黒竜の騎士と運命の扉

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黒竜の騎士と運命の扉

 愛し合ったことを決して後悔したりはしない。たとえそれがあの方を苦しめることになったとしても。死してもなお、あの方の心の疵として存在し続けたいなどという罪深い欲をかいているのだ。おのれに罰が下されるのも無理はない。  男は両腕を拘束され、目隠しをされた状態で延々と歩かされた。唐突に静止を命じられ、膝裏を蹴られる。跪けと言うのだ。  乱暴な手つきで目隠しが取り払われる。数少ない松明の灯りで照らされた薄暗い広間は牢獄とも思えるほど飾り気がない。唯一、左右両側の壁に取りつけられた巨大な二つの扉が異質を放っていた。前方には、ゆったりと笑みを浮かべた王と、憔悴し白い肌を一層蒼白くさせた王子が並び座っている。  王から寵を受けた若き執政が居丈高に声を張りあげた。  二つの扉のうち一方を選んで進め、と。  ※  流浪の魔法剣士である男がこの国を訪れたのは偶然の出来事だったと王子は聞いていた。  その頃すでに、この国の王は贅沢を好み、おのれの欲望を満たすために民から搾取を繰り返し、諫言しようとした臣下を片端から処刑しているとの醜聞が諸国に流布していた。旅の途中で砂嵐に見舞われなければ立ち寄ることはなかったはずだ。たった数日、怪我を癒やし次の旅へ備えるためだけの滞在と決めていると男は言っていた。  そして同じく澱んだ宮廷の空気と暴挙を繰り返す父王に辟易としていた王子が男の存在を知ったのもまた偶然であった。外の世界の話を聞かせてほしいと直筆の召喚状を送り、王城へと招いたのはほんの気まぐれにも等しかった。  まったく異なる世界に生きてきた二人が、偶然の重なりにすぎない出会いによって恋に落ちると誰が予想しただろう。男は美しく精悍で、なにより王子が焦がれてやまない自由の風をまとっていた。男もまた、泥濘のような状況でわずかでも国を良くしようと心を砕く王子の姿に惹かれていった。  しかし現実は残酷だった。王家には血統を守るための絶対的な掟がある。王にとって直系唯一の後継者である王子を男の流れ者が誑かしたと糾弾され、男は王の定めた極刑に処されることとなった。  刑執行の時を告げられた王子は、男の命だけは助けてくれと王へ嘆願した。床へ額を擦りつける王子に対し、王は甘ったるい声で宣う。 「愛する息子よ、朕は慈悲深い。そなたが二度と同じ過ちを繰り返さないと言うのであれば、かの男には二つの道を与えよう。ひとつはそなたを忘れるほどの魅力を備えた美女を娶り、子を成して無罪放免となる道。もうひとつはこの国の守護者たる竜へその身を献上し、我らの加護の糧となる道。二つの扉を用意しよう。男に運さえあれば、望み通り命を繋ぐことだけはできるであろう」  狂ったように笑う父王を前に、王子は絶望に呑まれていく。  なにか手立てはないのか。  意識が遠のきそうになるのをなんとか踏み留まった。処刑までわずかな時間しか残されていない。  愛する男を救うため、そしてこの国の未来を守るため、進むべき道を決めなければならない。  ※  王子の緊張を孕んだ視線が右側の扉を示した。大袈裟なほど重厚に作られたその扉には、見慣れた竜の紋章――この国の王家の印が金で縁取られている。  男はひとつ頷き、ためらいもなく扉に向かって大股で歩き出した。両腕を拘束する魔導具をもつ兵士二人が男の歩みにひきずられるようにして付いていく。扉の前でようやく追いついた兵士たちは、こんな役割はごめんだとばかりに焦ったようすで扉の鍵を解除し、男を扉の内側へと思いきり蹴飛ばした。  そこは光が一切存在しない、静寂に満ちた空間だった。広いのか、狭いのか。深いのか、浅いのか。生きているのか、死んでいるのか。自分の存在すら溶け込んでしまう闇の中で、心臓の音だけがうるさく響く。  突然燃える炎のように真っ赤な瞳が男を正面から捉えた。二つの目はすぐ近くにあるようにも、はるか遠くにあるようにも見える。  男はかすかに笑みを浮かべた。 『なにが可笑しい?』  低い唸り声が大気を震わせる。憤りよりも目の前の男に興味を抱いたような響きを含んでいた。 「古より在りし叡智の守護者よ。