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昔のお話 其の壱
叔母の咲子から聞いた話。
それはいつ頃のことなのか、はっきりとはしないが、人々がまだ木の香りの家に住み、時間が今よりもずっとゆったりと流れていた頃。
おそらく大正末期の頃の話。
その少年の名を、仮に節夫としておく。
彼の生まれ育った家は、大きな旧家であった。その家は、祖父母、母、妹と節夫の五人家族が暮らすには些か広すぎるようにも思える、立派な構えのお屋敷であった。
大きな母屋とは対照的に、ごく小さな構えの離れがひとつあった。
それは、母屋を出て、だだっ広い裏庭を突っ切った奥に、半ば草に埋もれて佇む、粗末な掘立小屋のような建物であった。
家族の者は、この離れには滅多に足を踏み入れない。
だが節夫にとっては、家人の目から逃れたいとき、一人になりたいときに温かく迎え入れてくれる、一種の隠れ家のようであった。
「朝から何を愚図愚図と! しゃんとしなさい。」
母は、何故だか節夫に厳しくあたる。今朝も、起き抜けに、可愛がっていたコオロギのうちの一匹が籠からいなくなっているのを知って、泣きべそをかいている節夫に、鬱陶しそうな一瞥を与えると、苛立ちを含んだ手つきでご飯をよそいながら、この台詞を浴びせかけた。
節夫の、茶碗をすぐ間近に見下ろす視界が、涙で歪んだ。
学校までの道のりは、とてもではないが平坦なものではなかった。ちょっとした丘を、一つ越え、二つ越え、かれこれ三つも越えなければならない。
毎朝、三つ目を越える頃には、節夫は冬でも汗びっしょりになり、涙やら鼻水やら、正体のよく分からないもので顔はグジョグジョになった。
それでも、三つ目の丘を登り詰めると、節夫の心に、何かしら温かい希望の光のようなものが灯る。丘から見晴らす風景、その遠くの端に海を擁して広がる光景が、彼に毎度、いつの日か入って行けるであろうどこか遠くの夢の世界を想起させるのだった。
そこにたっぷり十分ほどもたたずんでぼうっと心を開放してから、決まって溜息をひとつつき、それからようやく、ひとりふたりと彼を追い越して行った学友たちの背中を追って、学校に向かって丘を下り始める。それが毎朝の彼の日課であった。
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