昔のお話 其の壱

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目覚めると、長老の木の根元に、仰向けに倒れていた。 日が暮れた後、真っ暗闇の中。あれからどれだけの時間が経過したのか、見当がつかない。 級友たちは、もう姿を消している。 ()()の姿も見えない。どこかへ掻き消えた。いや、最初から存在していなかったのか。自分は幻を見たのか。 その時ふと、微かな臭いが鼻についた。 ああ、あの子の。あの子猫の臭い。少し腐乱したような。 節夫は、痛む上半身をゆっくりと起こし、両手で身体を支えた姿勢で、しばらくぼうっとした。 涙が滂沱、溢れた。 子猫が。子猫が。 可哀想に。痛かったろう。可哀想に。 いや、羨ましい。あの子はもう、痛みも悲しみも感じない。懐かしい、生まれる前の国へ帰ることができたのだ。羨ましい。 自分も、そちらへ行きたい。お父ちゃんもいる、あちらの世界。連れて行ってほしい。 先ほど見た、異形の()()を思い出す。たとえ、あの化け物でもいい。連れて行ってくれるならば。 その瞬間、強い視線を感じた。 例の、強烈だが、愛に満ちた温かい視線。坂道の登り口辺りの家の影から注がれていた、あの視線。 「お父ちゃん!」 節夫は思わず知らず、そう叫んだ。叫んでから、はっとした。そうだ、あれはお父ちゃん。 迎えに来てくれたのか? 節夫は辺りをきょろきょろと見回した。それらしき人影は見当たらない。もっとも、ほとんど闇と言って良い暗がりの中、人がいても見えないのは無理もなかった。 それでも、その気配は続いた。それは、節夫が痛む身体を引きずりつつ、家に着く直前の最後のまっすぐな道に出るまで、続いた。ずっと父親に守られているかのような安心感に包まれながら、節夫はゆっくり、ゆっくりと歩いた。家の前の一本道に入ると同時に、気配はふっと消えた。まるで、もう大丈夫だろう、とでも言うように。 静かに戸を開けて家に入ると、玄関に母親が仁王立ちしていた。その瞬間、その怒りに満ちた顔は、()()よりも怖い、と思った。 「どこへ行っていたの!」 首をすくめて怯える節夫を母親はまじまじと見つめた。その表情が一変した。 「どうしたの!」 傷だらけの顔。血と泥と涎で汚れた着物。 「うわぁーん!」 節夫は堪らず、突っ立ったまま、泣き出した。今の母親は、流石にいつもと違う。今の母親の前でならば、泣ける。本能的にそう感じた。       ***
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