私を引き裂き腹へ収める前に、ひとつ取引を願いたい」  男は輝く瞳から視線を逸らすことなく一歩前へ進み出た。片膝をつき首を垂れたとき、あたりは一瞬にして白い空間へと変化した。 『取引とやらがなんであれ、そなたを食う時間などいくらでもある。申してみよ』  確信を胸に顔を上げると、目の前には巨大な黒竜が鎮座していた。鱗一枚が人間の頭よりも一回り大きく、鉤爪は屈強な男の足よりも太い。男は大きく息を吸い込んだ。 「王を弑逆する。その手助けをしてほしい」 『……対価は?』 「貴殿の自由だ」  刹那の静寂の後、爆発とも思える熱風が男の身体を揺さぶった。竜が笑ったのだ。 『人間よ。我がなぜここにいるのか知らぬのか? 我は自らの意思でこの地にとどまっているのだぞ。代々の王は我の望みを叶えるために存在している。ここにいれば贄に事欠かず、対価として我は加護を与え続けているのだ。王を弑する理由などあるまい』 「ただし古に交わした契約に縛られている。そうだろう?」  ぐっと言葉に詰まるような仕草を見れば、竜が永い時を人間の近くで過ごしてきたことが窺える。 「貴殿と王家の契約は血筋によって継承されると聞いている。王を弑し、王子が契約を継承したとき、貴殿を自由にすると約束しよう」 『約束などと、笑わせるな』  くわっと開いた口の中から鋭い牙がぬらりと光った。 『契約は王が血縁者の中から選び証を与えるか、血縁者が自ら王を弑することでのみ継承される。そして我は加護を与えている王家に手を出すことはできない。弑逆にしろ契約の破棄にしろ、すべて王子とやらが行うことではないか。そなたとの口約束を信じる道理はない』 「王子が約束を守らなかったら……そのときは、私が王子を殺そう。そして私をも食い殺せばいい。王子に兄弟や子はおらず、王家の傍流はいるが契約の秘密について知るものは他にいないだろう。いずれにせよ貴殿は秘密が知られない限り自由の身ということだ」 『我が自由になれば、この地と民をすべて灰にすることもできるのだぞ。そうでなくても加護を失えばこの国は衰退の一途を辿るだろう。それでも構わぬというのか』 「構わない」  民の犠牲?  国の滅亡?  そんなもの知るか。  王子とはいかなるときも共に在り続けると誓い合ったのだ。たとえ数刻先に絶望が待ち構えていたとしても、このままあの方に触れるどころかまみえることすら出来ぬまま、こんなところで独り死んでたまるものか。  竜の瞳の中にある炎の色が青く変化した。男は決して動じてはならないと強く足を踏み締める。竜にとって人間の思考を読み取ることなど容易いということを、男は身をもって知っていた。 『ほう……そなたと王子とやらは、ただならぬ仲のようだな。やはり人間という生き物はなかなか面白い。だが今さら自由を得たとして我になにができよう? 仲間も絶えて久しい。そなたら人間は絶えず争いを繰り返し、加護をも打ち消すほどの汚れが大地を覆い尽くそうとしている』  竜もまた絶望の淵に立っていた。かつて栄華の象徴であったはずの存在も、諍いの火種となることを恐れた王の策により城の奥深くへと隠され、民の間では信仰心すら失われつつあった。悠久のときを経て無気力感が竜を支配しようとしている。  そんな竜を叱咤するかのように男が鋭い視線で竜を見据えた。 「貴殿のつがいとなる白竜がいる」 『なんだとっ?』  落雷にも似た叫びに頭の先から爪先まで痺れが走った。今にも男を呑み込みそうなほど凶悪な牙が目前に迫っている。 『どこにいるのか吐け。さもなければ吐くまで皮を剥ぎ生まれてきたことを後悔するほどの苦痛を与えてやる』 「私に拷問など無意味だ。それに私を殺してしまえば白竜は永遠に失われる。なぜなら白竜は私の魔法によって封印されているからだ」  そう、王子と深く愛を交わした夜、寝物語として語ったのだ。男が王に断罪されたときに王子が竜の扉を選択したのは、男に切り札があることを知っていたからに違いない。 『脅迫しているつもりか?』 「取引と言っている。私は王子とともに王を弑逆する。さすれば貴殿は自由を取り戻し、つがいを得ることができる。いかがか?」  竜はつがいを得て完全体になると言われている。ましてや絶滅寸前の一族を救う唯一の手立てに食いつかないはずがない。  