口裂け女の弟子

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   「ねぇねぇ、最近、ここら辺でお化けが出るんだって」    そんな噂が5年B組の教室中に広まった。  私がその噂を聞いたのは給食のときだった。    「すらりとした体型で、髪は黒くてストレートのロングヘアー。ファッションモデルのような美しい女の人なの。しかし顔にはマスクを付けていて、それを外すと口が頬まで大きく裂けているの」  「うそ、怖ーい」  そのお化けとは、昭和の時代に流行した都市伝説、口裂け女のことだった。  クラスメイトの森さんと新見さんが、給食中に口裂け女の噂を話していた。  私はそんな会話を、少し離れた場所でこっそりと聞いていた。  私たちのクラスは、給食中、好きな場所で好きな人と一緒に食べていいことになっていた。森さんと新見さんは二人仲良しで、よく二人一緒に給食を食べていた。  他にも、二人組で食べている人や、大人数のグループで食べている人もいて、まちまちだった。私のように一人で食べている人は、クラスの中には数人しかいない。  私はこの給食の時間が嫌いだ。    私は一人で給食を食べてるのは、クラスのみんなから嫌われているわけではない。ただ、ちょっと私は友達を作るのが苦手なのだ。  一度友達に呼ばれて一緒に給食を食べることがあっても、次の日もそのグループに参加していいか迷ってしまう。会話に上手く入れないし、私がいることでそのグループ内の雰囲気が壊れてしまう気がする。結局、私は一人で給食を食べることにする。  口裂け女の噂をしてた、森さんと新見さんの会話に私は耳を傾けていた。怖いんだけど、気になって仕方がなかった。  「口裂け女はマスクした状態で『私、綺麗?』って、まず訊いてくるらしいよ。綺麗な女の人だから『綺麗』と答えると、今度はマスクを外して裂けた口を見せて『これでも?』って訊いてくるのよ」  森さんが新見さんに口裂け女の説明していた。私は給食を食べるのも忘れ、箸を止めて森さんの説明を聞き入った。  「優美ちゃんも知りたい?」  森さんが急に私に話し掛けてきた。私がすぐそばで聞き耳を立ててるのに気が付いたようだ。  私は恥ずかしくなり耳が熱くなった。  「こっちに机くっつければ?」と新見さんも言ってくれた。  私は少し迷ったが、頭を縦に頷いた。そして二人のほうに机をくっつけた。  「『これでも?』と口裂け女がマスクを外して訊いてきて、『怖い』とか『気持ち悪い』って答えたら、口裂け女はキレて『お前も同じようにしてやる』って襲ってくるらしいのよ」    私は思わず自分の頬に手を当てる。口が裂けてないか確かめた。    森さんは口裂け女の説明を続けた。  「でもマスクを外し裂けた口を見て、『綺麗』と答えても、『だったら、お前も同じようにしてやる』って襲ってくるらしいよ」  理不尽だ。どう答えても襲ってくる。私は自分の口が裂けるところを想像して身震いした。  しかも今日の給食はオムレツ。ケチャップが血を連想させた。最悪だ。  「じゃあ、どうやっても口を裂かれちゃうわけ?」  新見さんは森さんに問いかけた。  「ううん。助かる方法もあるの。マスクを外し『これでも?』と訊いてきたとき、『普通』って答えたらいいらしいよ」  なんでも『普通』という答えが口裂け女としては予想外な答えで、意表を突かれて何もせずに帰って行くらしい。  私は、へぇーそんなことで口裂け女から回避できるんだ、と予想外の答えに拍子抜けした。これなら、大して怖がる必要もないと安心した。    「赤いワンピースを着てるらしいけど、元々は白だったのが血で赤く染まったらしいよ」  「ハイヒール履いているけど、走るのがすごく速く、逃げられないらしいよ」  森さんはその他にも口裂け女の噂を教えてくれた。  その日の帰り道、私は給食の時間のことを思い返していた。  しかし森さん、よく口裂け女の話しながら平気でオムレツ食べてたよなぁ。私なんて、ケチャップが血に思えてケチャップ全部避けて食べたもん。私が気にしすぎなのかなぁ?  それにしても明日から給食どうしよう?森さんと新見さんと一緒に食べなくちゃいけないのかな?でも呼ばれたの今日だけかもしれないし。明日、呼ばれてないのに机付けたら変だよなぁ。  それと名前。森さんは私のことを優美ちゃんって呼んでくれたけど、私も下の名前で呼んだほうがいいのかな?でも急に下の名前で呼ぶのも変かな?みんなはどれくらい仲良くなったら下の名前で呼ぶのかな?そもそも、下の名前で呼ぶ人と名字で呼ぶ人をどう区別してるんだろう?  私は明日の給食のことを考えるとため息が出た。    「ただいま」  私は玄関のドアを開け、家の中に向かって言った。  「おかえり」  家の中からおばあちゃんの声が聞こえた。  私は家の中に入り、おばあちゃんのいる部屋に入った。  「今日、学校はどうだった?」  おばあちゃんは、私の顔をみるなり訊いてきた。おばあちゃんは、私が学校から帰るなり挨拶のように毎日訊いてくる。  「普通」と私は答えた。    「優美ちゃん、これから塾かい?何かおやつ食べてから行かい?」とおばあちゃんは私に訊いた。  「いい。塾から帰ってから食べる」と私は言った。  私は自分の部屋に戻りランドセルを置き、塾の準備をした。  「いってきます」  私は玄関先でおばあちゃんに向かって言った。おばあちゃんは玄関まで来なかったけど、部屋の中から「いってらっしゃい」と声を掛けてくれた。  私の成績はクラスで真ん中ほど。勉強で落ちこぼれたくないけど、だけど頑張って一番になりたいとも思わない。普通の学力でいい。それでも塾に行く理由は、みんな何かしら習い事をしているから。  スポーツだったり、音楽だったり、習字だったり。私はこれといってしたいものもないので、だから塾に行く。  塾で一時間半ほど勉強した。家に帰るときには日は傾き、空は夕暮れに染まっていた。    塾の通り道に公園がある。この公園を通り抜けるほうが近道だ。  塾に行くときには、幼稚園くらいの子供と母親が数組遊んでいたが、帰りのときは公園には誰もいなくなっていた。砂場に、子供用のおもちゃのスコップとバケツが忘れられ残されていた。  「ただいま」  私は学校から帰ってきたときと同じように、家の中に向かって言った。今度は、おばあちゃんは玄関先まで出てきた。  「おかえり」とおばあちゃんは私に言った。そして「おばあちゃんこれで帰るけど大丈夫かい?」と訊いた。  私は、「うん」と答えた。  「お菓子はいつもの棚に入っているし、晩御飯の用意は済ませてあるから、温めて食べるんだよ」  「うん」  「お父さんが帰るまで留守番できる?」  「大丈夫だよ」  おばあちゃんは不安そうな顔をしていたが、私が「心配しなくても大丈夫だよ」と言うと、玄関を出て帰って行った。私は玄関先でおばあちゃんに手を振った。  おばあちゃんは私の家に住んでいるわけではない。おばあちゃんは近所に住んでいて、私が学校から帰る時間に合わせて、私の家に居てくれる。  それには理由があって、私の両親は別居している。この家には、私とお父さんが住んでいる。お母さんは少し離れた街中のマンションに住んでいた。  私のお母さんは、私が小学校三年生のとき、この家を出て行った。    私が小学校一年生のとき、お母さんは仕事をするようになった。仕事を始めたばかりは、私が学校に行っている間だけ仕事に行っていた。しかし段々と仕事をする時間が長くなり、帰ってくるのも遅くなった。  そのことで、おばあちゃんとお母さんはよく喧嘩していた。おばあちゃんとお母さんは本当の親子なのに。    おばあちゃんは、私が学校に帰ってくるときには家に居なさい、とお母さんに言っていた。おばあちゃんとおかあさんの喧嘩は、段々と激しさを増した。お父さんは、お母さんとおばあちゃんの間に入ってアタフタしているだけだった。そんなお父さんの態度に、お母さんは愛想をつかし家から出て行ってしまった。  私は今、お父さんと一緒に元の家に住んでいる。お母さんは今ではバリバリのキャリアウーマンになり出張ばかりで、私と一緒に生活するのは難しい。だから私はお父さんと一緒に住み、私が学校から帰る時間には、近所にいるおばあちゃんが家に来て、私を出迎えてくれる。    夜の七時頃、お父さんは帰ってきた。大体、いつも同じ時間だ。  お父さんがお風呂に入っている間、私が晩御飯の準備をする。準備と言っても、おばあちゃんが作ってくれていたものをレンジでチンしたり、みそ汁を温め直すくらいだ。  お父さんはお風呂から出ると、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。プシュ、という音を立てて蓋を開け、缶のままビールを飲んだ。  「週末、お母さん仕事休みで、優美に会いたいらしぞ」  お父さんは野菜炒めを箸でつまみながら私に言った。  お父さんの言葉を聞いて頬が緩んだ。お母さんに会うのは楽しみだ。  私の締まりのない顔を見てお父さんはニヤついた。  「嬉しいのは分かるけど、おばあちゃんにはバレないように」とお父さんは私に注意した。  私はお父さんに本心を見抜かれたようで癪に障った。  「分かってるし」と言いながら顔を横に向け、お父さんから顔をそむけた。  別居はしているけど、今でもお父さんとお母さんの仲はそれほど悪くない。おばあちゃんとお母さんの仲だけが悪い。私がお母さんと会うのを知ると、おばあちゃんはあまりいい顔はしない。だから私が浮かれておばあちゃんにバレないように、っとお父さんは私に忠告したのだ。  食事が終わり、私は自分の部屋に戻った。食事の後片付けはお父さんの役目。  部屋に戻ると、ベッドの上に服を出す。週末、お母さんに会うときの服だ。以前、お母さんと会ったときに買ってもらった可愛い服。花柄のブラウスにフリルのスカート。  私は普段、学校に行くときはスカートなんて履かないしオシャレもしない。学校で汚れるのが嫌だからっていう理由もあるけど、それ以外にもある。それは、かわいい子がオシャレするのはいいが、私みたいな普通の子が学校でオシャレしてたら変に目立ってしまう。それが嫌なのだ。  私がオシャレするときは学校以外の場所。それもクラスのみんなに見られないような時だけ。お母さんと会うときが、その時だ。  私はベッドに置いた服をクローゼットにしまい、週末お母さんと会うのを楽しみにしながら寝た。  次の日、登校の時、学校に行く生徒の間で、口裂け女の話題でいっぱいだった。上級生も下級生もみんな口裂け女の話をしていた。そんな噂話を聞くたびに、昨日から続いていたウキウキ感が一気に萎んでいった。  教室に入るともっと凄かった。クラスメイトの一人が噂話の中心にいた。    中心にいたの長谷部さんだった。普段は私と同じように一人でいることが多い子だ。本が好きで、いつも休憩時間には誰とも話さず読書している。しかし今日はみんなの中心にいた。私もランドセルを自分の机に置き、その集まっている輪の一部に加わった。  「私のお姉ちゃんの友達が口裂け女を見たんだって」  長谷部さんはみんなに聞こえるように言うわけでもなく、独り言のように言っていた。いつもの長谷部さんの話し方と変わらない。淡々と話す長谷部さんの口調が、その話の信憑性を高めているように感じた。    「嘘だ。口裂け女なんて嘘だ」  クラスの男子一人が長谷部さんに問い詰めた。  そう、口裂け女なんていない。想像上のお化けだ。私だってそう思う。でも、ひょっとして、っと考えると怖くなる。    「嘘じゃない。お姉ちゃんは言っていたもん」  長谷部さんは言い返した。  男子と長谷部さんが、「嘘だ」「嘘じゃない」の言い合いがしばらく続いた。  そんなとき私の肩をつついた人がいた。振り返ると森さんだった。  森さんは、「長谷部さん、きっとみんなの注目を集めたくて嘘を言ってるのよ」と私の耳元に小声で言ってきた。  「えっ、そうなの?」と私も森さんだけに聞こえるように静かに返した。  