なことは端から解っている。恐らく、多少なりとも裏事情があるはずなのだ、この事件には。眉間に力を入れる瑞垣に、しかし塩塚は寧ろゴシップを囁くような調子でこう言った。
「似てるんだそうですよ。見つかった死体が、烏屋敷のお嬢さんに」
「……からすやしきィ?」
なんやそれ、と眉尻を下げた瑞垣に、知らないんですか?! と塩塚は逆に聞き返す。
「陸軍中将を務めた宇佐見様のお屋敷ですよ……中将は去年か、一昨年かに亡くなって、今はご息女二人が住んでるンですが。宇佐見家は元を辿れば名門三条家の御血筋だそうで」
軍か。それで彼が知らないわけだ。
陸海軍部の不仲は有名だが、それ以上に政府と軍の関係は劣悪だった。軍の圧力で外務省が情報から疎外されているとは、国の外交として如何にも危うい。瑞垣の片眉がまたぞろキリキリと吊り上がった。
「そこのお嬢さまの一人がですねえ、ホトケさんがよく似てるそうなんです。お屋敷と現場もかなり近いですし」
死体を発見したのが近所の住人だとすれば、確かにそんな話も出るだろう。
「で、そのホトケさん、ご令嬢なんか?」
「特に届けは出てないらしいそうですがねえ。ちょっと複雑なんですよ、宇佐見家は」
どういう風に、と食い下がると、情報料代わりに奢ってくれますよね?と後輩はヌケヌケと言う。瑞垣は少し考えてから、一先ずもう一つの件を訊ねた。
「烏、つうのは?」
何故と問えば、「嗚呼、それは」と頷いた塩塚は、
「見れば解ります」
とだけ応えて、それで其の若返る屍体です、と塩塚は訳ありげにニヤリと嗤う。
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