響き渡る咆哮は歓びの声か、再起を誓う鬨の声か。 『くっくっく……よし、手を貸すとしよう。ただし約束を破れば――わかっているな』  頷くと同時に両腕の拘束具が消えた。目の前には竜の瞳と同じ真紅に輝く長剣が横たわっている。  ※※  晩年に暴虐の限りを尽くし狂王の異名で知られた王が最愛の息子の手によって斃れ、王子が玉座について早くも一年が経とうとしていた。  王子――いまや王となった男はバルコニーに立ち、早朝の爽やかな空気を胸に取り込んだ。かつては教育係でもあった年老いた執政が後ろで物音を立てずに控えている。  地平線から顔を出した太陽が広大な王都を照らし始める。眼下に広がる街並みは一年前の政変よりさらに以前からも何ひとつ変わっていないように見えた。実際、変わっていないのだろう。たった一年ではできないことの方が多かった。民衆にとっては王の頭がすげ替えられただけなのだ。  後悔はしていない。愛する男のために何百年もの間享受していた竜の加護を失うことの恐怖はあった。しかし父王の愚行を止め、民の声に耳を傾け、加護などという不確かなものに頼ることなく国を繁栄させていくことができるという自信も確かにあった。  ただ彼がそばにいてくれたならば。  王はため息を吐き、部屋の中へ戻ろうとした――その時。  びゅうと風を切り裂く音に驚き振り返る。朝日を背に大きな影がみるみる近づいてきている。  慌てふためく近衛兵や侍従たちをよそに、王は欄干の外へと身を乗り出した。  そこには黒と白、一対の竜のつがいがいた。そして二匹の間で小さな黒い竜が楽しげに飛び回っている。  巨大な黒竜の背からひとりの男がひらりと飛び降りた。警戒を強め剣を抜く兵士の間を王は駆け抜けていく。 「陛下!」  懐かしい声だった。出会った頃よりも荒削りになったとはいえ、美しく逞しい姿は変わらない。腰には竜から賜った真紅の剣を佩いている。竜の背に乗り王子と共に狂王を廃した男を、この国の民は誰もが畏怖を込めてこう呼んでいる――黒竜の騎士、と。  厚い胸へと飛び込み、思い切り拳を叩きつける。 「遅い、遅すぎるぞ!」  振るい続けた腕は次第に力を失い、不平の言葉は嗚咽に取って代わった。 「申し訳ありません……でも文句は私の心臓を担保に使った黒竜に言ってください」  男の気安い調子に王は思わず宙に浮かぶ黒竜を見上げた。竜はふんと鼻を鳴らしたきり、じゃれつく仔竜を相手にするのが忙しいとばかりに視線を逸らす。  王子が王となり竜との契約を破棄したのち、竜は魔法で男の心臓を奪いつがいの元へと案内させた。封印を解けば元通りにすると言ったはずだが、一族の存続を切実に願う黒竜の思いにほだされ、白竜とつがいになり仔竜をもうけるまで面倒を見るはめになったという。 「まさか竜があれほど子煩悩とは思いませんでした」  しかし貴重な体験ができたと笑う男を王は睨みつけた。 「おまえは私よりも竜が大事だったというのか。私がこの一年間、どんな思いで朝を迎えおまえを待ち続けていたと――」  言い終えるよりも先に男が王の唇を塞いだ。狂おしいほどの熱情を隠すことなく、貪るように求め合う。  背後から聞こえた執政の咳払いで王は我に返った。 『王よ。そなたのつがいには一年前の取引で決めた以上の働きをしてもらった。我らは善き竜、導き手である。相応の礼をするつもりだ』  巨大な二匹と小さな一匹が天高く舞い上がる。目覚め始めた王都の人々が空を見上げ驚きの声を上げている。 『そなたらが求めるとき、いかなるときでも我らは手を差し伸べよう。王よ、そなたの治世が泰平であらんことを』  多くの民が王へと祝福を与える竜の姿を目にすることとなり、民は王と竜へ一層畏敬の意を抱くようになった。王は敬虔な祈りをもって竜を祀り、その治世は歴史上でも隆盛を極めたものとして記録されている。  王に実子はおらず、養子とした男児が王子となった。皮肉なことに竜との契約を失って以降、血縁によらず資質をもつ者が王として選ばれ、国を繁栄へと導いたという。その中には時折、竜と縁を結ぶことのできる人間を自らのつがいと呼び、伴侶とする王がいたのだった。 (了)
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