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「あらら、大丈夫ですか」
「心配ないよ、志穂。今日も元気にくたばってるよ」
「そう、ちゃんといつも通りね」
わずかなくぼみにつまずきかけた夫の武明は、差し伸べた私の手をとる。
軽口をたたけるならば問題ない、と思いたい。
さんさんと太陽の光が降り注げば木の影を踏みながら歩く。
雨が落ちてくれば夫が傘を傾けて寄り添ってくれる。
忙しかった夫とは何十年も一緒に歩くことがなかったから、今は幸せを噛みしめている。
かけがえのない、穏やかな日々。
日本では、こんな慎ましい生活も当たり前とは言えなくなってしまった。
夫が微笑んでいるのは嬉しいけれども、頑固な苦い顔をしていた頃が懐かしく思えることもある。
繰り返し起こる地震で、私たちは長く親しんだ住処を追われた。
追い撃ちのようなコロナの感染拡大は、私たちの足や心までも止めてしまった。
こうやってどうにか気持ちの整理をつけて、海辺を散策できるようになったのもごく最近のことだ。
外壁に洒落たモザイクタイルがあしらわれた集合住宅は美しいが、どこか寒々しく隣人を隔てる。
昨日出来ていたのに今日は出来ない、年を重ねてそんなことが増えてきた夫を見守ってくれる人がどれだけいることだろう。
私にしても、動くたびによいしょ、あいた、と日増しに掛け声のバリエーションが豊かになってきた。
その日常を、陽が射しこむように変えたのはテレビ番組だった。
何のことはない、お菓子を作る場面を取り上げたクイズ番組だったが、夫の目は画面に吸いついて離れない。
ああ、と私は息をつく。
夫は腕のよい菓子職人だった。
勤めていた工場は跡形もなく流され、月日は過ぎて懐かしいお菓子を目にする機会はなくなっていった。
画面に映った大きな回転する釜の中で、絶えずかき回される小さな粒に合わせ夫の大きな節くれだった手が上下する。
近頃では見ることがなくなっていた眉間のシワ。
この人の手はどこまでも働きたがっている。
私はふと思いついた。
きっとまだできることがある。
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