「きっと、そうに違いないわよ」  このとき教室のドアが開く音がした。担任の佐伯先生が入ってきた。担任はヒステリックなおばさんで、クラスのみんなからはあまり好かれてない。  「騒がしいわね、席に着きなさい。いつも言ってるでしょ、五分前には席に着くことって」  長谷部さんまわりを囲っていた輪は散らばり、各々が自分の席に着いた。  今日の日直が号令をかける。「起立、気をつけ、礼、着席」。クラスのみんなは号令通りに動いた。  「はい、朝の会を始めます」。佐伯先生がいつもに増して怖い口調で話し出す。「最近、この学校で変な噂話が流行っているようですね。口裂け女なんていませんから、そんな噂話は今後しないように」  先生の強い口調に、生徒は誰も返事をしなかった。教室は静寂な空気に包まれていた。私はただ下を向いて、この重い空気が過ぎ去るのを待っていた。  「何ですか、長谷部さん」と先生が声を上げた。  私は顔を上げた。先生の顔を見て、それから先生の視線を辿(たど)り長谷部さんに行きついた。長谷部さんは手を上にあげていた。  長谷部さんは席を立つと、「先生、口裂け女を見た人がいます」とキッパリと発言した。  私は長谷部さんから再び先生のほうに目をやった。佐伯先生の表情がやや硬直していた。  「口裂け女なんて、いません」  先生の声はさっきより大きかった。  「見たっていう人がいます」  長谷部さんの口調で淡々として、さっきみんなに話しているときと変わらなかった。  佐伯先生の顔は赤くなり小刻み震えだした。  「だったら、ここに口裂け女を連れてきなさい」と先生が怒鳴る。長谷部さんは何も言い返せず黙り込んだ。  「いいですか。口裂け女なんて実際にはいません。変な噂話は止めるように。あなた達、上級生が噂することで下級生が怖がっています。これからは口裂け女の話をすることを禁止します」  クラスのみんなはまだ黙っていた。「分かりましたか?」と先生は言いながら、バンっと出席簿で机を叩いた。みんなで「はい」と返事をした。  そして佐伯先生は何事も無かったように出欠を取った。  その日、みんなは口裂け女の話はしなかった。  そして給食の時間、私は一人で給食を食べた。森さんからも新見さんからも一緒に食べようと誘われなかったし、自分から二人の仲に入るのは図々しいと思ったから。  給食の時間も誰も口裂け女の話はしなかった。    ただ、下校途中は違った。学校内で話せない分、みんながみんな、口裂け女の話をしていた。私は一人で帰っていたので、みんなが話す噂話に聞き耳を立てて聞いていた。  先生は『口裂け女はいない』と言い、長谷部さんは『いる』と言う。  私は知りたかった。もし口裂け女がいたのなら、口裂け女から逃げる方法を。長谷部さんのお姉さんの友達は口裂け女に会ったのなら、どうやって逃げられたのだろう?    それから週末まで、口裂け女の噂は学校内では聞かなくなった。しかし登校中や下校中は、いろんなところで噂話が飛び交っていた。  週末、私は花柄のブラウスにフリルのスカートを着てお母さんと会っていた。お母さんは「その服、似合ってるね」と褒めてくれた。    午前中は映画館で映画見て、ランチして、午後からはデパートで買い物をした。また新し服を買ってもらった。普段学校ではお洒落な服を着て行かないので、「何着もお洒落な服はいらない」と断ったけど、お母さんが「遠慮しないで」と言うので。  そしてそのあと、お母さんのマンションに行き、今日はお泊り。久しぶりのお母さんの手料理。  「ねぇ、学校はどう?」  「うん、普通」    「普通って何?何か楽しいことないの?」  お母さんは箸を置いて食事を中断して訊いてきた。  「えー、だって何もないもん。普通だよ。おばあちゃんも毎日毎日、学校から帰るたびに訊いてくるけど、特に何もないもん」。私にとっては、うんざりする質問だったので、ちょっと反抗的に答えた。  お母さんは何か懐かしそうに「お母さん、変わらないなぁ」と呟いた。「私も毎日、学校から帰ってくると訊かれたなぁ、『学校どうだった?』って」  おばあちゃんは、お母さんにも『学校どうだった?』って、訊いていたんだ。おばあちゃんの口癖みたいなものなんだ、と私は思った。  「じゃあ、学校で好きな時間は?」。お母さんはまた私に質問する。  「別にない」  「じゃあ、逆に嫌いな時間は?」  私は給食時間のことを考えた。一緒に食べる人がいないこと嫌。いや、一人で食べるのが寂しいわけではない。どこかのグループに入らなくちゃいけないような気にさせられる。けど図々しく仲に入ることができない。そういうことを考えるのが面倒臭くて給食時間が嫌だ。    でも、そんなことお母さんに言うと、友達がいないみたいに思われるから、私はお母さんの質問に「別にない」と答えた。  お母さんは「ふーん」と言い、箸を持ち再びご飯を食べ始めた。  「優美、大きくなったら何になりたいの?」  私は大人になったら、お母さんのようになりたいと思っていた。楽しそうに仕事の話をするお母さんに憧れていた。でもお母さんの目の前で、「お母さんのようになりたい」とは恥ずかしくて口に出せない。私はお母さんの質問に「まだ決まってない」と答えた。  「だったら、まず自分が何をすると楽しいか?を見つけなさい。その先にきっと、なりたいもの、があるから」    私は頷いた。  でも私はお母さんの言葉をきちんと理解していなかった。お母さんは、私が小学生になってから働きだしたんだから、私も大人になれば、お母さんのように働けると思っていた。  次の日、もう一日、お母さんと一緒に出掛けた。水族館に行き遊んだ。  そして夕方になると、お母さんは私の家まで送ってくれた。「また一緒に出掛けようね」と言って私を抱きしめくれた。  月曜日、登校中、やはりこの日も口裂け女の噂をしている子が多かった。  私はお母さんの一緒にいたときとは違い、汚れてもいい普通の服、いや普通より地味で柄の無い服で登校していた。    登校中の通学路で私は長谷部さんに会った。私から挨拶をした。  「長谷部さん、おはよう」  私の挨拶に気づき、長谷部さんは私のほうを向く。  「平野さん、おはよう」と長谷部さんも挨拶を返してくれた。  長谷部さんは私と一緒で、いつも一人でいることが多い。この日も長谷部さんは一人で登校していた。  しかも口裂け女の件でクラスの多くから嘘つきだと陰口を言われ、一層孤立しているように私には見えた。  いつもの私なら挨拶だけして済ますのに、思い切って長谷部さんに声をかけた。聞きたいこともあったので。  「ねぇ、長谷部さんは口裂け女がいるって思ってるんでしょ?」と私は長谷部さんの隣で歩きながら訊いた。    私の質問に驚いたのか、私が話し掛けたのに驚いたのか、長谷部さんは覗き込むように私の顔を見つめていた。  そしてしばらくして「さあ?」と長谷部さんは答えた。  私は長谷部さんの答えに驚いた。だって、あんなにクラスの男子にも先生にも言い返していたのに。  「いる、と思っているから、先生にも言い返したんじゃないの?」  「私は、口裂け女を見た人がいる、って言っただけだよ」  長谷部さんの表情を変えず淡々と答えていた。    私は長谷部さんの答えに困惑していた。『見た人がいる』ていう意見なんだから、それは『いる』と同じ意見なのでは?と思った。  まあ、そんなことはどうでも良かった。私が知りたいことを長谷部さんに訊かないと、と思い、話を次に進める。  「お姉ちゃんの友達が見たんだよね。そのとき、どうやって口裂け女から逃げてきたの?」と私は訊いた。  私は口裂け女から逃げる情報を知りたかった。  私の質問を聞いて、長谷部さんはまた私の顔を覗き込むようにして見た。  そしてしばらくして、「平野さんは、口裂け女がいると思っているの?」と長谷部さんは、私の質問を質問で返してきた。  私は咄嗟に、「口裂け女なんて、いないでしょ」と答えてしまった。  『いない』というより、『いてほしくない』というのが、私の本心だった。  「いないと思っているのに、なんで口裂け女から逃げる方法を訊くの?」と長谷部さんは訊いてきた。  私は自分の矛盾に気が付く。私は恥ずかしくなり、耳が熱くなる。  「念のためよ、念のため」と声のボリュームを大きくして誤魔化す。  長谷部さんは私の態度を見て、急に笑い出す。  「平野さんって、意外と面白いのね」と言って、また笑う。長谷部さんは、笑ってながら「走って逃げたんじゃないの?」と適当な感じで私の質問に答えた。  長谷部さんの適当な答えに苛立ち、言葉遣い荒く返した。  「口裂け女は、足が速く、逃げられないんだから」  「へぇー、そうなの?」  長谷部さんは、感心なさそうに答える。  私は給食時間に森さんから聞いた口裂け女の噂を長谷部さんにしてあげた。  口裂け女には、『普通』と答えたら意表を突けて逃げれる話だ。それを聞いた長谷部さんの反応はいまいちだった。  「『普通』って答えるだけで、意表が突けるのかな?なんか嘘っぽい」    『嘘っぽい』と言われたことで、私が嘘を言っているみたいで嫌な気分になった。  「じゃあ、どうやったら逃げれるわけ?」と私は言い返す。  「平野さん。口裂け女、信じてないんでしょ?なんでそんなに逃げることに必死なの?」  長谷部さんは、そう言うとクスクス笑った。  私は今度は耳だけでなく顔まで熱くなった。恥ずかしいのやら、悔しいのやら。  「バカにしないでちょうだい」と私は怒った。  しばらくして長谷部さんは笑いを堪えた。  「ごめんなさい。バカにしてるつもりはないんだけど、つい思ったことをすぐ言っちゃう性格だから」  そう言うと長谷部さんは一つため息を吐く。「直したいんだけどね」と独り言のように呟く。  その後、長谷部さんはお姉さんから聞いた口裂け女の情報を教えてくれた。  長谷部さん曰く、お姉ちゃんの友達というのは、口裂け女をスーパーマーケットの裏の倉庫付近で見かけたという。夕方の遊んで帰ろうとしたとき、近道だからといってスーパーマーケットの駐車場を横切り、その裏手にある倉庫でばったり出くわしたという。  ここまでしか情報は無かった。どうやって逃げたのか?そのお姉ちゃんの友達は無事なのか?そういうところまでは聞かなかったそうだ。  「お姉ちゃんに頼んでみる。友達がどうやって逃げれたのか?教えてもらてきてって」  そう長谷部さんは言うと、私に手を合わせ「ごめんね」と言って、「笑ったの、悪気があったわけじゃないから」と付け足した。  口裂け女の話をし終わると、ちょうど私たちは学校に着いた。  学校生活はいつもと変りない日常だった。私も一人で過ごしていたし、長谷部さんも一人でいて、ほとんどの時間読書していた。たまにクラスの数人の男子が長谷部さんを嘘つき呼ばわりし、からかっていた。長谷部さんはそんな男子には反応せず、無視をしていた。  私たちはその日、お互いに話し掛けることもなかった。もちろん二人とも、一人で給食を食べていた。  「ただいま」  「おかえり」  おばあちゃんの声が聞こえた。  「今日は学校どうだった?」。私の顔を見るなり、おばあちゃんはいつもの質問をした。  「普通だったよ」。私もいつものように答えた。  おばあちゃんとの会話もほどほどに再び家を出た。今日も塾がある。  私は塾で勉強し終え、いつものよう通り道である公園を横切ろうとした。やはり塾の帰りの公園には誰もいなかった。  私が公園に入ったとき風が急に強くなった。木の葉っぱがカサカサと音を立てて騒ぎ出した。夕日を雲が隠し、あたりが一層暗くなった。私は一瞬、寒気を覚えた。  「ねぇ、私、綺麗?」    私の後ろから声が聞こえた。耳元に(ささや)くような声だった。    私は後ろを振り返る。ピンク色のドレスを着た女性が立っていた。スタイルが良くて、髪は茶髪で長く少しウェーブが掛っていた。綺麗な茶髪が少し風になびいていた。女性の目は微笑んでいるようにも見えた。そして顔の下半分はマスクで覆われていた。  