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「お父さんは死んだんだよ。お前がまだほんの小さい頃さ。」
何度となく聞かされた言葉。
「それはもう、優しい人だったさ。でも死んじまってはどうしようもないさ。」
そんなとき、母親はいつも大袈裟にため息をつく。優しかろうが何だろうが、突然いなくなることで自分に大きな荷物を背負い込ませた男には違いないさ、とでも言うように。そのために自分がしてきた苦労なんて、誰も分かっちゃくれないのさ、とでも言うように。
そんなとき節夫は決まって、記憶の片隅にかろうじて薄く残っている父親の笑顔をぼんやりと想い出し、大声で泣きたくなった。高い高いをしてもらった時の、優しい笑顔。その後、強く抱き締められた時の、極上の安心感。大好きだった。
何が悲しいのか。
父親の想い出をほとんど持っていない自分が可哀想なのか。
若くして亡くなった父親が可哀想なのか。
その後苦労を重ねた母親が可哀想なのか。
それとも、母親の口ぶりから感じられる、父親への恨みの気持ちが切ないのか。
その全てか。
捌け口のないやるせなさを胸の辺りに漂わせたままでどうすることもできず、いつしかそれは、真っ白な和紙に染み込む泥水のように、節夫の心を土色に染めていった。
翌朝、愚図愚図と朝食を済ませると、節夫は気の進まない様子で、学校鞄を抱え、草履を履いた。妹はとうに学校へ行った。
今朝は、叱られすらしない。空気のように扱われることに、慣れている。
「…て来ます…。」
口の中だけでもごもごと発した言葉は、そのまま地に落ちる。もちろん返事はない。
背中から、母親のやるせない怒気を含んだ、熱っぽい視線がじっと注がれる。
「おい!」
学校に着いた節夫は、おはようの挨拶すらなく、いきなり肩を掴まれ、揺さぶられた。
「お前、放課後、丘の上に来い! 長老の木のところだぞ。」
***
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