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僕と君が初めて言葉を交わしたのは、ちょうど十年前の夏。正確にいえば、八月十五日の朝五時半頃のことだった。
僕は一人、浜辺を歩いていた。日課の散歩だった。
昇りたての朝陽が輝く空は、青く澄み渡っていた。夜の間には雨風が吹き荒れていた。そのせいで湿った砂が靴底にまとわりついて、足取りは少しだけ重かった。
数分ほど歩き続けて、ふと波打ち際に視線を移した時、ある不思議な光景に気がついた。巨大なロール状の雲が、水平線の上方に横たわっていたんだ。
見たこともない形の雲だった。圧巻だった。生き物みたいにぐるぐると回旋する姿。その終わりはぜんぜん見通せなくて、もしかしたら地球を一周しているんじゃないかと思った。
後で調べてわかったんだけれど、その雲は『モーニング・グローリー』と言うらしい。様々な気象条件が揃わないとお目にかかれない、奇跡の雲。この国で観測されることは、かなり稀だという。
しばらくその光景に見とれていると、すぐ隣でカメラのシャッター音が聞こえた。
気がつけば、すぐ近くに君がいた。君は携帯電話のカメラ機能で、その雲を写真に収めているところだった。
目が合った僕らはどちらともなく会釈をして、初めて言葉を交わした。
「撮らないんですか?」と君は言った。
「写真」
「ああ……僕には必要ないんです」
「えー、もったいない。こんな光景、もう二度と見られないかもしれませんよ……?」
君は再び水平線にレンズを向けた。僕は君に倣うふりをして、少しだけその横顔を見ていた。
その間、君は十五回の瞬きをした。穏やかな潮風を受けて、長い髪がわずかにたなびいた。辺りには波の音だけが響いていた。シャッターボタンを合計四回押した。そしてゆっくりと顔を上げ、「きれい」と言いながら目を細めた。微笑んでいるように、僕には見えた。
「あっ……」
君が短い声をあげた。僕は水平線に視線を移す。
巨大な雲が少しずつ形を変えていた。ゆっくりと解けていくように、空の青の中に消えていく。僕たちはその雲の終わりを見届けた。時間にして数分の出来事だった。
「終わっちゃいましたね」
君が言った。
「ええ」
「でも、ばっちり撮りましたよー」と君は携帯電話を誇らしげに揺らした。
「よかったですね」
「はい。見たくなったら、いつでも言ってくださいね。ところで……毎朝この浜辺を歩いてますよね?」
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