えっ、これって口裂け女のセリフだよね。でもドレスは赤でなくピンクだし、髪型も噂の黒髪のストレートと違う。でもマスクをしている。  私の心臓の鼓動は急激に早くなった。  「ねぇ、私、綺麗?」。そのピンクのドレスの女性はもう一度私に訊いた。    私は固まる。身体の自由がきかない。喉も上手く振動せられず声も発せられない。私は頭だけで微かに動かし頷いた。  「じゃあ、これでも?」  女性は顔の下半分を覆っていたマスクを外した。口は大きく裂け、口の両端は耳元のすぐそばまで来ていた。そして女性は口元をニヤリと開き、「ねぇ、綺麗?」と再び訊いてきた。耳元まである口が開く。  私は身震いした。首元に氷を付けられたような悪寒がした。私は早くこの場から逃げたかった。あの言葉を早く言わなければ、と焦っていた。指に力を込め握りしめた。そして喉元に意識を向けた。    「ふ……ふ、普通」  私は喉を絞りながら声を出す。これで逃げれる。  「こんなに綺麗な私が普通だと?」  口裂け女の口調は怒りに満ちていた。そして目が吊り上がっていた。  私は体が硬直し身動きが取れない。  「『普通』なんて言葉、私の一番嫌いな言葉なのよ」  口裂け女の口は大きく広がった。    私の股に温もりを感じた。そして目の前が真っ黒になった。  ……頬が痛い。    「ちょっと、あんた。ちょっと、あんた。起きなさい」  目の前にマスクをした口裂け女が。そして私の頬を叩いている。  「やっと目が覚めた?」  私は公園のベンチに寝かされていた。そして私を覗き込むように口裂け女が見ていた。私は何が起きているのか分からなかった。  「あんた大丈夫?もう、いきなり気を失うなんて、こっちがびっくりするじゃない」  口裂け女はそう言いい、私の頬を叩くのを止めた。  「起きれる?」    口裂け女は私の手を引っ張り、寝ている私を起こしベンチに座らせた。口裂け女の手は冷水のように冷たかった。  「ねぇ、なんで『普通』て言ったの?こんなに綺麗な私を」  口裂け女は私の隣に座りながらそう言った。  私はこのとき不思議と逃げようとは思わなかった。口裂け女に対して恐怖心は残っていたのに。っていうか、体の力が上手く入らない、なんだか寝ぼけているような感覚だった。  「私、綺麗でしょ?」と口裂け女は言う。  私は口裂け女をじっくり見る。  ()りが深く美しい顔立ちをしている人だった。私は思わず「綺麗」と答えた。このとき、口裂け女はマスクをしていたし、それに頭がボーっとしていたので、自分の口が裂かれるという噂は忘れていた。  「そうでしょ、そうでしょ」  口裂け女は満足そうな口ぶりで言う。  「ねぇ、どうして私の顔を見て、普通って答えたの?」  口裂け女はもう一度、私に訊き直す。  「『普通』って答えたら、口裂け女から逃げれるっていう噂が……」  私は放心状態で答えた。  「まったく、そんな噂、誰が広めたのかしら。第一、口裂け女だっていろいろいるのに」  口裂け女は独り言のように呟く。  「いろいろ?」  口裂け女の言葉が気になった。  「口裂け女だっていろいろいるわよ」と口裂け女は当然のように答えた。そして口裂け女について説明しだした。  「昔は日本中に噂が広まっていたのよ。噂が大きくなるにつれ、口裂け女の数も増えるの。だから当時は、日本のあちらこちらに口裂け女がいたわ。今ではこうして噂になったら、たまに出没するぐらいなもんだけど」  口裂け女は、思いをふけるように遠くを眺めた。  「しかし、あなたほど驚く子は初めてよ。なにせ気は失うは、おしっこはもらすは」  そう言いながら、口裂け女は私の股に目線をやりニヤリと笑った。  私は自分の股に手をやった。股はぐっしょりと濡れていた。私は急に意識がはっきりとしてきた。そして失禁したことに、恥ずかしいやら情けないやら。それらが恐怖心と混ざり合って、急に涙が出てきた。  「泣くことはないじゃない。まったく」。口裂け女は呆れるように言った。「それよりあなた、これからは『普通』なんて言葉、言うんじゃないわよ。私の嫌いな言葉なんだから」    口裂け女はそれを言うと、ベンチから立ち上がり、その場を去って行った。いや、去って行った、というより幻のように消えてしまった。  私はもう一度、股に手をやる。やはりそこは濡れていた。今まで起きたことは幻じゃないと改めて気づく。  私は誰もいなくなった公園は離れ、家に帰る。帰り道、誰にも会わないよう注意した。股が濡れているのを見られたくなかった。  家に帰ってからも、こっそり家の中に入り、すぐさま着替えを持って風呂に入った。そして濡れてる服は洗濯機に入れ回した。  「あれ?帰ってきてたの?」  私がお風呂に入っているとき、おばあちゃんが話し掛けてきた。きっと洗濯機の音で気づかれたのだろう。  「なんでお風呂に入ってるんだい?それに洗濯も」  「塾から帰ってくるとき雨降ってた」  私はおばあちゃんに嘘を吐いた。おばあちゃんに口裂け女の話をすると、きっと話がややこしくなるような気がした。それに、おしっこを漏らしたのがバレるのも嫌だった。  「えっ、そうなの?おじいちゃん、洗濯物干したの取り込んでくれたかしら?おばあちゃん、もう帰るけど、大丈夫?」  「大丈夫だよ」  次の日、学校で私は口裂け女の話をしなかった。もちろん学校内で口裂け女の話は禁止だからという理由もある。でも、例え、口裂け女の話を話せたとしても、私の話を信じてくれる人はほとんどいないと思う。それに長谷部さんみたいに嘘つき呼ばれされても嫌だった。    それに口裂け女を探されても困る。私がおしっこを漏らしたことをクラスのみんなにバラされても嫌だし。    だから私は学校でいつも通り過ごした。登校も一人で行き、給食も一人で食べ、休憩時間も一人でいた。口裂け女の話は秘密にしようと思った。しかし下校時に一人から声を掛けられた。  「平野さん、一緒に帰ろう」  そう言ってきたのは長谷部さんだった。  長谷部さんから声を掛けてくるなんて珍しい、と私は思った。でも断る理由もないので一緒に帰ることにした。  「口裂け女のことなんだけど」と長谷部さんは唐突に話し出した。  私は昨日のことを思い出し、顔が強張った。  長谷部さんは私が口裂け女に会ったことを知っているの?だったら、おしっこを漏らしたことも?  「走って逃げた、らしいわよ」と長谷部さんは唐突に言う。    私は長谷部さんが何のことを言っているのか理解できなかった。顔は強張ったまま返事もせず、ただ長谷部さんの顔を見た。  「だから、お姉ちゃんに聞いてきてもらったの。お姉ちゃんの友達がどうやって口裂け女から逃げたのか?平野さん知りたがっていたでしょ?逃れる方法を」  私はやっと長谷部さんが言わんとしていることを把握した。でも、その情報、遅いし。昨日、口裂け女に会ったし。『普通』って言って、めちゃめちゃキレられたし。おしっこ……。もう、走って逃げれるなら逃げれるって、もっと先に聞いておいてよ。  私は心の中で悪態を吐いていた。  「『普通』なんて言っても不意なんて突けないのよ。普通に走って逃げればいいのよ」と長谷部さんは物知り顔で言った。  私はやりきれない気持ちになりため息を吐く。  「あれ?あれだけ知りたそうにしてたのに、興味なかった?」と長谷部さんは私に訊く。  私は会話するのが億劫になり、「貴重な情報、ありがとう」と嫌味みたいな言葉を言った。  「私、口裂け女、探そうと思うんだ」  長谷部さんは唐突に私に言った。  「えっ、何て言ったの?」  私は長谷部さんの言葉は聞こえたが、もう一度確かめるため聞き直した。  「口裂け女を探そうと思う」  「えっ、どうして?」  私は口裂け女を探されたら困る。口裂け女の口から、私が漏らしたことがバレることは阻止しないと。  「私、クラスの一部から、嘘吐きって言われているの知っているでしょ。別に私は人から嫌われてもなんとも思わないんだけど、でも嘘吐き呼ばわりは許せない。私は口裂け女が、いるか、いないか、なんて言ってない。ただ、お姉ちゃんの友達が見た、って言っただけ。それなのに嘘吐き呼ばわりよ。だったら見つけてやろうか、と決心したわけ」  長谷部さんの顔は真剣だった。  私は、どうにか止めさせないと思った。  「いや、止めたほうがいいわよ、危ないし。お姉ちゃんの友達はたまたま逃げれただけかもしれないじゃん。それに長谷部さん、足、速くないじゃん。だから、止めときなよ」  私も長谷部さんに負けないくらい真剣に言った。  長谷部さんは真剣な顔を急に(ほころ)ばす。  「プププププッ」  長谷部さんは急に変な笑い方で笑いだす。  「やっぱり平野さんって面白い人だよね。口裂け女のこと信じてないって言っておきながら、存在を確信しているような口調で話すんだもん」  そう言うと、また長谷部さんは笑いだす。  ちょうど、ここで分かれ道が来た。私と長谷部さんはここからは別々の方向。長谷部さんは「じゃあね」と言って手を振って離れて行った。  私は一人になると、『マズいな。長谷部さんが口裂け女を見つけられなければいいのに』と思うながら家に帰った。  「ただいま」  「今日、学校どうだった?」    家に帰ると、いつも通りおばあちゃんに質問された。  「ふ……」    私は『普通』と答えようと思った。別に今日学校で何も変わったこともなかったので。  しかし、『普通』と言う言葉を口にしようとした瞬間、頭の中で口裂け女の声が響く。そして口裂け女の姿が思い浮かんだ。  そういえば、『普通』っていう言葉は禁句。  「ふ……普段より楽しかった」  私は焦りながらも言った。  「そうなの?」。おばあちゃんは驚いたような表情をした。しかしその後すぐに顔を緩ませ、嬉しそうに「どんなことがあったの?」と訊いてきた。  私はさらに焦った。今日は別に楽しいこともない、いつもと変わらない普通の日。私は何か楽しかったことはないか?と考え、頭を回す。  「帰り道、楽しかった」  「どんなことがあったんだい?」  「えーっと、友達と一緒に帰ったんだけど、その友達がお化けを見たいんだって」  「その友達、変な友達だね」  おばあちゃんは、そう言うと嬉しそうに笑った。  上手く誤魔化せたと思う。焦って、多少の嘘もあるが、おばあちゃんが笑ってくれたことは嬉しかった。  それから私の学校生活は変わり始めた。   『普通』という言葉が使えない。おばあちゃんに毎日嘘を吐くわけにもいかない。だから私は学校での生活を今までと違う行動をしなければいけなくなった。そして行動を変えるのに一番簡単なのが給食時間だった。私はいつも一人で食べていた給食を誰かと食べるようにした。  いきなり私が「一緒に食べてもいい?」と訊くと、言われたグループはビックリ驚いた顔をする。なにせ、いつも私は一人で食べていたのだから。でも嫌がられることもなく、すんなり一緒に食べてくれた。私は、図々しいと思われるんじゃないかと思っていたが、そんなことは取り越し苦労だった。    私は給食のとき、仲間に入るグループをコロコロ変えた。そのほうが、よりおばあちゃんに話す話題が作れたから。  森さんと新見さんの二人組とも一緒に食べた。男性のアイドルグループの話題になり、新見さんはそのアイドルグループの一人のファンだった。そのアイドルがクラスメイトの中川君に似ていたので、私はそう言うとと新見さんは顔を赤くした。  学級委員長の並木さんとも一緒に食べた。並木さんは可愛くて、頭も良くて、性格も良いい。クラスで人気がある女生徒だった。  私が一緒に食べたときは、並木さんの他にも四人ほどいた。このときは洋服の話題で盛り上がっていた。並木さんが、あるブランドの服の話をした。私もそのブランドを持っていたので、「そこのブラウスかわいいよね」と言った。そうすると、みんなが驚いた顔をした。その中の一人が「平野さん、地味な服ばかり着てるから洋服に興味ないかと思った」と言っていた。  長谷部さんとも一緒に食べた。長谷部さんはいつも一人で食べてるので、一緒に食べよ、と言いにくかったけど、勇気を出して言った。