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母親は驚いた顔で絶句した。
「あのね、お父ちゃん、あの世からおらを助けに来てくれた。」
すると、母親の表情が、瞬時に緩んだ。母親のそれは、かすかではあったが、確かに笑いであった。どれだけぶりだろうか。
が、その笑いには、どこかしら皮肉なものが──あるいは怒りだったのかもしれないが──含まれているような気がして、節夫はまた身を固くした。叱られる! また馬鹿なことを言ってしまったから。
意外なことに、母親の口調は静かだった。が、どこかしら威圧感を伴った穏やかさであった。
「あんたのお父ちゃんはね──生きてるんだよ。」
「!」
「ああ、そうだよ、生きてるのさ。ただ、お母ちゃんとは、離縁しただけさ。分かるかい、離縁?」
「…。」
意味は何となく分かったが、胸が一杯になって口が開けなかった。
「つまり、もう家族じゃない、もう一緒に暮らさない、って決めたってことさ。」
「…。」
切なさに涙が溢れた。
では、自分は何? お母ちゃんは家族。お父ちゃんも家族。でもお母ちゃんとお父ちゃんは家族ではない。いや、自分もお父ちゃんとは、もう家族ではなくなった?
「ただね、あの人はこんなところにはいないよ。遠くの地方へ引っ越して行ったからね。だから、それはあんたの見間違いだよ。」
嗚咽が漏れた。遠くへ行った。もう自分には会いに来てくれない。会いに来る気もない。生きているのに。家族じゃないから。
泣きじゃくる節夫に、母親は厳しい表情を取り戻し、
「さあ、いつまでも泣くんじゃない! こんな離れに勝手に入り込んで! こんなところに。こんな、こんな…穢らわしい!」
何故かだんだんに激昂してくる母親。穢らわしいとは?
聞こえる。
あの音。あのリズム。
…ど どんば どん、ががん ど どんば どん、ががん ど どんば どん…
背中の方から。
懐かしい。
連れて行って欲しい。とても懐かしい世界へ。お父ちゃんのところへ。苦しみも悲しみも何もないところへ。
ふえーん、ひいーん。
頼りなく細い泣き声を上げながら、彼は、耳元に鳴るお囃子を聞いていた。
ががん ど どんば どん、ががん ど どんば どん──
すこし浮き上がったようにも感じられる自分の身体。
視界全体を覆う生ぬるいオレンジ色。
懐かしい祭囃子。
右耳に吹きかかる、生臭い吐息。
節夫の意識がふっとぼやけ、そのまま連れて行かれそうになった。いや、連れて行ってもらえそうになった。連れて行ってほしいと思った。
次の瞬間、節夫の身体は、はっきりと空中に浮き上がった。母親の目の前で。
ああ、これで逝ける──。
母親の驚いた顔が、作り物のようだ、と思った。
そのまま、窓から外へ浮遊して出た。
***
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