柔らかいナイフ

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 4月15日 「ねえ!なんで貴方はいっつも、いっつもそうなわけ?飲み会があるなら連絡してって何度言えばわかるの?」  朱里は天井を見上げた。溜息は零れない。 今にも零れそうな溜息を喉に押し込み、朱里は続ける。  「お風呂、湧いてるから。入ってくれば」 朱里はぶっきらぼうにそう言った。 一人の時間が欲しかった。弘明との今後を、じっくり考える時間が必要だった。  「悪かった」。  弘明は呟くようにそう言うと、リビングを後にした。  リビングのドアを閉める直前、弘明がちらりと朱里を見て舌打ちをしたことを朱里は見逃さなかった。  「はあ…もうダメかな」  朱里はもうとっくに冷めきってしまったグラタンにラップをして冷蔵庫にしまいながら独り言ちた。  今日は、二人の十回目の結婚記念日だ。  最近あまり会話をしていない弘明に少しでも喜んでもらおうと、朱里は気合いを入れてグラタンを作ったのだった。  はあ…。溜息が漏れる。何度、喉元に押さえつけても、溜息は止めどなく朱里を襲う。  「もう、潮時かな」と朱里は風呂場がある方角を見やり、寂しげな表情をして呟いた。  4月26日  「で、大事な話ってのはなんだ?」  弘明が朱里を見て言った。  天井から吊るされたシャンデリアが煌々と店内を照らしている。  中世の王宮をモデルに作られたこのカフェは、どこか落ち着いた雰囲気で満ちており、時の流れが緩やかに感じられた。 店員がアイスコーヒーを二つ、テーブルに置いてその場を去るのを待ってから、朱里はバッグから一枚の書類を取り出した。 透明なクリアファイルに入れられたその書類を見ても、弘明の表情に変化は見られない。 「これ、離婚届。私の欄は記入しておいたから」 そう言うと、朱里は少しだけ間をおいて続けた。 「あとはあなたのサインだけ」 朱里は弘明の返答を待った。ちょうど、断続的に流れていたBGMが途切れ、店内が静寂に包まれる。 弘明は一瞬、逡巡するような表情を見せたが、次の瞬間には決意を込めた硬い表情を作った。 「分かった」。 弘明は短くそう言うと、スーツの胸ポケットに手を入れた。何も出てこない。少しして、次はズボンの右ポケット、左ポケット、そして後ろのポケットに手を入れた。 先程までの決意の相好が徐々に崩壊を始め、焦りのインクで上塗りされていく。 その時になって、朱里は事態を理解した。 「この人、ペンを忘れたのか」。 もうこの人とは遠くない未来に他人になる。 付き合い始めた当初、結婚したばかりの高揚は霧散し、今ではどこに鳴りを潜めているのか杳として知れない。  こんな人に掛けてやる情けなんてない、と朱里は意地悪な気持ちで弘明の動向を眺めていた。  二人の間に奇妙な沈黙が流れる。  先程までの荘厳な雰囲気のBGMとは打って変わって、どこか陽気なラテンアメリカを彷彿とさせるポップな曲が店内に流れ始める。  「悪い、朱里。その…ペンを貸してくれるか」  弘明はどこかおずおずとした様子で朱里に言った。  頼まれれば断るほどでもないか、と朱里は自らのバッグから一本のボールペンを取り出すと、無言で弘明に手渡した。  「あっ…これ」  ペンを手にした途端、弘明が呟いた。 言葉にするつもりは無かったが、自然と漏れてしまったような頼りない声だった。  朱里も今しがた渡したばかりのペンを見やる。そして、はたと気づいた。  それは、まだ学生の頃。お金の無かった二人がなけなしのお金を出し合い、始めて買ったお揃いのボールペンであった。  朱里はある情景を思い出していた。  卒業を間近に控えた大学四年のある日、まるで迷子になった幼児のように弘明が駆け寄ってきた。  「朱里…。ごめん!あの、二人で買ったボールペン失くしちゃった」。  あの時の弘明の表情を脳裏に思い返す。それを引き金に沢山の楽しかった思い出が濁流のように押し寄せる。  しかし、朱里は意識的に心に堤防を築き上げ、それらの思い出をシャットアウトした。  もう、思い出す必要のない思い出だ。もう、私達は、以前の私達じゃない。   その時、弘明も全く同じことを思い出していたが、もう一度ボールペンに目をやり、書類に目を落とすと、ゆっくりと名前を記入した。  弘明の僅かな躊躇いを、二人の脳内を同一の記憶が駆け巡った事実を、その時の朱里は知る由もなかった。  