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『惚れた女の為に死ぬ覚悟を持て。そうでないなら結婚するなよ……』
その男が教えてくれた言葉が染み付いている。しかし、船乗りの相手をするのは娼婦だけだ。
(こんな稼ぎじゃ、どうにもならないぜ)
未開の地で誘拐された哀れな奴隷を砂糖諸島へと運ぶ。こんな自分が尊厳なんてものを、どうやって保てばいいのか分からない。いつだって、どん底で生きている。食うのが精一杯。冬は嫌いだ。大好きな父が死んだのも、こんなふうに風の強い日だった。
死んだような曇り空が街を覆っている。煤けた街だが、それでも奴隷船よりはずっとマシなのだ。
☆
ちょうど、その頃、セシリは裏庭に面した薬草園の小屋の前にいた。悲痛な声が塀の外から聞こえてきた。泡立つような感覚が湧き上がりハッとなる。
「いやだ。ふだないでーーーーーーーっ! やめてーー」
ただならぬ様子に驚いて裏門から飛び出していくと、パン屋の主人のジョンソンという中年男が子供を押さえつけて背中を殴っているところだった。子供相手に何てことを! セシリの胸がズキリと痛む。
男の子の名はロイズ。顔色が悪くて痩せ細っている。上着もなく、ボロボロのネルシャツと膝丈の夏用のズボンという服装だった。小柄だが十歳になっている。
「頼むよ。ぶたないでおくれよ」
「てめぇ! ふざけんじゃねぇぞ! ほら、パンを返せよ。それは売り物なんだよ」
「許してよ! 母さんは腹ペコなんだよ!」
「それなら、おまえが荷担ぎの仕事でもしろよ」
荷担ぎの仕事なんて小柄なロイズには無理である。ハラハラしたように見守っていたセシリは我慢できなくなり割って入ると、悲痛な顔で訴えた。
「お願いします。許してあげて下さい。この子はお腹が空いて仕方なく盗んだのよ!」
「お嬢さん! こっちだって困るんだよ。これで五度目なんだよ。今回は、治安判事に引き渡しますぜ。ロイズ、さぁ来い!」
怖い顔つきでロイズの痩せた腕を引こうとする。
「ぐっ」
すると、ロイズはジョンソンの手に噛み付いて脱兎の如く逃げ出した。ジョンソンは追いかけたりはしないけれども大声で叫んでいる。
「ロイズ、てめぇ、今度、見かけたら牢屋に連れて行くからなーーー」
あれじゃ逆効果だ。ロイズは、ますます怯えて姿を消してしまった。このままでは駄目だとセシリは狼狽して胸騒ぎほ覚えた。
(ジョンソンさんは本気で怒っているのよ。いずれ、あなたは捕まるわ)
セシリはロイズを探そうと奔走するが、なかなか見当たらない。あの子は、きっと、どこかで怯えているに違いない。
「ロイズ、出てきて! 今すぐに、ジョンソンさんに謝るのよ! でないと、あなたの母さんも困る事になるわよ」
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