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6月5日
まさか、降るなんて思わなかった。傘を差して歩く人、鞄で頭を守る人、急ぐ人の足下はぴちゃぴちゃと音を立てている。
お気に入りの靴を守るために、一歩分奥に入って雨宿りをする。
ビルから出てきたばかりのサラリーマンは、困ったように空を見上げて、意を決したように飛び出した。
時計を見ると、約束の時間がまた近づいている。新調したワンピースは雨のせいで肌寒く感じるものの、気持ちは昂ぶっていくばかりだ。
早く来ないかな、おじさん。
頭にひとつ、雫が落ちる。冷たさに驚いて身をひくと、髪を伝って背中が濡れる。
再び時計を見ると、約束の時間まであと30分を残していた。
おじさんというのは、亡くなった父の末弟である。父とは20歳以上年が離れており、我が家に居候していたときは妹のように可愛がってもらった。近所の友人にも優しく、自慢のお兄さんだった。
父が死んでからも、仕事の合間を縫っては自分と母に会いに来てくれる。
「寄席のチケットが安く手に入ったんだけど、興味ある?」
母のお手製ハンバーグを頬張りながら、1枚の紙切れを渡してきた。大喜利番組さえろくに見ない私でも見知った名前が、ひとつふたつ並んでいる。
髪くらい拭きなさいという母の小言も、シャワーを浴びながら呟いていたバイトの愚痴も、まっさらになっていく。
「うん」
おじさんは、昔からそうだった。嫌なことも、辛いことも、全部忘れさせてくれる。
「じゃあ決まり」
おじさんが決めた日時と集合場所を、何度も反芻した。
ネイルは少し、気合いを入れすぎたかもしれない。ストーンはよせばよかった。
所詮は、親戚の女の子とのお出かけに過ぎないのだから。
でも、少しは大人っぽくなったと思ってもらいたかった。見た目だけでも、女性らしさを感じて欲しかった。
「よう」
聞き覚えのある声に、顔を上げる。ビニル傘を差して現れたのは
「...どうしたの、こんなとこで」
「――さんと待ち合わせしてたんだ。落語のチケットが安く手に入ったって」
お前は?
易々と問うてくる幼馴染に、唇を噛みしめた。
「...たまたまよ」
そんなわけがない。今日の私は全て、他人のために仕立て上げられている。
「へえ」
おじさんは、全て知っていたのか。わかった上で、当たり障りのない逃げ方をしたのか。
「おじさんなら、来ないんじゃない?仕事だって言ってたから」
困惑する相手を押しのけて、飛び出した。雨に濡れるのが、好都合だったなんて。
いったいどんな、笑い噺だよ。
落語の日/寄席の日
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