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ウイルスだかなんだか知らないけれど、さっさと終わってくれないかしら──。
清美は、暗い路地にポツンと立つ一本の街灯の下、マスクをしたまま重いため息を吐いた。
数年前から、ウイルスが蔓延している。それ以来、上手く行かないこと続きだ。
ただでさえ人通りの少ない夜の道、一番の標的でもあった飲み会帰りのサラリーマンも、自粛続きで見ていない。
これでは、まったくと言っていいほど、人間がいない。
それよりなにより清美を悩ませるのは、マスクだ。マスクを装着する姿が、人間にとって日常的なものになってしまったことが、一番の問題だ。
清美にとってマスクは、言わば特権のようなものだった。
簡単な質問をして、それを外す。
それだけで清美の心は浄化されていたものだ。
清美は腕から下げたバッグから、鏡を取り出した。
街灯の明かりを取り入れて、自身の顔を見る。
「……」
不安に押しつぶされたような顔を見て、言葉にならない感情が支配する。
時計を見れば、時刻は夜の十二時に差し掛かるところ。本来であれば、もうじき絶頂期が訪れる。
人々の、恐怖に歪んだ顔が一番多く見れる時間帯だ。
百年以上もその姿を見てきた清美は知っている。人は本当の恐怖を感じた時、気絶する。
悲鳴をあげられるうちは、まだ余裕がある。心が強いか、ある程度の恐怖を経験してきた者だ。
ふと鏡越しに、街灯の柱に書かれた落書きが目に入った。
照らされた文字を見て、なんとも言えない気持ちになる。
『ねぇ、わたし、きれい?』
無駄に達筆なその文字は、誰が書いたのだろう。内容と字体が、まったく合っていない。
かつては怖いもの見たさに人が溢れたこともあった。そこに矛盾を感じ、しばらくは出没を自粛していたこともあった。
そんな思い出に浸りながら眺める道は、いつもより寂しく見えた。
この場所にマスクを装着して立つことは、自身の宿命であると、何度も言い聞かせてきたはずなのに。
「……来ないか。来ないよね、やっぱり」
そう呟いた瞬間、遠くから足音がした。
本能的に、街灯の明かりが、ほのかに当たる場所へと足を進めた。
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