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──あ、この男は……。
チラリと男を一瞥した清美は、ササッと街灯の陰に身を潜めた。
男はその横を通り過ぎる瞬間、一瞬歩みを遅らせ、険しい顔をして見せる。
「……」
何も言わず通り過ぎていったことに、胸をなでおろした清美の脳裏に、苦い思い出がよみがえる──。
数年前、この場所で清美は男に話しかけた。
違和感は、あった。
清美を見る男の目には、微塵の恐怖も感じられなかったからだ。通常であれば、街灯の下でマスクを装着し、佇むだけで頭に浮かぶはずだ。落書きされるほど有名なこの場所で、夜中に女に出会う、その意味を──。
「ねぇ、わたし」
「はい?」
しかし男はそれどころか、迷子を見つめるようなやさしい目で清美を見てきた。
「ねぇ、わたし」
「どうしたんですか?」
「き、きれい?」
「はい?」
「あの、だから。わたし、きれい?」
「すみません、ちょっと急いでいるので」
逃げようとする男の前に、清美は立ちはだかった。
頭が混乱し、いつものセリフもよくわからない言葉になった。
「これだと、どうかしら?」
マスクを外そうとする清美に、男は叫んだ。
「やめなさい! このご時世に!」
言われたことのない言葉に、清美は固まった。男は真剣な眼差しでその顔を見つめると、「なめてかかると痛い目にあいますから」と言い残し、その場を去って行った。
初めての経験だった。絶望であり、屈辱でもあった。
今日から私は、一体何になるのだろう。そんな気さえも起こさせる、衝撃的な出来事だった。
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