長谷部さんは表情を変えることなく、「いいよ」と言って承諾してくれた。長谷部さんは何も喋らず黙々と給食を食べていたので、私は話すきっかけになる話題を探した。  「長谷部さんっていつも本読んでいるけど、どんな本読むの?」  「いろんなジャンル読むよ。今はこれ」    そう言って、机の中からこっそり本の表紙を見せてくれた。都市伝説の本だった。改めて、長谷部さんは口裂け女を探してるんだっと思った。  給食の後、森さんと新見さんが私のところに来た。長谷部さんは嘘吐きだから気を付けて、と忠告してきた。きっと口裂け女の件でそう言うのだろう。私は、本当に口裂け女はいるのに、と心の中では思った。でも私は長谷部さんを(かば)うことはせず、ただ黙ったまま頷いた。  給食のときに誰かと一緒に食べることで、おばあちゃんに話す話題がができて良かった。  それに「一緒に食べよう」と私が言っても、誰も嫌がることなく受け入れてくれた。私はもっとウザがられると思っていたけど、気にしすぎのようだった。  私は学校からの帰り道、今日あった給食のことを思い返していた。今日の話は、おばあちゃんも聞いたら笑ってくれるはず。そう思いながら、私は足取り軽く歩いていた。  「ねぇ、私、綺麗?」  聞いたことのある声が聞こえてきた。そして電柱の陰から急に人影が。スルッとマスクをした美しい人が現れた。口裂け女だった。  私は周りを見渡す。周りには私以外、誰もいなかった。私は逃げようかとも思った。長谷部さんから、走って逃げれるという情報を得ていたので。でも私は逃げなかった。私は口裂け女に言わなければいけないことがある。  「ねぇ、綺麗?」と口裂け女は言う。  今日の口裂け女の服装はパンツスタイルで、上はジージャンだった。スタイルが良いので、本当に格好良かった。  「綺麗」と私は答える。  「これでも綺麗?」と口裂け女はマスクを外す。口は耳元とまで裂けていて、やはり薄気味が悪い。  私は体中が硬直する。でも目をつぶって「綺麗」と答えた。  「そうでしょう。そうでしょう」  口裂け女の嬉しそうな声が聞こえた。  私はそっと目を開ける。口裂け女は満足そうに、またマスクをつける。マスクを付けてくれると、怖さも、ひとまず収まる。ずっとマスクを付けていればいいのに、と私は内心思う。  「あなたも、私のように美しくなりたいでしょ?」と口裂け女は言った。    私は自分の耳を疑う。口裂け女のようにされる?やっぱり噂を本当だった。口が裂けている姿を見ても「綺麗」と答えたら、口裂け女と同じように口を裂かれてしまう。  私は思わず両手で口を押える。  「あなた、私の言いつけ通り、『普通』という言葉を使わなかったわね」    私は口を押えたまま頷く。決して約束は破ってません、と伝えたかった。  「そんなに私に認められたかったのね。いいわ、認めてあげる。今日からあなたは私の弟子よ」  口裂け女の弟子?私は頭がくらくらした。そして目の前が真っ暗になった。  ……頬が痛い。    「ちょっと、あんた。ちょっと、あんた。起きなさい」  目の前にマスクをした口裂け女が。そして私の頬を叩いている。  「やっと目が覚めた?」  私は道路の隅に寝かされていた。そして私を覗き込むように口裂け女が見ていた。私は何が起きているのか分からなかった。  「あんた大丈夫?もう、いきなり気を失うなんて、これで二度目よ」  口裂け女はそう言いい、私の頬を叩くのを止めた。  「起きれる?」    口裂け女は私の手を引っ張り、寝ている私を起こした。口裂け女の手はやはり冷たかった。  「なんで、また倒れるのよ」と口裂け女は呆れるように言う。  「口を押えていたら鼻まで押さえていて、そしたら息ができなくて……」  「それで倒れたの?」  口裂け女は一瞬固まり、それから腹を抱えながら笑っていた。「あなたアホね」と言って。  口裂け女の笑う姿を見ていると、次第に意識がはっきりしてきた。私は自分の口が気になって、両手で自分の口元を触って確認した。別に異常はなかった。口を裂かれてなかった。  ホッとしたのも束の間、私はもう一つの心配事を見つけた。私は自分の股に手を当てる。濡れてない。今回は漏らしてなかった。良かった。  「あなた、私が口を裂くとでも思った?」と口裂け女は訊いてきた。  私は恐る恐る頷く。  「バカね、そんなこと私はしないわよ。この口は私のチャームポイントよ。みんなが同じ口になったら、私だけのチャームポイントにならないじゃない」  そう言うと口裂け女はマスクを外す。そして裂けている口が微妙に開く。  チャームポイント?ただ、おぞましいだけなんですけど、と私は心の中で叫ぶ。  「そんなことより、あなた、私のように美しくなりたいんでしょ?教えてあげる」  口裂け女は、腰に手を当てて胸を張っていた。  何が、どうなって、そういう話になってしまったのか理解できない。でもここで断ったら、もっと危険なことが起きそうで、私は頷く他なかった。  「よし、あなは今日から私の弟子よ。私のことを師匠と呼びなさい」  「し、し、師匠?」  今日から私は口裂け女の弟子となった。  口裂け女を『師匠』と言うのは、なんだか不思議な感覚だ。正直、見習いたくない。  「ところで、あなたの名前は?」  「平野優美」  私は名前を誤魔化そうかと一瞬思ったが、でも嘘がバレたとき、とんでもなく怖い目に会いそうなので、本名を言った  「じゃあ、今から特訓よ」と師匠は言う。「美しくなる方法で一番の基礎は、何だと思う?」  「やっぱり見た目?」と私は答えた。  「そう、見た目が大事。じゃあ見た目を良くするためには、どうすればいいと思う?」  見た目を良くするには?そんなの生まれつき決まるものでしょ、と私は思った。自分の努力では、どうしようもない。  「整形手術ですか?」  「アホ」  師匠は大声で怒鳴った。私の体は硬直する。  「美しくなるために整形しましょう、って小学生に教える師匠なんていると思うの?」。師匠は呆れて首を担げる。「いい、見た目を美しくするには、笑顔。笑顔が大事なの」  師匠の答えを聞いて、今度は私が呆れて首を担げた。  「えー、笑顔で美しくなれるのは、もともと可愛い子だけでしょ。私なんかが笑顔になっても……」  「そんなことないわ。笑顔は誰しもを美しくする究極の技よ。基本にして究極、それが笑顔。さあ、笑顔になってみなさい」  「楽しくもないのに、笑顔なんてできないよ」  「何言ってるの。笑顔になるから楽しいのよ」  「えー、そんなことないよ」  「黙らっしゃい」  師匠は一喝する。私はまたも体を硬直させる。怖いんだから口答えは止めよう、と思った。  「いい、見本を見せてあげるから、あなたも真似してみなさい」  師匠はマスクを外す。口は耳元まで裂けている。師匠の口が半開きになる。  口を閉じていれば、まだ平気だが、口が開き、口の端までが広がっるのが、もう薄気味悪い。直視できない。  「どう?私の笑顔」と師匠は言った。  私は驚く。その口元まで開いているのが笑顔?私を恐れさそうとしているんじゃないの?前回の師匠に会ったときも、あれ、ひょっとして笑顔だったの?  「これが美しいくなるための基本であり究極よ。ねぇ、私、綺麗?」  私は頷く。師匠には早く笑顔を止めてほしかった。その開いている口を、きちんと閉じて。そう思いながら、私は「き、綺麗です」と答える。  師匠は満足した表情で再びマスクを付ける。私はマスク姿にホッとする。  「さあ、優美もやってみなさい」  私は師匠に言われたように私は笑顔の練習をする。  「なに、そのぎこちない笑顔は。もっと、にっこりできないの?」  私は、もう少し笑ってみる。  「本当に下手ね。もう一度、見本を見せてあげるわ」  「師匠、待って。本気でやります」  私は師匠がマスクを取ろうとするところを何とか阻止した。そしてできるだけ満面の笑顔作った。  「うーん、まあまあね。ぎりぎり合格にしてあげるわ。いい今日から、その顔を意識して作りなさい。いずれ自然と身に付くまで」  私は笑顔のまま頷く。  「じゃあ、今日の修行はここまでね」と師匠は言った。  私はここで師匠に伝えないといけないことを思い出した。  「師匠、私の友達が、師匠のことを探してるんです」  「えっ、私を探してる?なんで?」  「口裂け女がいるかどうか調べているんです」  「へぇー、変わった子もいるのね」  「それで、もしその子に会っても、あの件のことは言わずにいてもらいたいんです」    「あの件?」  もう、自分の口から言いたくないのに察してよ。「私が漏らしたこと……」と私は小声で言った。  師匠はそれを聞いて笑った。  「はいはい、そういうことがあったわね。分かったわ、秘密にしておいてあげる」。そして続けて「でも、会おうと思って、会えるわけじゃないけどね」と付け加えた。  私は師匠の言ってる意味が分からなかった。だって私の目の前には師匠、いや口裂け女がいるのだから。  「会おうと思って、会えるわけじゃない?」と私は聞き返す。  「そうよ。所詮、人間なんて自分が信じていることを信じている通りに見ているのよ。例えそれが現実だろうが、幻だろうが」  「どういう意味ですか?」  「私が目の前にいても、私の存在を信じていない人には、私が見えないってことよ」  私は師匠の言っている意味がいまいち理解できない。  「でも私の目の前に師匠がいますよね」と私は確認する。  「それは口裂け女の存在をあなたが信じたからでしょ」  「師匠と会うまで、信じてませんでしたよ」  「でも口裂け女を怖がっていたでしょ?それって信じてる証拠でしょ」    確かにそのことで長谷部さんに笑われた。信じてない口裂け女からの逃げ方をしつこく聞いて。  「まあ、だから探したところで、私を見つけることができるとは限らないわ」と師匠は言った。「だから、あなたが漏らしたこと言いたくても言えないから安心しなさい」と付け加えた。    安心しなさい、と言われても、軽い言葉では信用できなかった。私は念を押すようにもう一回忠告する。  「決して、口が裂けても言わないでくださいね」  それを聞いた師匠は真顔になり、「それ、私に言う?」と言いマスクを外した。そして私に裂けてる口を大きく開き見せる。    私は「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も頭を下げて謝った。「そういうつもりではなかったんです」っと。  私はとんでもない失言をしてしまった。  次の日から私は笑顔を意識した。初めのほうは長時間笑顔でいると、頬の筋肉が()りそうになった。  油断していると笑顔を忘れてしますので、自分の部屋の中に鏡を増やし注意した。  そして一週間ぐらい過ぎ笑顔にも慣れたとき、日常でも変化を感じられた。  学校で、よく声を掛けられるようになった。なんでもない日常を話してくる人もいれば、趣味の話や習い事の話、悩み相談まで打ち明けられることもあった。  そして給食時間も、私から頼まなくても、「優美ちゃん、今日、ここで食べたら」と誘われるようになった。    私は次第におばあちゃんに話す、学校で楽しかったことを探すのに苦労しなくなった。笑顔でいると、自然と楽しいことが見つかった。  そして今日は、学校以外の放課後でも誘われた。森さんと新見さんと遊ぶ約束をした。私は新見さんの家にお邪魔した。  私たちは新見さんの部屋でお喋りした。新見さんのお母さんが作った焼き菓子を食べながら。会話の内容は何てことのない話だった。新見さんの部屋にある漫画の話やアイドルの話が主だった。  いままで人との会話を極力避けていた私にしてみれば、こんなことでさえ楽しいイベントになった。自分の好きなものと相手が好きなもの、同じ好きなものを話題に一緒にお喋りすることがこんなに楽しいと思わなかった。  しばらく話すと、私たちは恋バナをすることになった。あたしは特定の好きな男子はいなかった。