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6月6日
グラスに注がれたのは、見慣れたワインではなかった。正体は、香りでわかった。
「梅酒か」
「あったりー」
厚い唇をめいっぱい横方向に引っ張って、笑った。嬉しがるこの表情も、年下の彼女が見せる子どもみたいな一面のひとつだった。
「なんでまた」
「嫌いだった?」
「いや」
食卓に並んだ和食に、よく似合うだろう。彼女は、洋食よりも和食を得意にしている。「父親が和食派だった」からだそうだが、今日はいつもより品数が多い。
「スーパーで目に入ったんだよね。なんだっけ、長寿を願う?」
「まだそんな年じゃないぞ」
うん、知ってる。
上に打上げるような会話が、急に机の上に落ちた。現実を直視するには、まだ早いというのに。
「でも、信治さんの幸せを願ってるのはほんとだから」
「俺もだよ」
落とした視線を持ち上げて、ふんと鼻を鳴らした。
当然だ。
今日は、恋人として会う最後の夜だから。
気まずかったのはそこだけで、話はすぐに元のペースに戻った。仕事の話になると、酒の減りが遅くなる。
当然だ。2人で会うようになった当初の目的は、仕事なのだから。
「そういえば私、1度奥様に疑われたことがあるんですよね」
「へえ」
グラスに伸びかけた手を、止めた。十数秒前まで次の事業の話をしていたから、流れのまま相槌を打った。
だが今、すごいことを言わなかったか。
「去年ぐらいですかね。奥様が社長の浮気に気付かれて、『探偵を雇ったらすぐなんだから』ってすごい顔で言われました」
結局、白になるまで1年かかりましたね。
天麩羅をつゆに浸す手には、指輪が光る。まだ、誓いを約束しただけだ。彼女が選んだのは、取引先の相手だった。
当然だ。年齢は近いし、信頼に足る男だ。
「でも奥様が見たのって、シャツに付いた口紅なんですよね」
彼女は2人で会うとき、いつもメイクを落としている。真っ先に疑われるのが秘書である自分だと、理解しているからだ。
「だから奥様には、『探偵でも何でも雇って、私の潔白も証明してくださいね』って言ったんですよ」
だからって、人に真剣な話を押しつけるのはよくありませんよね。なんて。
カサカサと音を立てたのは、茶色い封筒だった。写真を入れるには、ちょうどいいのだろうか。厚い唇をめいっぱい横方向に引っ張って、笑った。背筋を伝ったのは、冷や汗だった。
梅の日
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