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窓から外へ、宙を飛ぶ。
小さな離れも、大きな母屋も、みるみる下方へ遠ざかり、後方へ飛び去って行く。
田園、空き地、普段登校時にたどる道が、遥か下に、次々と流れて行く。
心地良い風が頬に、全身に当たる。
それは自分の背後に回り込んでいるのか、その姿はみえない。背中から抱えられている感覚もない。超常的な能力で、節夫に手を触れることなく、運んでいるのかも知れない。
ああ、これでおさらばだ──
すべての悲しみとさようならだ。
何故か、笑えない。この世におさらばできる。その思いは自分にきっと歓びをもたらすに違いないと思っていたのに。素直に笑えない。それは、強く吹き付ける風に顔が強張っているからばかりではなかった。
ほんの一片の気懸かりが、心に引っ掛かっている。
やがて、見慣れた丘の、長老の木を通り過ぎ、おケラ様の祠を通り過ぎ──
節夫の身体は、海岸に出た。
水平線に沈む夕陽。辺りは一面、濃いオレンジに染まっている。
波打ち際の崖の上に立ちすくんだ節夫は、立ったままで、少しずつ意識が薄れていくのを感じた。
暖かい、強烈なオレンジ色に満たされて。
前方の海の上に、それの巨大な顔が。
斜めに傾げたその顔の両眼から涙を滔々と流しながら、うっすらと微笑んでいる。親しみ深い温かみ。信じ難いほどの安らぎ。
次々と湧き上がるイメージ。
子猫。か弱く鳴いている。眼つきだけは鋭く、こちらを睨むように見据えて。
次の瞬間、子猫は少年たちによって何度も地面へ叩きつけられ、その度に激しい悲鳴を上げた。
ギャーーッ!!
断末魔の声を最後に、静かになった。
ああ、ああ、無になった。いなくなった。苦痛すら感じない世界へ。
節夫の身体も、少しずつ少しずつ、破壊されてゆく。静かに、優しく、破壊されてゆく。手足の末端から順々に。痛みも苦しみもなく、ただ淡々と壊れてゆく。黄泉の国の住人にふさわしい状態へと。
学友たち。先生。
お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、妹──
お母ちゃん!
さようなら、お母ちゃん。おらがいなくなったら、せいせいするの?
手足の末端から、少しずつ破壊され、無になってゆく身体。いや、それと一体化しつつあるのかも知れない。
お父ちゃん──
父親を想った時、節夫の両目から涙が溢れ、抗い難い切なさの波に襲われた。
お父ちゃんに会いたい。
高い高いをして、そのまま強く抱きしめてくれた。暖かく包み込んでくれた。
お父ちゃんに会いたい。
あの世に行ったらもう会えなくなるのだろう。だってお父ちゃんは生きているのだから。お母ちゃんがそう言ったではないか。
ががん ど どんば どん、ががん ど どんば どん、ががん ど どんば どん、ががん ど どんば どん…
次第に大きくなる祭囃子。耳を覆いたくなるような大音響になった。目の前の巨大な顔も、さらに大きく、近くなり──
お父ちゃん、助けて!
声にならない叫びを思わず上げていた。その途端。
目の前の巨大な顔が、父親の顔に変わった。
節夫、節夫──
記憶にはない、しかし疑うべくもなく父親に違いない、その穏やかな懐かしい顔が、優しく呼びかける。
こっちへおいで。いい子だから。さあ、おいで。
ああ、あれはお父ちゃんだったんだ。今までどうして気づかなかったんだろう。ああ、お父ちゃん、あんなに大きい、優しいお父ちゃん。今行くよ。
その時、巨大な父親の顔が苦痛に歪んだかと思ったら、そのまま急速に縮んで小さくなり始めた。
そして最後に、ふっと消えた。
右耳の後ろに生臭い臭いがして、節夫には、それの存在がはっきりと感じられた。視界には入っていないそれが、微かに皮肉な、淋しそうな笑いを浮かべているのが、何故だかはっきりと分かった。
その気配が完全に消えると同時に。節夫の意識も途切れた。
目を覚ましたとき、節夫ははじめ、視界にあるものが何なのか分からなかった。よく見ると、それは黒々とした雲を浮かべた、もう真っ暗に近い空であった。
節夫は、仰向けに、誰かの腕の中に抱かれているのだった。
誰か──
次の瞬間に、空を遮って視界に入ってきたその顔を一目見て、節夫は弱々しく呟いた。
「お父ちゃん…。」
***
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