男子はバカばっかりだし、すぐにふざけて調子に乗って、人の欠点を見つけて笑い者にする。そういうのが私はどうも苦手だった。だから好きっていうほどでもないけど、大人しい子が私の唯一の嫌いじゃない男子だった。  私はその男子の名前を言った。すると二人からは、「えー、趣味悪い」と揶揄(からか)われた。  森さんはクラスで一番のボス的存在の男子の名前を言った。乱暴で口が悪く、私は極力近づきたくない男子だった。趣味悪い、って言い返したかったけど、「へー、そうなんだ」と言うだけに留めた。  新見さんは中川君という男の子が好きだった。これは給食を一緒に食べたときなんとなく分かっていた。中川君は顔が良くてクラスの女子からキャーキャー言われている。人気のアイドルグループの一人に似ていると評判だった。私も中川君はかっこいいと思う。優しいし。でも競争相手の多い中、私程度の女子が名乗りを上げるのもおこがましい。    散々、話した後、急に長谷部さんの話題になった。  森さんと新見さんは、長谷部さんの悪口を言いだした。暗いだの、屁理屈だの、そして口裂け女の件以降、嘘吐きということになっている。  私は二人の話に入らなかった、ただ作り笑いを浮かべ、話の話題が変わるまでやり過ごしていた。私は苦手だと思う人はいるが、極力対立はしたくない。私も傷つきたくないし、相手も傷つけたくない。だから悪口とかも基本言いたくない。でも(かば)うほど勇気はなかった。  帰るとき「今日は楽しかった。また誘って」と二人に笑顔で告げた。新見さんのお母さんにも、「お菓子、美味しかったです。ありがとうございます」と笑顔で言った。  疲れた。途中から疲れた。恋バナのあたりから、頬の筋肉が()りそうだった。笑顔でいるのも楽ではない。私はため息を一つ吐く。  「ねぇ、私、綺麗?」  私の背後から声がした。私はすぐさま満面の笑顔を作り、振り向く。  そこには師匠がいた。今日は髪が金髪になっていた。服装はタイトでスタイルがはっきり目立つ黒い革のような服だった。まるでファッションショーから抜け出してきたような雰囲気を醸し出していた。  「私、綺麗?」と師匠が訊く。  「綺麗です」と答える。  「これでも?」と言って、師匠はマスクを外す。    耳まで伸びる口が若干広がる。私は背筋に寒気がする。  やはり怖い。いやいや、これは師匠の笑顔なんだ、と改めて思い直す。っていうか、この(くだり)、毎回やるの?と戸惑いながら、「はい、綺麗です」と私は答える。  師匠はご満悦の表情でマスクを付ける。  「何、ため息ついてたの?」と師匠は言う。    さっきのため息を師匠に聞かれていた。私は、誤魔化そうと笑顔を作ってみる。「何でもないです」と言う。  「なにその笑顔、ぎこちない」と師匠は言う。  それはお互い様、と私は内心思った。  「なにかあるんなら言ってみなさい」と師匠は優しく言ってくれた。  私は新見さんの家であった出来事をあらかた説明した。  確かに師匠の言う通り、笑顔でいると楽しくなるけど、でも嫌なことがあったとき無理やり笑顔にすると、すごく疲れる。  「そうね、だったら笑顔になりやすいことを考えましょう」  「どういうことですか?」  「思い出すだけで笑顔になれること、優美にも一つはあるはずよね。嫌なことがあったときは、無理やり笑顔になるのではなく、一旦リラックスして思い出すの。笑顔になれる思い出を」  「うーん、そんな思い出、あまりないな」と私は思い返す。  「なんかあるでしょ。最近のことでもいいよ。前の日から待ち遠しくて、ソワソワして寝付けなかったこととかないの?」  師匠に言われて、しばらく考え込む。「あっ、あった」。前日、寝付けなかったことが。  私は「お母さんと会うとき」と師匠に伝える。  「お母さんと会うだけで、嬉しい?」。師匠は不思議がった。  私は家の事情を説明した。母親とは別に住んでいて、月に数回程度しか会えないことを。  私は、お母さんと会うのをどれくらい楽しみにしているか、説明する。  前の日から着て行く洋服選んで、お母さんと買い物して、一緒にレストラン行ったり、お喋りしたり、などなど。ちょっと調子に乗って、あれもこれも話過ぎた。でも師匠は話を遮ることなく、「へー、そうなの」とか、「それは、いいわね」と相槌を打ってくれた。  「そうか、そうか。嫌なことがあったら、お母さんのことを考えて笑顔になればいいのか」と私は答えを出した。  「そうね。それはそうと、一つ質問があるんだけど」  「何ですか?」  「なんで優美は、そんなにダサい服着てるの?」  「えっ?」。私は自分の服を見た。いつもの服だ。「そんなにダサいですか?」と訊く。  「いや、さっきの話で、お母さんに会う前、どんな服着て行くか迷う、って言ってたじゃない」  「はい。お母さんに買ってもらった服、可愛い服が多いので、毎回、何が良いか迷うんです。その迷う時間も楽しんですけどね」と言い、私は照れ隠しに微笑む。  「だから、なんで今日はその可愛い服着てないわけ?いや、今日だけでなく、私と会ったとき、いつも」  「そんな普段から着ないですよ。可愛い服なんて」  「えっ、なんで?」  「なんでって言われても……。えっ?」  「優美もお洒落すると気分が上がるでしょ」  「それは、もちろん」  「だったら、お洒落すればいいじゃない」  「でも、学校に着て行ったら汚れるし」  「汚れたら洗濯しなさいよ。それにまだ身長伸びてるんでしょ?今着ないと、すぐ着れなくなるわよ」    私は自分が可愛い服を着て、学校に行っているところを想像する。もう五年生だし、クラスの女子の三分の一はお洒落して学校に来ている。でもその子たちは基本、可愛い子ばかりだ。私みたいな平凡な子がお洒落してたら変に思われないだろうか?  私はそのことを師匠に伝えた。  「そんな周りの目なんか気にしないの。自分が着て気分が良くなるんだったら、それでいいじゃない。私もお洒落することで気分を上げてるのよ。やっぱり女はお洒落するだけで笑顔になるものよ」  師匠はそう言うと、クルリっと回り、私に今日のコーディネイトを見せつけた。そして話を続ける。    「それに、お母さんに関連する物を身に付けているっていうだけで、お母さんのことをすぐに思い出せるじゃない」  私は師匠の説得に押し切られる形で、私も可愛い服を毎日着ることにした。  次の日、お母さんから買ってもらった服を着た。この服を着て学校に行くのは初めてだ。私はウキウキした気分とソワソワするぎこちない気持ちが入り混じっていた。  私は部屋にある鏡に向かった。そしてお母さんと出掛けた楽しいことを思い出す。そして笑顔を作った。  登校中、私はソワソワする気持ちを押し殺す。これからお母さんとお出掛け、と思い込みながら、ウキウキした気分を全面に押し出しながら歩いた。  「平野さん、その服、可愛い」  登校中、クラスの学級委員長の並木さんに会った。私を見かけ、挨拶も忘れ服を褒めてくれた。  「変じゃないかな?」と私は心の奥にある不安を吐露した。  「全然、変なんかじゃないよ。とても似合ってるよ」と並木さんはテンション高く返してくれた。  私は「ありがとう」と笑顔で答えた。私は、お母さんに選んでもらった服だと説明した。  それから学校に着くまで並木さんと一緒に歩いた。    「最近、平野さん、変わったね」と並木さんは言った。「なんかあった?」  私は師匠のことが想い浮かんだ。でもこんなことを言って信じてくれる人もいない。私は「特にないけど」と答えた。  「実は、好きな男子がいるとか?」とニヤニヤしながら並木さんは言う。  「そんなんじゃないよ」と焦って否定した。  私は、やはり並木さんも女子特有の恋バナが好きなのかな?と思ってしまう。教室では、そんな雰囲気、見せないけど。  「でも平野さんって最近変わってくれて嬉しい。なんか以前は、仲良くしようと思っても距離置かれてる感じがして、私嫌われてるのかな?って思ったりしたもん」    私はすごい勢いで首を横に振る。「全然、嫌ってない。むしろ好き。好きだから距離置くっていう感じ」。なんかすごく変な言い訳をしてる感じがして、いい例えを探した。「そう。今日の服みたいな感じ、並木さんは。着たいけど、着るのがもったいない、って感じ」  並木さんは笑いだす。「変わった例えね」と言って。  確かに変な例えだ。自分でも自覚し、私は恥ずかしかった。  「でも、ありがとう。私も服好きだから、その気持ちよく分かる。買ったばかりの服、早く着たいけど、でも今日じゃないみたいなこと、あるよね」。そう言って、また並木さんは笑った。  私は、恥ずかしいというより、並木さんを笑わしたことを誇らしく感じた。  並木さんは笑った後、真剣な話をしだした。  「平野さんは、このクラスのことどう思ってる?」  「えっ、どう思ってる?とは、どういうこと?」  「学級委員長として、クラスのこと気になるから。平野さんは、どう感じてるのかな?と思って」  学級委員長も大変だな、と思いながら、私はクラスのことを考える。「特に、なんにも問題はないと思うけど」  「私ね、最近、クラスのグループが分断しているような気がするの。特に、あの給食のとき」    私は給食時間のときを思い出す。確かに、もうグループは固定しているし、そこの中をウロチョロしてるのは私ぐらいだろう。  「五年生になったとき、みんなで話し合って、給食時間は好きな人と食べよう、ってなったじゃん」  そう、あの学級会で決まってから、私は給食時間が嫌いになった。  「いままでは班で食べていたけど、それって私、変だと思っていたの、あの時まで。だって、ご飯食べるときぐらい自由に食べたほうが楽しいって思っていたの。だから初めは、班で食べるより、自由に食べるほうが、断然良かった、って思ったの。でも最近、ちょっと違和感があるの」  並木さんは、ここで一つため息を吐く。  「グループが固定すると、今度はそれが窮屈になったの。今日は違う人と食べてみたいと思っても、グループから抜けれないの、仲が良いから余計に。そして、それがずっと続いて最近では、なんかクラスが分断されてるように感じるの」  並木さんは私の顔をじっと見た。  「だから私、最近の給食のときの平野さんの行動、凄いな、と思うの。尊敬するし、羨ましい」  並木さんが私を褒めたとき、学校に到着した。私は「そんなんじゃない」と大いに否定したかった。ただ、そうせざる得ない状況になってしまったんだ、っと。でも説明することは難しい。おばあちゃんのことはいいとして、師匠のことをどう説明すればいいのか分からない。いろいろ考えていたせいで、否定するタイミングを逃してしまった。  でも私は嬉しかった。人から尊敬されると思ってなかったし、羨ましがられることも。しかもそれが、あの人気者の並木さんからだ。体の芯がブワッと温かくなる。  教室に入ると、やはり私の服に注目を浴びた。特に女子から。私は恥ずかしかったけど、悪い気はしなかった。給食のときも、並木さんのグループで食べ、ファッションの話で盛り上がった。  しばらくは私の服装が注目を浴びていたけど、服のローテーションが一周したくらいから、みんなさほど話題にしなくなった。でも私はそっちのほうがありがたかった。落ち着くし、でも可愛い服で気分も上がる。自然に頬が緩み笑顔になる。  そんなある日、教室に入ると騒々しかった。みんな私のことなんてお構いなしだった。何事があったのか?私は注意深く観察した。どうやら数名の生徒と長谷部さんが揉めていた。  私は周りにいたクラスメイトに事情を聴いた。どうやら口裂け女の件で揉めているらしい。  最近、頻繁に口裂け女の目撃情報が増えてくているという。そこで中学校のほうでは、保護者に向けて注意喚起の用紙が配られたそうだ。その用紙を長谷部さんは、お姉ちゃんから借り、ここに持ってきたのだという。そして、嘘吐き、呼ばわりした人たちに、「謝って」と要求しているのだとか。  でも、その用紙には、口裂け女と名乗る不審者、と書かれている。そこで揉めているらしい。  「謝りなさい」  「嫌だね。