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烏屋敷①
先ずは現場百回、という訳でもないが、行かないことには始まらぬ。
瑞垣は塩塚を連れて、件の『人喰い辻』まで出掛け、その近くの茶店に腰を落ち着けた。
「宇佐見元中将ですが、日露戦争後に退役されましてね。五年ほど前に上海租界に移住されたそうで」
蒸したての饅頭に相好を崩す塩塚をせっついて、宇佐見家について一通り事情聴取する。
宇佐見中将の奥方は大陸に渡る前に亡くなり、また中将も二年ほど前に卒中で倒れ、そのまま亡くなったという。そして今現在、お屋敷には中将の娘が二人、何れも二十歳を少し過ぎたころ。姉は春菜、妹は夏姫、他には執事のほか、数名の使用人達。
「あとは若い庭師が居ました」
「……いまし〝た〟?」
「その庭師、若旦那様になったんですよ、宇佐見家の」
「あ?」
ということは、姉娘の婿養子になったということか。
庭師、つまりは使用人である。三条家の流れを汲む家に、しかも嫁ではなく婿として使用人がぽんと入るということは……どう考えても面倒事の種になろう。瑞垣は茶を啜りながらついつい顔を顰めた。
「揉めたろ」
と訊けば、
「ええ、揉めました」
と返ってくる。
「元はといえば、その若旦那の母親が宇佐見家のお女中だったとか。中将様がこの租界に渡られた頃、行商の亭主が西班牙風邪でコロッとおっ死んで、路頭に迷ってた女と息子を拾ったそうで。そのまま住み込みの女中になったと」
そこまではまあ中将様もお優しいことで、というところですが、と塩塚は二つ目の饅頭を手に取った。
「息子は其の頃、十四、五だったか、宇佐見様の口利きで庭師に弟子入りして。それが、びっくりするような美少年だったそうですよ。ま、そもそも母親の方もえらい美女だったそうですが」
「なるほど。それで年の頃はちょうどご令嬢達と同じ、となれば、まあ焼けぼっくいに火がつくと」
「らしいです。春菜お嬢様が見初めて、あっという間に大火事に」
世間知らずなお嬢様と庭師の恋、か。読み物にしても陳腐な筋書きである。しかし、そういうのが一番単純に燃えるのだ。
「添えないなら駆け落ちするだのしないだの、大もめに揉めて、結局、中将様も折れたそうです」
「そいつはまた……いや、そもそも他に縁談もあったんやないのか? つうか、あるやろ、陸軍時代の部下とかいろいろ」
「ええ、そりゃまあ腐るほど。宇佐見様には息子がいませんでしたしね、見合いの話も引きも切らなかったとか。でも元々、春菜お嬢様は社交界デビュウもままならぬほど病弱だったそうで、ほとんどお屋敷に籠もりきり。まあ跡取りでもないからということで」
「は? あァ……側腹か」
姉娘は妾腹、なのだろう。そうなれば、妹に然るべき婿を迎えれば良いと中将は考えたのか。駆け落ちや心中でもされた方が面倒ではあろう。瑞垣も溜息を吐いてから饅頭を手に取った。
「中将様はなんというか、お盛んであられたようで。東京に居た頃は本宅以外に二、三の別宅に通ってたそうですよ」
「……暇なんか」
「戦争行ってない間はそうかもしれないですねえ」
上流階級出の将校なら囲い女のひとりやふたり珍しくもないが、それでも息子が生まれなかったのは皮肉としか言い様がない。蒸したての饅頭も不味くなった気がして、瑞垣は茶で流し込む。
「ちなみに姉妹でも随分とご気性も違うようで、一方の夏姫様は社交界でもご活躍、乗馬に、狩猟に、船遊びにと出歩いてます」
「まるで春と夏のよう、か……そんでも、夏の方が残ってんのやろ。一件落着やないか」
くだらねえ、と吐き捨てるように言った瑞垣は、腹立ち紛れに紙巻き煙草を取り出す。しかし、塩塚は何故かそこで歯を見せた。
「ところがどっこい、ちっとも落着じゃなかったんですよ。蓋を開けてみると、庭師と結婚したのは夏姫様の方でした」
「……はあ?」
瑞垣は迂闊にも手にした煙草を取り落とした。
花嫁が、入れ替わった。
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