4月30日  カフェでの話し合いの後、今日から一週間後に朱里がこの家を出ていくことが決まった。  朱里としても、弘明との接点を極力まで減らし、心機一転、新たな土地でスタートを切りたいと思っていたため、都合が良かった。  「荷物は私が勝手にまとめておくから」  朱里がそう言うと、よろしく、と弘明は答えるだけだった。  あのカフェで、一本のボールペンをきっかけに二人の間を流れた懐かしい思い出を、二人とも決して口に出そうとはしなかった。  油断をすれば、堤防を破壊し、心の奥底の氷塊を溶かしかねない甘美な思い出を二人は意識的に封じ込めた。  クローゼットを開け、衣類を段ボール箱に無造作に押し込める。  洗面台の鏡を開き、乱雑に置かれた化粧品をかき集めるようにしてポーチに詰めた。  「この家から、私の存在を、私がいた痕跡を一切残さない」と朱里は一人で立てた目標に向かって機械的に作業を続けた。  「朱里、少し休んだら。お茶でも入れようか」。  弘明が言った。  あのカフェから帰った後、弘明は少し優しくなった。最初は訝しがった朱里だったが、 それが離婚が決まったことによる諦念が原因であると理解してからは、朱里も努めて優しくあろうと心に決めていた。  「ありがとう、入れてもらおうかな」  朱里はそう言うと、絶え間なく動かしていた手を止め、腰を下ろした。  弘明がキッチンでお湯を沸かしている間、朱里はあえて観るまでもないリビングを、改めて見渡した。  既に片づけを終えた、リビングのドア側は段ボールの山が積み上げられ、単調さを讃えている。 しかし、その反対側はまだ日常の風景を色濃く残していた。  北海道旅行の時に撮影した二人の写真。写真の中の二人は、こんな結末が待っているなんて夢にも思わないような無邪気な笑みを浮かべている。  「ほんと、楽しかったね」と数年前までは二人ともお気に入りだったその写真が、今では風刺画のように何かを訴えかけてくる。  見渡す限りの全ての物に、二人の思い出が凝縮されていた。  「ああ、あっち側を先に掃除すればよかったな」と朱里は小さな声で呟く。  そして、雷に打たれたように、朱里は気付いた。  もしも、この家から完全に私の存在を消すことが出来たとしても、私の中から完全に弘明の存在を消すことなんて出来ないんじゃないのだろうか」と。  持っていく服一枚一枚に、弘明との思い出がこびりついて離れない。  気付いていたはずなのに、それらに纏わりつく、思い出という名の神出鬼没な虫たちを追い払うように、乱雑に扱っていた筈なのに。  朱里の目頭が熱くなる。決して崩壊してはいけなかった堤防が、音を立てて崩れだす。  もう止めることは出来なかった。目から無限に溢れでる名もなき涙を。  濁流のように勢いを増した、かけがえのない弘明との思い出を。   「朱里、お茶出来たよ。え?朱里?」  弘明は、朱里がテーブルに突っ伏し、嗚咽交じりに鳴いている姿を見て驚愕した。  俺がお茶を入れている間に一体何があったのだろう、と弘明は考える。  朱里が泣いているのを見るのは本当に久しぶりだった。  そんな姿を見ていると、こみ上げてくる二人の思い出に必死になって蓋をしていた自分が馬鹿馬鹿しく思えた。  「朱里?どうした?」  弘明は、心配そうに顔を覗き込む。  その時、朱里がバッと顔を上げると、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で言った。  「ねえ、弘ちゃん。私、私…別れたくないよぉ」  弘明は目を閉じた。 鋭利な、それでいて暖かく、柔らかいナイフで胸を貫かれたような心地に襲われる。 朱里が弘明を弘ちゃんと呼ぶときは、本心からの声であると、弘明は知っていた。  弘明は、もう二度と開け放つことの無いと、鍵を掛けていた心の扉を開け放ち、朱里を抱きしめた。  「ごめん、ごめんな、朱里ぃ」  二人はぐしゃぐしゃになった顔を擦り合わせて、泣き続けた。   「ねえ、弘ちゃん。あの写真。北海道旅行、楽しかったね」朱里が満面の笑みで言った。 写真の中の二人は、やっぱり「離婚なんて考えられません!」といった体で満面の笑みを浮かべ続けていた。   朱里(あかり)弘明(ひろあき)(よう)
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