だって口裂け女いないじゃん」  「私は口裂け女がいるなんて一言も言ってない。私は口裂け女の目撃情報があるって言っただけ。そして実際あったでしょ」  「でも、口裂け女じゃないじゃん」  「でも、私は嘘を言ったわけじゃない。嘘吐きって言ったの、謝りなさい」  「いや、嘘吐きじゃん」  「謝れ」、「嘘吐き」の応酬になっていた。  並木さんは、二人の間に入り、なんとか仲を取り持とうとしていた。しかし他の周りの人は、もっとやれ、と(あお)っていた。特に男子が。私も並木さんの手伝いをしたかったが、そんな勇気はなく、一歩を踏み出すことができなかった。  そこへ担任の佐伯先生が入って来た。騒がしかったので、佐伯先生も教室に入るなりキレていた。教壇を出席簿で何度も叩き、「あなたたち、何度言ったら分かるんですか。五分前には席に着いて、静かにしなさい」と怒鳴っていた。私は、あなたが一番騒がしいよ、と思った。  「これからプリントを配ります。このプリントは家に持ち帰って親御さんに読んでもらって下さい」  先生はそう言い、プリントを配った。  その用紙は、口裂け女の件についてだった。長谷部さんが持ってきた用紙と同じ内容の文章だった。  プリントが全ての生徒に行き渡ると、唐突に長谷部さんが手を挙げた。  「なんですか?長谷部さん」と先生は言う。  「口裂け女を見た人がいます」と長谷部さんは言った。  「はい。そういうことが書かれている用紙です」と先生は返した。  「以前、先生は私を怒りました。口裂け女はいませんって。謝って下さい」  長谷部さんはいつもと同じで淡々と喋る。  私は長谷部さんの発言を聞いてハラハラする。それ先生にも言っちゃうのね、っと。  すると何人かの男子も、「謝れ」と後に続いた。私はその男子の発言にムカついた。結局、(あお)って面白がりたいだけなんだろ、あんたらは、っと。だから私は基本男子は苦手だ。  先生の顔はみるみる紅潮する。そして頬をピクピク引き攣らす。  先生は出席簿で教壇を叩く。「バーン」と大きい音とともに、さっきまで騒いでいた男子は静まる。  「口裂け女ではありません。そう名乗る不審者です」と先生は奥歯を噛み締めているみたいな口調で言う。  「私は口裂け女を目撃した人がいるって言っただけです。口裂け女がいるかどうかは言ってません」と長谷部さんは返す。先生とは逆で冷静に。  「そんな屁理屈ばかり言うから、だからあなたは友達ができないんですよ」と先生は叫ぶように言う。  先生のこの一言で教室内が静寂に包まれた。えっ、そんなこと先生が言うの?と私は佐伯先生に幻滅した。たぶん他のクラスメイトも引いているのだと思う。  私はこの教室の雰囲気に嫌気が差す。師匠も目立ちすぎ。私には見える人は限られる、って言っておきながら、大騒動じゃない。  「先生、私、長谷部さんの友達です」  静寂を打ち破り、発言したのは並木さんだった。  「私も友達です」と私は並木さんに続いた。  本当に咄嗟のことで、考える前に行動した。こんなことは初めてで、自分でも意外だと驚く。  先生はハッと我に返り、冷静な口調で「分かりましたから、みんな座りなさい」と言って、私たちを座らせた。でも佐伯先生は謝ることはしなかった。  「それよりも、これからしばらくは上級生は下級生を連れて帰る集団下校になります」と先生は言った。先生は集団下校の説明をした。先生たちも通学路に立つが、全てをカバーできないため、集団下校が行われるという。  そこで、帰り道が同じになりそうな人同士で、グループに分かれるように指示された。  先生は司会を学級委員長の並木さんに任せた。並木さんは住んでいる地域に分かれてもらい、その中でも家の近い者同士グループになった。    私のグループには、私、並木さん、長谷部さん、早川君の四人になった。  この中では私が一番学校から遠いが、私が学校に行く通学路の途中に三人の家はあった。  私はグループが決まったので、ふっと先生のほうに目をやった。それはたまたま偶然的に目をやったもので、意図したものではなかった。そのとき佐伯先生は泣いているように見えた。  その日の帰り道、長谷部さんは、私と並木さんにお礼を言ってくれた。「先生の怒られているとき助けてくれて、あるがとう」と。  並木さんは「佐伯先生、言いすぎじゃない?」と言ったが、「私も言いすぎているから」と長谷部さんは答えた。「思ったこと、すぐに言う癖、直したいんだけど」と付け加えた。  私はそんな二人のやり取りを黙って見ていた。なんか佐伯先生の泣いている姿が脳裏に焼き付いていて、先生の悪口は言えなかった。  私は気持ちがどんよりしたが、こんなときこそ笑顔だ、と思い直した。私は一つ深呼吸をした。それから今日の自分の服装を見て、この服を買ったときのことを思い出す。お母さんとの思い出を。それから私は笑顔を作った。  それから毎日帰り道は、この四人で下級生の面倒を見た。毎日、帰り道が一緒だから、自然と話すようになり仲良くなった。    早川君は空手をやっていて、学校が終わると道場に通っているらしい。「口裂け女がでたら、俺に任せればいいから」と言う。普段は口数が少ないのに、こういうときは決める。クラスの女子に人気があるのも頷ける。  そして早川君には、空手で世界一になる、という目標があると言う。私はそれを聞いて、すごい、と素直に思った。なかなかそんな大きな目標を立てれないと、私なら思う。  そんなある日、私は一日に二回も呼び出された。  一回目は給食のときに並木さんと一緒に食べるメンバーの人たちだった。  「最近、平野さんって調子に乗ってない?いつも葵の近くにくっついて。しかも、急にお洒落して、笑顔振り撒いて、男子のこと意識してるの?それに中川君とも喋ったりして。あまり調子乗んないでよね、鼻につくから」  葵とは並木さんのことだ。彼女たちは下の名で呼び合う。私はまで並木さんって呼んでるけど。    唐突に言われたから驚いた。さっきまで仲良くしていたはずなのに、急に「一緒にトイレ行こ」と言われ、付いて行ったら、このありさまだった。  あまりの急展開で私は唖然とした。私は思考が停止し、何も言い返せなかった。    次の休憩時間には、森さんと新見さんから呼び出された。さっきと一緒で「一緒にトイレ行こ」と言われ。私は、トイレ行こ、と言われた瞬間、さっきのことを思い出し、体が固まり冷たくなった。  やっぱり案の定、文句を言われた。  「最近、平野さんって調子乗ってない?一緒に長谷部さんの悪口言ってたのに、いまでは仲良くしちゃって。それに最近では男子のこと意識してない?中川君とも喋っているし、平野さんの好きな人、中川君じゃなかったよね。もう乗り換えたの?」  森さんに文句を言われた、ほとんどが言い掛かりだ。私は長谷部さんの悪口は一言も言ってない。森さんと新見さんが言っているのを黙って聞いていただけだ。まあ、黙って何も言わなかったのがいけなかったのだが。それに中川君。私から中川君に話し掛けたことない。中川君から話し掛けられ返事してるだけだし。  それにクラスの女子全員に言いたい。中川君と並木さんのほうが仲良さそうだと思いますけど。  私は嫌な気分になった。  その日の給食は、長谷部さんと食べた。本当は一人で食べたかったけど、それだと周りの人に、何かあったのか?と思われそうなので。  その日、どんなに笑顔になろうとしても無理だった。こんなことなら『普通』が良かった。  下校時、並木さんと長谷部さんから元気がないことを心配された。私は体調が悪いだけだよ、と誤魔化した。  家に帰り、おばあちゃんから「今日、学校どうだった?」と訊かれ、私は「普通」と返した。久しぶりの返事だ。おばあちゃんは「どうした?」と訊いてきたが、私は「なんでもない」と不愛想に返した。  今日は塾があり、そして帰り道の公園で師匠に会った。というより公園で少し待っていた。師匠に来てもらいたかった。  「ねぇ、私、綺麗?」  「もう、それはいいから」と私は叫んだ。  「どうしたの?急に大きな声出しちゃって」  「私、口裂け女の弟子、辞めます。美しくなることも、笑顔も、可愛い服も、全部辞めます」  私は悔しくて泣いていた。  「どうしたの?何があった?」と師匠は言い、泣いている私を抱きしめた。  何で、師匠はこんなに冷たいのよ。本当なら、この場面では人の温かさに触れるはずなのに、冷たすぎよ。私は凍えるほど泣いた。  私が泣いて気が済むと、師匠は私の話を聞いてくれた。初めてっ会ったときのように、公園のベンチに座り。  私は今日あったことを話した。いろんな人から嫌われていたことを。だから普通に戻りたいことを。  「なんだ、そんなこと?」と師匠は呆れるような口調で言う。  「そんなこと、じゃないんですって」と私は必死に訴えかける。  「私を見てみなさいよ。私なんて嫌われるために生まれてきたのよ」と師匠は胸を張り言う。  「師匠、嫌われているって知っていたんですか?」と私は驚く。  「知ってるわよ」    私は『綺麗?』と訊いてきてるので、てっきり師匠は自分が好かれていると思い込んでいるんだと思っていた。  師匠は自分のことを話し出した。  「初めて会ったとき少し話したけど、私たち口裂け女は人の噂から生まれるの。だから噂がなくなれば、私たちは消える運命なの」  「えっ、師匠消えちゃうんですか?」と私は口を挟む。  「そうよ、いずれね」  私は、師匠が消えないように噂し続けようと思った。初めは、このベンチで漏らして倒れたくらい怖かった存在だったのに。    「私たちは噂を広めると、それだけ仲間が増える。噂が長持ちすれば、長生きできる。だから噂を広めるために、私たちが見える人を見つけ怖がらせるようなことをしているの。噂を拡大させるのは、恐怖が一番だからね。昭和の時代、私も人間を怖がらせた。それが私たちの幸せなんだと信じて」  師匠は懐かしむように遠くを眺めた。そしてそのあとで私のほうを向いた。私の目を見て話を続けた。  「でも、本当は何も考えていなかったのよ。周りの意見に流され、それに従っただけ。それに気づいたのは、噂が減少し、私が消える寸前だった。あれ?私のしたかったこと、本当にこれだったのかな?と思ったの。口裂け女の普通が、私の幸せではなかったのよ。そして今度生まれたら、自分らしく生きようと心に誓ったの」  師匠は私の手を取り握りしめる。だから、こういうときは温かさを感じさせて。師匠は冷たい。  「優美が、本当に普通に生きることが幸せなら、私も文句も言わないわ。でも、自分がどうなると幸せなのか、真剣に考えて」  私は考える、自分の幸せを。普通に生きていた自分は、確かに自分を押し殺して生きてきた。師匠に会ってからのほうが、自分らしい。でも人から嫌われるのは、やっぱり辛い。  私は自分の考えを師匠に伝えた。  「それは、優美が間違ってるんじゃなくて、世界が間違っているのよ。優美は自分を変えるのではなく、世界を変えるのよ」。師匠は熱く語る。体温は冷たいけど。  「言っている意味がよく分からないんですけど」と私は正直に答える。  「だから優美は笑顔になるために生きているだけでしょ。それなのに世界は優美を辛くさせ泣かせる。だから、それは世界が間違っているから、世界を変えればいいのよ。優美はどんな世界なら笑顔で生きていられる?」  「どんな世界って言われても」と私は困惑する。  「いいから考えて、自分が笑顔になれる世界を」  私は師匠に言われた通り考える。  「お互いの違いを認めて、それで仲良くなれる世界、かな?」と、しばらく考え答えを出した。  「ちょっと優美、目を(つむ)って。そんな世界を今想像してみて」  私は師匠の言う通り目を(つむ)り、みんなが仲良くなっている世界を想像した。クラスのみんなが、森さんと長谷部さんが、おかあさんとおばあちゃんが。  「ねえ、ワクワクしてる?」  私は目を開け、「はい」と嬉しくなって、はっきり答えた。  「そういう世界に優美が変えるのよ」と師匠は力強く言う。  「そんなの無理です。私にそんな能力はありません」と師匠とは逆に弱々しく返す。  「能力なんて必要ない」  「じゃあ、どうするんですか?」  「方法なんて考えない」  「考えない?」  「ただ、思い込むのよ。私は、みんなが仲良く暮らす世界の住人で、私はそれだけの価値があるって、信じることよ。そうすれば世界は優美の想い通りの世界になるはずよ」  「急に言われて……、そんなの思い込めません」  「優美に、美しい女の最終奥義を授けるわ」  「最終奥義?」  「そうよ。美しくなるために、笑顔が基本で究極の技だけど、最終奥義もあるのよ」  「それは、なんですか?」  「あなた、毎日、部屋の鏡で笑顔チェックしてるでしょ?」  「は、はい」。見られてるの?と私は思った。  「そのときに、こう言うの。『私は、みんなが仲良く暮らす世界の住人で、私はそれだけの価値がある』って」  「えっ?」。私は意味が分からず訊き返した。  「だから、世界を変える能力も必要なく、世界を変える方法も知らなくてよくて、努力も必要なく、言うだけでいいの。『私は理想の世界に存在するだけの価値がある』って」  「言うだけ?」  「そう、これが最終奥義、ビックマウスよ」    私はダジャレだと気づき、気分がしらけた。私は無反応でやり過ごす。  「口裂け女だけに、ビックマウスよ」    師匠は私がダジャレに分からず反応してないと思い、再び分かりやすく言い直した。  私は仕方なく「へー」と薄く反応した。  「優美、信じてないの?効果、絶大だから」と必死になって師匠は言う。  「はい、はい。ダジャレが言いたかっただけでしょ、師匠は」  「違うわよ。本当に効果があるの。毎日毎日、欠かさずにやり続けなさい。自分が思い込んだら、その現実に現れるわ」  「そんなことあるんですかね?」と私は疑わしかった。  「優美の目の前にいる私は何?」  「師匠のことですか?口裂け女です」  「優美が信じたから、私は優美の目の前に現れた。結局はそういうことなの」  師匠はきっぱりと言った。  「ところで」と言って、師匠はベンチから立ち上がり、グルっと一周回った。「どう、今日のフッション?」と言ってポーズを決めた。  師匠の服はピンクのスーツで、インナーはシンプルな黒のシャツだった。シャツの胸元が深く、胸の谷間を強調させていた。  「ねぇ、私、綺麗?」と師匠は訊いてきた。  やっぱり、この(くだり)は必要なのね、と思った。私は「綺麗」と答えた。  「これでも?」と言って、師匠はマスクを外す。そして裂けた口で不気味に笑う。  私も見慣れたせいか、自然と「綺麗」と言えるまでになった。  次の日から、鏡の前で私は笑顔で言った。  「私は、みんなが仲良く暮らす世界の住人で、私はそれだけの価値がある」っと。  そして学校では普通に過ごそうと決めた。並木さんのグループから言われたことも、森さんたちから言われたことも、頭から投げ捨てた。    給食のときも、あえて森さんたちと一緒に食べた。私が「一緒に食べよ」と言って、相手の答えも訊かず机を付けた。森さんも新見さんも、目を丸くして驚いていた。ちょっと楽しくなった。  その日、二人からトイレに呼び出されることもなく普通に過ごした。    次の日は並木さんのグループと一緒に食べた。私はこの日初めて並木さんのことを「葵ちゃん」と下の名前で呼んだ。並木さんは普通にしていたけど、周りの人たちは、これまた目を丸くして驚いていた。愉快だ。  もちろん、そのグループからもトイレに呼び出されることはなかった。  内心はドキドキしていただけに、割と拍子が抜けだった。  そして週末、学校が休みになり、この日は私はお母さんと会う約束になっていた。  私はこの日の朝も、鏡の前で「私は、みんなが仲良く暮らす世界の住人で、私はそれだけの価値がある」と言って出掛けて行った。  私は夕方まで、お母さんとショッピングして楽しんだ。いろんな服を試着して、お母さんに選んでもらった。この日は、私から頼んで、服だけでなく化粧品も買ってもらった。私の初めての化粧だった。  「優美、今日は積極的ね」とお母さんは驚いていた。  「お母さん、前に言ってたよね。『楽しいこと見つけなさい』って。私、お母さんとショッピングしているとき楽しいの」と言って思いっきり微笑んだ。  お母さんの目が少し潤んだように見えた。  夕方になると、お母さんは「何食べようか?」と訊いてきた。  私はそう訊かれると思っていた。いつもなら『お母さんの手料理』と答えて、お母さんのマンションに行く。でも今日は違う。私はある計画を実行する。  「今日は私の家に来てよ。誰もいないから」と言った。  「えー無理だよ、それは」とお母さんは断る。  でも、今日の私は違う。いつも遠慮はするけど、お願いなんてすることはなかった。そんな私が手を合わせお願いっと頼み込んだ。お母さんは渋々承諾してくれた。  もちろん、家に誰もいないなんて嘘だ。家にはお父さんもいるし、おじいちゃんも、おばあちゃんもいるはずだ。  お父さんに「お母さん用事あるから、私は夕方くらいに帰ってくるから」と言っていた。「夕方は、おじいちゃんとおがあちゃん呼んで、一緒にご飯食べよう」と頼んでいた。  あばあちゃんにも嘘を吐いた。お母さんと会うのは内緒にしていたし、その日は友達と出掛け、夕方くらいに友達と一緒に帰るから、っと友達をこの家に呼ぶことにしていた。おばあちゃんに料理を作ってもらい、みんなで一緒にご飯を食べようっと言ってあった。おばあちゃんは、私がこの家に友達を呼ぶことが今までなかったので、やたら嬉しそうにしていた。その様子を見て、嘘吐いていることに、心がチクりと痛かった。  お母さんと家に着くと、さすがに家に誰かがいると、お母さんにすぐバレた。  お母さんは「嫌よ、入らない」と言って、ここから立ち去ろうとする。  「お母さんは逃げるの?私、これからは、自分の楽しいと思うことから逃げない」  お母さんは私の言葉に観念した。仕方なし、私に手を引っ張られながら家の中に入った。  私は「ただいま」と家の中に向かって叫んだ。  おばあちゃんの「おかえり」と言う声が聞こえた。  「優美、あの人までいるじゃない」とお母さんは言って、引き返そうとするが、私が「嫌ー」と叫ぶと諦めてくれた。  私はお母さんを引っ張りダイニングのほうに向かう。扉を開け、二人で入る。お父さんとおじいちゃんは、もうお酒を飲んでいたみたいだけど、私たちの姿を見て二人とも目を丸くして固まった。  おばあちゃんは、お母さんの姿を見て、ギョッと目を光らせ、「何しに帰ってきた」と(すご)んだ。  「私だって帰りたくなかったわよ。優美に『誰もいないから』って頼まれて、仕方なしに来たのよ」  お母さんもおばあちゃんに負けない勢いで(すご)んだ。  お父さんとおじいちゃんは、女性陣二人に挟まれオロオロしているだけだった。  私は、男性陣にビッシっと決めてほしかったけど、無理そうなので諦めた。  私は素直に謝った。「ごめんなさい、嘘を吐いて。でも嘘を吐いてでも、みんなでご飯を食べたかったの」と申し訳なさそうに言った。  お母さんとおばあちゃんは、まだまだ言いたいことがたくさんありそうだけど。渋々矛を収める感じになった。  私は、心の中でテヘペロをする。  「とりあえず、みんなでご飯を食べようよ」と言って、みんなを食卓に着かせた。  テーブルには、おばあちゃんが丹精込めて作ったと思われる料理が並んでいた。  みんなで「いただきます」と言った後、食事を開始した。男子陣はいまだにオロオロしていた。  「優美ちゃん、美味しい?」と、おばあちゃんが訊いてきた。  「うん」と私は答える。  「お母さんは毎日作ってくれないもんね」と、おばあちゃんはお母さんに聞こえるように嫌味を言う。  「優美、今日、楽しかったね。いっぱい洋服買えて嬉しかった?」と、お母さんは言う。  「うん、ありがとう。今度学校に着て行って自慢したい」  「そう。おばあちゃんはずっと専業主婦だったから、可愛い服なんて買ってくれなかったわ」  今度は、お母さんの反撃が始まった。  女性陣は太々(ふてぶて)しく、お互いの嫌味を聞き流す。  「あんたはなんで、日常の生活で満足できないの?お金を持てば幸せなの?」と、おばあちゃんが言う。  「お金が幸せなんて言ってません。私は好きで仕事をしているの」と、お母さんが言い返す。  「優美ちゃんが可哀そうよ。毎日、ご飯を用意して子供の帰りを待つのが普通でしょ」  「優美には迷惑かけていると思ってるわ。でも私なりにこの子を愛してるのよ」  私は箸を置いた。そして、お母さんとおばあちゃんに向かって話し始める。  「私、お母さんが好き。私、大人になったら、お母さんのようになりたい。お母さんのように仕事ができるカッコイイ女性になりたい」  私の言葉を聞いて、お母さんは「ほら、もう時代が違うのよ」と、おばあちゃに聞こえるように呟く。  私は話を続ける。  「私、おばあちゃんが好き。私、学校から帰って、おばあちゃんの声聞くとホッとするし、いつもご飯作ってくれて嬉しい」  私の言葉を聞いて、おばあちゃんも「ほらね、子供が帰ってきたときに誰かが迎えないといけないんだよ」と聞こえるよう呟く。  「でも私の幸せは、お母さんとおばあちゃんに仲良くしてもらいたい。私、可愛い洋服なんかいらない。これから自分でご飯作ってもいい。私の幸せを考えているなら二人ともちゃんとして」  私は涙ながら訴えた。今度は二人を欺くために言った言葉ではなく、本心から出た言葉だ。  それからの食事は、お通夜の如く、誰も喋らず黙々と食べた。  食事を終えると、お母さんは食器を流しに持って行き洗い出した。  おばあちゃんが「いいわよ、私がするから」と言うと、「私が使った食器だから」とお母さんは言った。  お母さんは食器を洗いながら、おばあちゃんに「お母さん、ごちそうさま。今日のご飯、凄く美味しかった。いつも優美のために、ご飯作ってくれて、ありがとう。私、お母さんがいるから安心して仕事に打ち込めると今、気づきました。ごめんなさい」  おばあちゃんも洗い物しているお母さんの背に向け話し出す。  「私もあなたのこと全然考えず、世間体のことばかり気にしていたのかも。仕事、休みのときは、ここに帰ってらっしゃい。私がいつでもご飯作ってあげるから」  このあと、お母さんはすぐに帰った。  玄関で私を抱きしめ、「ごめんね。ありがとう」と泣いていた。「お母さんと仲良くなるには、まだ時間が掛ると思うけど、優美の幸せのためにも頑張るから」  おばあちゃんは食器を洗っていた。私もおばあちゃんの手伝いをした。    男性陣は泣きながら未だに固まっていた。  いつも威張っているクラスの男子を思い浮かべた。あの男子たちも大人になると、こんな感じになるのかな?と思うと、若干、男子の行動も許せる気もした。  学校に行く前、鏡に向かって笑顔と言葉を欠かさなかった。  私は、お母さんとおばあちゃんを仲直りさせたことで、自分で世界を変えれると少し自信が持てた。  給食時間、私は佐伯先生の机に行き、「先生、一緒に食べてもいいですか?」と訊いた。  先生はいつも、教室の左前にある、先生の机で一人で食べていた。だから一人で食べている先生と一緒に食べようと思った。  「平野さん、あなた好きな場所で食べていいのよ」と先生は言う。  「はい。だから今日はここで食べたい気分なんです」とハキハキ答えた。もちろんクラス中に聞こえるくらいの大きな声で。  先生は目を丸くして驚いていた。これは愉快だ。  きっと「媚び売って」とか言われたりするんだろうな、と想像するが、もうそんなの関係ない、私の勝手だ。  次の日も、その次の日も、先生と食べる。  不思議と、私に耳には陰口は聞こえてこなかった。  その次の日、長谷部さんと一緒に先生をご飯を食べた。    その次は、先生を生徒の机に呼び、並木さんのグループと一緒に食べた。先生の机には、中川君が座り、「じゃあ、俺、今日ここで食べる」と言って陣取った。男子たちは、「ズルい」と言って騒いでいた。  次は、長谷部さんと先生と一緒に森さんたちと食べた。先生の机は、男子がじゃんけんで決めていた。  次は並木さんと森さんを一緒にさせた。次は男子と女子を一緒にさせた。男子は「嫌だよ、ハズい」と騒いでいたけど、並木さんが頼むと、満更でもない顔をした。男子は並木さんが頼めば、大概OKすると、このとき分かった。こういうところが男子の腹立つところだ。  給食のとき、クラス全員がグルグル混ざるようになった。確かに、仲が良い悪いはクラスの中にあるものの、それでもクラス内の境界線は薄れてきたように感じる。  帰り道、未だに集団下校が続いていた。一時より噂は下火になったように感じたが、それでもまだ口裂け女の出現の情報が飛んでくる。  私は、仕方ないじゃん、師匠にも師匠の事情があるんだし、と気軽に思っていた。噂が無くなると師匠が消えちゃうし、っと。  その帰り道だった。長谷部さんが一枚の地図を見せてくれた。その地図には口裂け女が出没した場所と時間が書いてあった。スーパーマーケットと中心に、人があまり通らなそうな裏道とがで出没していた。しかも夕暮れから日没までの時間がほとんどだった。  「今度、私、ここらへん歩いてみようと思うんだけど」と長谷部さんは言う。  「そんな危険なこと駄目だよ」と並木さんが注意する。  「俺がついて行って、懲らしめてやろうか?」と中川君が言う。「不審者って言っても、所詮、女だろ?」  私は師匠のこと考えた。もし師匠が見つけられ、痛めつけられると思うと、可哀想だ。  「暴力は駄目だよ」と言うと、みんなが一斉に「えっ?」と聞き返された。  「だからいくら不審者と言え、暴力は駄目だよ。空手やってたら」と誤魔化しながら言うと、中川君は「まあ、そうだな」と納得してくれた。  私はフッと思い付いた。クラスのみんなで探すことに。  師匠は見える人にしか見えない。仮にクラスで私しか見えないなら、それはそれで良し。誰かもし見えても、噂がまた続くから師匠は長く生き続けられる。それもそれで良し。  私は三人に提案した。クラスのみんなに声を掛けて一度探してみないか?と。  「だから、危ないって」と並木さんは注意する。  「でも、みんな無事に逃げれているみたいよ」と長谷部さんは言う。目撃者は全員、走って逃げて逃げ切れているみたいだった。  私はそれを聞いて、私だけ気絶して口裂け女と接触したのね、と自分を情けなく思ったのと、気絶して良かったとも思った。複雑な気分だった。  並木さんは長谷部さんの「みんな無事に逃げれている」という言葉を聞き、「それなら」と妥協した。    長谷部さんは私に向かって、「あなた本当に変わったわね。以前はなんか凄く怖がっていたのに」と言った。  私たちはクラスのみんなと話し、この計画を実行することになった。  実行は三日後の夕方。来れる人はスーパーマーケットに集合となった。もちろん先生には内緒で。私たちはクラス全員に連絡網を回した。  でも私はこのとき調子に乗っていたのだ。自分が変われて、世界も変えれる、そんな自信みたいなものがあった。昔の私ならもっと慎重だった。もっと怖がっていた。ひょっとしたら気づけたかもしれない。そのスーパーマーケットとあの公園は、結構距離が離れていたことに。  計画の当日、クラスのほとんどがスーパーマーケットの駐車場に来ていた。習い事とか塾とかがない人は全員来ていた。  森さんに新見さん、長谷部さんに並木さん、並木さんの友達、クラスのボス的な男子も。  中川君は空手の稽古で来れなかったが、女子たちは残念がってるみたいだけど、私はホッとしていた。間違って空手で攻撃されたら、師匠が可哀想だもの。  ちなみに、私が好意を寄せてると言った大人しい男子は来てなかった。理由までは知らないけど。  なんでクラスのほとんどが集まって来たかと言うと、一種のイベントになっていた。口裂け女が現れる派と現れない派で賭けになった。賭けに負けたほうは、勝ったほうに謝らないといけない。長谷部さんと言い合いになった男子が決めたことが、みんなに広がった。  私たちは前もって現れる派と現れない派で別れ、その別々の派閥が二人一組になるようにした。なるべく男女にもなるように。そのほうがより安全ということなんだけど、それとは違うようなノリになりつつあった。まるで恋愛のペアを決める感覚だ。二人組はクジで決め、余った人は賭けにも参加しない中立派の人と組む。私は興味なかったけど、女子たちはキャーキャー騒いでたし、男子もそれなりに楽しんでるように見えた。  「ねぇ、優美ちゃん、大丈夫なの?」と並木さんが訊いてきた。  「葵ちゃん、何か心配なの?」と私は訊き返す。  「優美ちゃん、スカートでしょ?走れる?」  私は周りの人の服装を見る。女子もそれなりに走れる格好をしていた。しまった、と思った。完全に油断していた。  「どうせ、見つからないって」と私は言った。  「でも優美ちゃん、現れる派だよね」と並木さんは返す。並木さんは不思議そうな表情をしている。  「ああ、それは、長谷部さんへの義理だよ、義理。へへへへへ」と私は笑って誤魔化す。  しばらくして計画スタートした。私の相手は、現れない派の男子。あまり話したことない男子、後藤君とだった。    「平野、スカートで大丈夫かよ」と後藤君も言う。  「大丈夫、いざとなったらスカート(まく)り上げて走るから。そのときパンツ見ないでね」と私が言うと、「見るかよ」と言って顔を赤くして、そっぽを向いた。  冗談のつもりで言ったけど、相手が恥ずかしがると、言ったこっちも恥ずかしい。  私は後藤君は、配られた地図を見ながらスーパーマーケットを中心に歩き回った。時折、クラスメイトと会うので、「どうだった?」と情報を確認する。  また、スーパーマーケットの駐車場には、二人ほど待機していて。私たちは一定の時間歩いたら、そこに戻って情報を伝えていた。  かなり時間が経過した。  私は後藤君とほとんど会話らしい会話をしなかった。ただ一応、あいさつ程度に、どの辺に住んでる?とか、習い事してる?とか、兄弟いる?とか、趣味は何?、みたいな話はした。  時間が経過し、決められた最終時間が迫ってきた。  中には門限が厳しい人や、用事があった人などは、途中で帰っていた。  後藤君も用事があったらしく、次に駐車場に行ったら俺帰るわ、と言っていた。私は後藤君の家を聞いていたので、駐車場まで戻ると遠回りになることが分かった。  「もう、このまま帰んなよ」と私は言った。  「でも、女一人にして途中で帰れないよ」と紳士らしいことを後藤君は言った。  私は紳士な後藤君には悪いが、会話の続かない後藤君と一緒にいることのほうが居心地悪いと思っていた。  「いいって。そんなの気にしなくて。こっからスーパーマーケットまで結構距離あるし、それにこの道は割と人通りもあるから」  後藤君はしばらく考え、「じゃあ俺、ここで帰るわ。平野、気を付けろよ」と言って走って行った。  後藤君のダッシュを見ると、ひょっとして時間なかったんじゃないかな?と取り残された私のほうが心配になった。  私は後藤君が去って、一つ伸びをした。あまり話さない男子と一緒にいて、気を遣い体が硬くなったみたいだ。私は首も一周回してストレッチをした。  「ねぇ、私、綺麗?」    私の背後から声がした、私は、師匠だ、と思い、ストレッチしている首をそのままゆっくりと後方に向ける。その向けるついでに「綺麗です」と、もう口癖のように言っていた。  「じゃあ、これでも?」  私が首を後方に向けて確認したとき、そいつはマスクを外していた。そいつは師匠じゃなかった。不審者でもなかった。師匠とは違う口裂け女だった。  ロングの黒髪、赤い服、手には鎌を持ち、目は吊り上がって、口は耳元まで引き裂かれ、口の中には牙のような歯が並んでいる。そいつの姿は師匠とは似ても似つかない姿だった。それは人ではない、まるで獣、狼のような表情だった。  相手の荒い息遣いが私のところまで聞こえる。「ハァ、ハァ」と。私はその逆で、呼吸をすることすら忘れている。  「これでも綺麗か?って訊いるだろ?」と口裂け女は叫んだ。それと同時に鎌を振り上げ、私に襲い掛かろうとする。  私は逃げなきゃ、と思いながらも、足が固まり地面から離れなかった。  鎌で襲い掛かる口裂け女に、私は危ないっと思いしゃがむことしかできなかった。そして目を(つむ)った。    何も痛くない。襲われてない?しばらくして、私は(つむ)った目を開けた。私の目の前には人影があった。それは師匠だった。  師匠は「大丈夫だった?」と私に訊いた。私は声が出ず、頷くことしかできなかった。「それは良かった」と師匠は言い、私の頭を撫でた。  「お前も口裂け女だろ。なんでその子を(かば)った?」  狼のように口裂け女は吠えた。    師匠は振り向き、口裂け女と対峙する。師匠の背中には鎌が刺さっていた。  「この子は私の弟子よ。この子に手を出すなら私が許さないわ」  師匠はそう言うと、背中に刺さっている鎌を自分の手で抜き取った。今日の服は白のワンピース。背中の血が染み出ていた。  「邪魔するな。そいつを襲えば噂はより広がり定着するというのに」と口裂け女は叫ぶ。  「そんなのただの噂に縛られている操り人形よ。美しくない」と師匠は返す。  「噂に縛られている?馬鹿かお前は。噂がなければ私たちは存在できないだろ」  「そうね、噂には感謝してるわ。なにせ弟子に会えたんだから。だからと言って恐怖で噂を広めるなんて、もうこの時代ではナンセンスよ」  「なに意味分からないこと、ほざいているんだ。お前普通じゃないぞ。さっさとそこを退()け」  口裂け女は師匠に飛び掛かる。狼みたい口を広げ、師匠の首元に噛みついた。  「普通って言葉、私が一番嫌いなのよ」  師匠はそう言うと、鎌で口裂け女の首を切った。口裂け女は噛みついた口を離した。口裂け女の頸動脈から血が噴き出す。  「お前は普通じゃない」と口裂け女は倒れる。  「普通が幸せとは限らないものよ」と師匠も膝をつく。  私は膝をつき倒れそうな師匠を抱きついて支える。私は「師匠、ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返すしかなかった。  「折角の可愛い服に血が付くから離れなさい」と師匠は弱々しく私に言う。  「優美のおかげで、今回の出現は満足よ」と師匠は言う。  師匠を見ると、体の一部、足とかが消えていく。  私は周りを見る。さっきに口裂け女の姿も、その吹き出した血も、跡形なく消えて無くなっていた。  私は師匠も全部消えそうで悲しかった。    「師匠、消えないで、消えないで。私が噂広げるから、消えないで」と私は泣きながら言う。  「優美の幸せは、みんなに恐怖を与えて、迷惑かけることなの?」と師匠は訊く。  私は泣きながら首を横に振る。  「そうよ。優美は優美の幸せのために生きなさい。そして綺麗になりなさい」    私は泣きながら頷く。    「優美が私の存在を信じなければ、私は存在してなかった。今回、私は優美としか出会ってないの。私を見つけてくれて、ありがとう。さあ、最後の課題よ。いつも(くだり)、優美がやってちょうだい」  私は頷く。そして笑顔を作る。  「ねぇ、私、綺麗?」と私は訊く。  「とても綺麗よ」と師匠は答えた。そして指先で私の涙を拭いた。  師匠の姿が消えた。私の服に着いた血さえも。  ただ私の体には、師匠の冷たさだけが残っていた。  私はスパーマーケットの駐車場に急いで戻った。もちろん師匠の約束で口裂け女の噂は広めない。  次の日の学校で、私たち現れる派は、現れない派に、頭を下げて謝った。  謝った方も、謝られて方も、それを見ていたクラスメイトも、みんなで笑った。    それからしばらくして、口裂け女の噂はなくなった。  私から口裂け女の噂はしないけど、口裂け女の噂を期待するぐらいは、いいでしょ?ねぇ、師匠。  
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